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「主イエスの右に招かれる人」

「主イエスの右に招かれる人」
                2012年10月14日
             マタイによる福音書第25章31~46節

「「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
 

私どもの人間の人生は、ひとりの例外も許さず、完成するということは、できません。それは、早死にしてしまう可能性があるからというわけではありません。たとい、長生きできたとしても自分の人生のすべてをやり遂げることは不可能です。確かに、今日一日の仕事を終えるということはあります。しかし、自分自身を、人間として完成させるということ、つまり人生そのものを完成させることはできません。一言で言えば、私どもの人生は、ついに未完成で終わってしまうということです。

しかし、ここに一つだけ、例外があります。それは、主イエスご自身とその御業です。イエスさまのお仕事、神さまの御業には、未完成がありません。始めたのはよいけれど、途中で放り出すということはありません。神さまだけが、ご自身のなさっておられることを完成するお力があるのです。完璧に仕上げる力があるのです。

神は、天と地を創造されました。つまり、完成されました。神が最初に造られた世界は、完全で、完璧な美しさがありました。ところが、その世界は、悪魔と人間によって破壊されてしまいました。こうして今の世界は、悪魔と人間の罪が力をふるっています。世界のあちこちに、争い、憎しみ、殺人、盗み、偽りがあります。いへ、身近なところにも同じようなことが起こっています。それは、人間のむさぼりの心、自己中心的なふるまいのせいです。しかし、神によってまったく新しくされる世界からは、悪魔と罪がすべて追放されて、愛と喜びと平和が支配します。イエスさまが王さまとして治めて下さるからです。神と神の子どもたちだけの支配が始まるからです。この世界は、美しい世界に変貌され、神と共に、神の家族とともに永遠に神を喜び、お互いを喜び、苦しみと悲しみから解放され、愛と平和に包まれた人生を、本来の人間らしい世界を始めることができるのです。それが、再臨のその日に実現するのです。主イエスは、地上に来られた時、すでにはるか将来のこの再臨の日について、懇ろに、丁寧に、何度も教えて下さったのです。ということは、つまり、どれほど、大切なことであるのかということです。イエスさまの救いの目標、ゴールは、私どもを地上にあって罪を赦し、神の子とするにとどまりません。最後の完成まで、天国へ、神の国へと導くのです。

さて、主の説教そのものを見てまいりましょう。「人の子」とはイエスさまのことです。主イエスが天の栄光、つまり、神の御子としての本来の栄光、つまり、私どもが毎日唱える主の祈りの結びの頌栄のことば、「国と力と栄」をもってこの地上に来てくださり、ご自身の国を樹立なされ、神の国の王座に着かれます。そして、その王座はまた法廷でもあると、主イエスは、教えて下さいました。32節では、すべての国の民が、イエスさまの前に集められます。当然、日本に住む民もまた集められることになります。そして羊飼いが羊と山羊とを軽々と見分け、それを二つの群れに分けて行くように、まことの羊飼いでいらっしゃるイエスさまは、ご自身のものである羊と、ご自身のものではない山羊とを軽々と分けられて行かれるのです。

そして、これは、来週もまた集中的に考えてみたいと思いますが、何によって分けられるのか、それこそが、この個所のまさに、決定的に大切な主張になっています。そしてそのメッセージは、特に、私どもの教会、つまりプロテスタントと言われる立場の教会にとっては、おそらく最も聴かなければならないメッセージなのだろうと思います。何故でしょうか。それは、なんとここで主イエスは、天国に入ることができる条件を、本当に貧しく、困窮のなかにある人にどのように接したのかということ、最も小さな者の一人に、どのように接したのか、ただそれだけなのだとはっきりと仰ったからです。つまり、神の国へと選び分けられるのは、教会の外における奉仕、愛の業、いわゆる愛の執事的な奉仕によるということです。苦しんでいる人を見過ごした人々は、「永遠の罰を受け、正しい人たち」つまり、苦しんでいる人の隣人になった人たちは、「永遠の命にあずかる」と、羊飼いでいらっしゃるイエスさまが宣言なさるのです。

それは、私どもにとって、ある意味で、うろたえてしまうようなメッセージだろうと思います。へたをすると、教会を崩壊させかねないような、ものすごいメッセージだろうと思います。なぜなら、教会の確信、そのよって立つ根拠、土台は、ただこの福音にあるからです。そもそも、私どもが礼拝式で学び続けているマタイによる福音書は、その名のとおりまさに福音を告げている書物です。福音とは、すばらしい知らせと言う意味です。キリスト教が伝えていることとは、この福音の一事です。それなら、福音とは、何でしょうか。それは、罪人が罪人であるままに、ただイエスさまを信じることによってその罪が贖われ、赦され、神の子とされ、永遠の命を受け継ぐことができると言う救いの知らせです。この驚くべき善き知らせ、言わば、幸福への招待、天国への招待状こそ、福音です。

