★ 先週は、全体研修会を1時から3時まで行うことができました。7名の委員おひとりお一人が、ご自身の献身の志を込めた発題をして下さいました。教会設立を目指す全体研修会は、これで最後となりました。ほとんど質問は出ませんでした。時間の関係もあったかもしれませんが、もはや、主が必要のすべてを備えて下さることを信じ、これまでの豊かな恵みを感謝をもって思い起こしつつ、踏み出す以外にないとの思い・・・と、受け止めさせていただきました。
☆ ある委員は、涙ながらに現在の牧会状況を分かち合って下さいました。教会役員は、仕える指導者です。仕えるとは、愛することです。そこには、「犠牲」が必ず求められます。自分のプライドや正しさにこだわっていれば、仕えることはできないからです。その意味で、隣人を愛することは、奇跡的なことです。神に「愛を求める」以外に成り立ちません。しかもその愛は、単なるヒューマニスティック(人間主義的)なものではありません。神の愛と義、赦しと裁きの双方をもって、共に神の御顔の前にひざまずこうとするものです。神の主権と栄光、神のご支配があらわされることを、共に祈り求めることが、牧会の働き、目標です。
★ 家族伝道。執り成しの祈りの第一です。先週、会員のお母さまが・・・。感謝!そしてご加祷を!
第6章 教会員 (先週の祈祷会で、第5章後半をパスしてしまいました。今週、学びます。)
第30条(教会員) 教会員は、洗礼を受け、その氏名が会員名簿に登録された者を言う。
2 教会員は、陪餐会員及び未陪餐会員に分けられる。 →洗礼を受け入会した者が会員です。そして、聖餐にあずかれる信仰告白者と幼児洗礼を受けた会員「とに区別されます。
第31条(陪餐会員) 陪餐会員は、主イエス・キリストを信じる信仰を告白し、正規の手続きを経て洗礼を受けた者、及び未陪餐会員で信仰告白を行った者を言う。
→正規の手続きとは、教理を学んだ後、試問会を行うことです。洗礼とは、教会員になることです。私事で
はありません。ですから、教会の公的信仰への同意が求められます。
2 信仰告白した会員は、聖餐にあずかる権利、子に洗礼を受けさせる権利、会員総会における議決権を含め、教会員としてのすべての働きにあずかる特権を持つ。
→第一に、聖餐にあずかる権利が挙げられています。それは、先週の説教で言えば、主イエスの右に招
かれることの先取りです。天国のいのちのまじわり、祝福が地上においてふるまわれ、これにあずかることです。したがって、聖餐を受けられなくなることは、私どもにとって最大の危機です。(戒規がその意味と効力を持つためには、信仰、つまり聖餐の意味についてのわきまえが必須です。聖餐なんて受けなくても、信仰は大丈夫・・・、と考えるとき、私的な信心になってしまいます。)
第32条(未陪餐会員と未受洗の信者の子) 信者の子は契約により教会の子供である。これらの子は、洗礼を受けた後、各個教会の未陪餐会員となる。
2 信者の子はすべて洗礼を受ける権利を持つ。しかし、洗礼の有無にかかわらず契約の祝福として、教会の管理・訓育・配慮の下に置かれる。
→信者の子は、皆、契約の祝福を受けています。洗礼の有無にか
かわらず!です。私どもの教会では、残念ながら、片親の理解を得られず、幼児洗礼を受けていない契約の子もいますが、教会の「管理・訓育、配慮」の下に置かれます。子どもたちが教会の中で、中心的な居場所を持てるように、もっともっと配慮と工夫が必要です。先週の、パン作りの奉仕、本当に感謝でした。
第33条(所属教会の変更) 教会員が所属教会の地域外に住所を移し、規則的に礼拝に出席できなくなったときは、所属教会に願い出て、出席を希望する教会に会員籍を移すことができる。
→転勤や進学によって母教会から離れる場合には、きちんと責任ある教会生活をつくることが大切です。そのために、会員籍を移します。ただし、1年や数年で戻ってくる場合は、状況を慎重に判断します。
2 高齢またはその他の理由により、本人の意思を確認できない教会員の所属変更については、小会または宣教教師がこれを配慮する。
→「本人の意思を確認できない」残念ながら、複雑な理由によってこのような事態が起こります。法治権を
持つ小会また宣教教師は、「管理・訓育・配慮」の責任を主から委託されていますから、それぞれの事情に即し、慎重の上にも慎重に、祈り深く、牧会的配慮を行います。意思を確認する基本は、膝をつきあわせるような対話の場です。