★先週の大会教育委員会では、「子どもカテキズム」「信徒の手引き」の出版に向けて、最終的な段階に入ることができました。来年の今頃には、出版できそうです。善きものが、主と教会に捧げることができそうです。 ★8ページから7ページへ。先週の説教原稿の事です。説教、主日礼拝式・・・。教会の生命です。祈りましょう。
2章 見える公同教会
●第8条(見える教会) 見える教会は、旧約の下でも、新約の下でも同一であり、その構成員は、主イエス・キリストを信じる信仰を告白する者と、その契約の子である。
→私どもは、聖霊降臨祭を「教会の誕生日」と表現することがあります。確かに、キリストの体である教会が地上に姿を現した日です。しかし、真理の一面です。教会は、旧約においては、アブラハムの子孫であるイスラエルの民として存在していました。神の民としての教会の本質は、旧約時代も現代も同じです。教会員は、ここでも契約の子を数えています。旧約の教会では「割礼」、新約では「幼児洗礼」が与えられています。
●第9条(教会の統一性) 教会の統一性は、キリスト信者が幾つかの教派に分かれることによって、覆われてはいるが破壊されているのではない。御言葉と礼典を純正に保持するものは、すべて主イエス・キリストの教会のまことの枝として認められなければならない。
→教会は、11世紀、西方教会と東方教会とに分裂し、西方教会は、16世紀、福音主義諸教会が離脱し、分裂します。その後、福音主義諸教会は、数多くの教派として歴史をつくっています。つまり、地上において「教会の一つ性、統一性」は、目に見える形では実現していません。しかし、天上の教会、つまり、目に見えない教会は、ニカヤ信条で唱えている通り、唯一です。何故なら、神は唯一、教会のかしらでいらっしゃるキリストもお一人だからです。「聖なる教会」とは、神の教会を現し、「公同(カトリック)教会」とも言います。いつでも、どこでもキリストにまみえることができる教会の意味です。これらの特質は、すべて目に見えません。しかし、「使徒よりの」つまり、「使徒性」は、見えます。それは、聖書=使徒たちの教えを正しく継承しているという意味です。16世紀の教会改革運動とは、まさに真実の使徒性の回復を求めた運動でした。それを、説教と聖礼典の正しい執行と受領として定義し、それがなされているところに真の教会があるとしました。教会の標識・目印と呼びます。こうして、自分達こそ、公同教会であることを主張しました。ただし、確かに教会ではあっても、福音が純粋に語られ、聴かれていることによって、教会の「純粋性」に差が生じることを認めています。それだけに、私どもは、御言葉と礼典を純粋に執行して、キリストの体、キリストの福音のいのちと喜びの支配を映し出し、確立するために教会形成、教会生活に励むのです。
●第10条(教会の分在性) 見える公同の教会が、各個の教会に分かれて存在することは、聖書の例示するところである。
→当然のことながら、地上において教会は、神の民の居住地にあります。当然、一つの教会は、複数の教会として存在します。各個教会は、それぞれの時代、文化、民族という違いや、歴史によっても異なります。それは、マイナスではなくむしろ全体教会の益(豊かさ)になります。同時に、その一つ性を保持するために、聖書・信条・政治(職制、制度)の整備が必須となります。
第3章 教会権能の性質と範囲
●第11条(組織としての教会) 礼拝儀式その他の活動・役員・会議を持つ教会は、キリストが、御自身の民の教化と統治のため、キリスト教信仰の普及のため、また世界に福音を伝えるために定められた組織である。
→教会は、御言葉(福音)によってご自身の民を養い、キリストの恵みと支配を明らかにすべく、礼拝式、その他さまざまに目に見える組織を整えます。それは、内向きではなく、福音伝道を目指すためです。
●第12条(教会権能の性質) キリストが教会に与えられた権能は、全く霊的であり、教会をこの世の政治体から区別する教会政治体としている。この権能は、個人にではなく、教会全体に帰属するものである。
→国家などの共同体の権能は、肉体的な圧迫をも含んで行使されることがあります。(受刑者・・・)しかし、教会のそれは、徹底的に神との関係に関することであって、いかなる物理的圧迫をも加えません。教会の権能が誰に与えられ、行使するのか。そこに、それぞれの教会政治の特質が現れます。長老主義政治は、教職者集団のみにでも、会員の全員によってでもなく、教会に与えられた権能を役員が代理執行します。