ところが、実にここで、そのイエスさまご自身が、このマタイによる福音書の説教の結びにおいて、「人は、信仰によってだけ救われる」と仰っいません。わたしを信じるなら天国に入ることができるのだと、仰いません。確かに、既に第7章の21節で、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」と主イエスは語られています。

しかし、そうなりますと、いったいどちらが真理、本当の教えになるのでしょうか。確かに、マタイが説くキリスト教と使徒パウロの説くキリスト教とは、別のもののように言うおかしな聖書の学者がいます。しかし、私どもは、当然そのような愚かな議論に参加しません。ただし、それだけに、私どもはきちんと、この主イエスのメッセージから、まことの福音、真理を聴き取りたいと思います。そうでなければ、堅固な教会生活、信仰生活を送ることはできなくなってしまいます。

さて、しかし実は、ここで難しい議論をこねくり回す必要はありません。私どもは、ただひたすらにこの説教を語られた主イエスに目を注げばよいのです。素朴に、羊飼いになぞらえられた主イエスに目を注げばよいのです。
考えてみますと、とても不思議なことだと思います。何故、主イエスは、未だ、地上におられ、何よりも、未だ、十字架におつきになっていらっしゃらないのに、これほどまで、再び来られること、言わば、はるか将来のことを熱心に語られたのでしょうか。むしろ、今まさに、向かおうとしていらっしゃるご自身の究極の苦しみ、十字架そしてご復活について語られた方が、よいようにすら思います。しかし、まさに、そのためにこそ、ここで再臨の教えが語られるのです。十字架とご復活、これは、再臨において究極の救いの完成がもたらされるからです。

この説教を語られたそのほとんど直後に主イエスは、十字架につけられます。当然そのことを覚悟しながら、この説教を語られたのです。主イエスのお心の内にある思いはいかなるものであったでしょうか。そもそも、十字架に赴かれるのは、何のためでしょうか。それは、すべての人をご自身のみもと、つまり、神の国へと入れるためです。罪人である私どもは、罪あるままでは、自己中心の思いと言葉と行いで、人を傷つけ、自分を傷つける罪深い人間は、決して、聖なる神のいらっしゃる愛と平和の国に入ることはできません。これは、ありえないことです。しかしだからこそ、主イエスは、そしてこの御子なる神を遣わされた父なる御神は、どんな犠牲を支払ってでも、罪深い人間、罪人になってしまった人間を救おうと決意なさっておられるのです。そのためには、御子を人とならせ、その人間となったイエスさまを十字架の上で、私ども罪人の罪の刑罰を肩代わりさせること以外に救いの道はないのです。主イエスは、ご自身が私どもの身代わりになって神の怒り、永遠の刑罰を受けさせられることを、決意しておられるのです。

その犠牲の道は、「天地創造の時から」すでに備えられている道でした。神の子どもたち、神の羊たちのために、天地創造の時から「用意されている国」があるのです。そして、それを「受け継ぎなさい。」と祝福し、救いを宣言してくださいます。神は、永遠のはじめから人間を救い、人間と共に住むことをのぞまれたのです。そして、罪人になってしまった人間を、神が用意されている国、天国へ迎え入れるために、神のひとり子は、十字架の道を進まれるのです。そのような驚くべき神の愛、神のいのちをかけた愛、犠牲を伴う真実の愛がこの説教を生みだしたのです。主イエスは、私どもの羊飼いだからこそ、こう語られるのです。

私どもは、知っています。はっきりと、気づかされ、それを認めることができました。自分自身がどれほど、自己中心で、自分のことしか考えず、自分を優先してしかものごとを考えていないかをです。信仰生活のなかですら、私どもは、神を第一にしないで、自分を優先してしまうほどの、罪人の頭であることを、聖霊によって悟ることができました。つまり、私どもは、最も小さな者に眼を注ごうとしないで、何とかして、大きいもの、偉大なもの、人々から評価されるもの、誇れるもの、強いもの、そのような、人と比べて自分を大きくする、できる者と関わろうとして、生きる方向性を設定します。弱い人を、むしろ、自分がのし上がって行くために利用さへする、そのようなどす黒い心を自分の中に認めることができました。そしてこの罪を悔い改め、憎むことができるようになりました。

繰り返しますが、私どもは罪人です。罪人の頭です。しかし、主イエスは、そのような罪人の仲間となってくださいました。私どもの友となって、関わって下さいました。隣人となってくださいました。なんと、こんな私どもの身代わりに十字架で死んで下さいました。神の前で、もっとも小さな者である私どもの友となってくださったのです。

何故でしょうか。主イエスは、私どもを愛しておられるからです。理由は、ただそれだけです。神が、イエスさまが愛そのものでいらっしゃるからです。主イエスは、もはやこのままでは、決して天国に入ることのできない私どもを、ご自身が十字架で神の刑罰を受けて下さることによって、天国へ入らせて下さるのです。主イエスのお心は、私どもの救いです。天国に入らせることです。私どもをご自身の右側に、永遠に置いてくださることです。

再臨の教えの中で、白黒が付けられ、右と左に分けるのは、決して、イエスさまが、単なる非情な裁判官であるからではありません。私どもを、完全なる救いへと招き入れたいからです。だから、厳しい教え、説教となっただけです。 私どもは、ただ主イエスを信じるだけで、救われるのです。つまり、恵みによってのみ救われるのです。天地創造の時から、私どものために、天国は用意されていた、されているのです。その天国へと入るために、イエスさまは十字架についてくださいました。私どもの罪を赦し、神の子としてくださったのです。

私は、家族の中で最初のキリスト者です。初穂と言います。つまり、わたしの家族には、ひとりもキリスト者がいませんでした。しかし、今は、わたしの家族はみなキリスト者です。亡くなった父もキリスト者として召されました。子どもであるわたしがキリスト者になったということは、決して偶然のことではないと聖書は言います。天地創造のときから、わたしのためにも神の国が用意されていたのです。そうであれば、わたしの親、そしてわたしの子どもたちにも、羊飼いなるイエスさまが、主イエスの父なる神、したがって私どもの点のお父さまが親も子どもたちも、お見捨てになることは、通常、考えられないことだと思います。私どもは、神の恵みによってのみ、救われるのです。

先週、ひとりの長老さんが揮毫された書を個人的に頂きました。それを、今朝、礼拝堂の外の扉の上に飾らせて頂いています。そこには、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」という主イエスの御言葉に基づく、言葉がすばらしい筆致でしるされています。

天地は滅びると主イエスは仰せになられました。この世界とそこに生きる私どもの人生も、すべてのものは、過ぎ行くもの、滅びるものでしかないのです。しかし今朝、私どもはこの礼拝堂で、聖書のみ言葉の朗読、神の言葉の説教を聴くことができました。確かに、私自身は、なにをどう頑張っても未完成でしかない者です。しかし、今朝、ここで、神の言葉を聴いています。決して滅びることのない主イエスの御言葉を聴きました。単に、耳にしたというのではありません。信仰によって聴きとらせていただいたのです。そのとき、わたしどもに、このうえない幸いが与えられます。罪人であるままに、しかし、その罪が赦され、私どもの存在そのものが、滅びない者とされてしまっていることを、新たに悟ることができます。私どももまた、父なる神の子とされ、決して滅びない人間に変容されたのです。造り変えられたのです。天国を受け継ぐ者とされてしまったのです。

つまり、私どもは、自分が、最も小さな者の隣人となりそこなっているにもかかわらず、ただ、主イエスの愛、恵み、憐れみの故に、羊飼いなるイエスさまのもとに、呼び集められたのです。そのことを、単純に信じる者は、受け入れる者が、右に分けられるのです。

そして、右に分けられる者は、悟るのです。よい行いをしたからではなく、ただイエスさまがわたしの真実の友、よい隣人となってくださったから、天国の民とされた。だったら、わたしもまた、イエスさまの真実の友、主イエスの隣人となり続けて行きたい、当たり前のように、主イエスへの愛がわきでるのです。そして、主イエスは、ここで、こう語って下さるのです。わたしによいことをしたいのなら、わたしに愛を返そうとするなら、あなたのまわりの人に返して下さいね。あなたのまわりに、飢えている人、悲しんでいる人がいるはずですよ。

私どもは、うっかりすると、うわべだけを読んで、福音の真理を裏切る説教のように思ってしまうことがあるかもしれません。しかし、この説教を十字架につけられるイエスさまの言葉、私どものまことの羊飼いとしての救い主の御言葉として読みなおすとき、福音の真理は鮮やかに示されます。やがて、この説教を聴いた弟子たちは、小さな者に愛の業を行わなければ、天国に入れない、それが天国に入る条件なのだから、がんばって愛の業を実践しよう、そのようには思わなかったはずです。もはや、天国は自分たちの頭上に大きく開かれ、その光溢れる世界から、今の自分たちの地上の困難を見て、そして、主イエスを信じることは、主イエスがなさった御業を、自分たちの手で繋げて行くことだと受けとめなおすことができたのです。そして、神と人への奉仕に生きる教会、神を愛し、それゆえに最も苦しんでいる人を愛する教会として、出発したのです。

私どもは、確信してよいのです。信じるべきです。私どもは、羊飼いなるイエスさまによって、再臨の日に、右に置かれる者たちです。その確かな証拠が、すでに、この教会へと招き入れられているという事実にもあります。そうであれば、愛に生きることに失敗を重ねている現実にくよくよせず、もう一度立ち上がって、羊飼いなる主イエスに従ってまいりましょう。

祈祷
愛に生きることにおいて何度も挫折し、失敗する私どもです。しかし、そのような私どもを赦し、御言葉を語り続け、養い育てていて下さる主イエス・キリストの父なる御神、心から御名を崇めます。再臨の日、あなたを信じ従う私どもの歩みが、あなたの正義にもとづき、正当に審判されます。どうぞ、その日を覚えて、あなたの前で、隣人と共に、隣人のために生きる教会、キリスト者としてください。アーメン。