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「福音にふさわしい生き方」

「福音にふさわしい生き方」
                2012年11月25日
            マタイによる福音書第26章6~13節

【さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」 】

今朝は、四つの福音書のすべてに記されている大変有名な個所を読みました。ナルドの香油を注いだ女性の物語です。讃美歌にも歌われていますから、その意味でも、多くの方々に、とりわけ女性には、忘れがたい物語ではないかと思います。今朝は、マタイによる福音書において、この物語からのメッセージを聴き取りたいと願います。

さて、主イエスは十字架につけられようとする直前、重い皮膚病の人シモンの家におられました。ここで重い皮膚病と訳されている病は、当時の人々にとって、大変に恐れられていた病気でした。伝染する病気として考えられていたからです。したがって、この病にかかった人は、社会生活から排除されるばかりか、家族からも捨てられてしまう場合が少なくありませんでした。主イエスが死の直前まで、赴かれたのは、まさに、当時の最も小さな者の一人のところなのです。先週まで4回に渡って学び続けたあの説教を、主イエスご自身が、実践し続けておられるということが分かります。

主イエスは、シモンにこのように仰ったと思います。「あなたは神に見捨てられた人ではありません。あなたは、神に愛され、神に顧みられている人です。この私があなたのところに来ました。このわたしがあなたの隣人となっています。だから、もう、心配することはありません。あなたの将来は、まわりの人たちが決めつけているような死と滅びでは決してありません。あなたの将来は、わたしの父なる神の国の希望と喜びに満たされるのです。」

さて、そこに、一人の名もなき女性が入ってきます。そして、あっという間に、「極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけ」ます。極めて高価な香油です。マルコやヨハネによる福音書によれば、300デナリオンと言われています。1デナリオンは日給に相当する金額と言われていますからざっと300万円になるでしょうか。おそらくこの香油は、彼女の全財産であったのだと思います。当時は、現金ではなく、このような仕方で貯蓄していたのです。

あっけにとられていた弟子たちは、しかし、怒り始めました。厳しい顔つきで批判するのです。「もったいない!何故、こんな無駄遣いをするのか!確かに、これは、あなたの財産だから、他人がどうこう言うことはできない。しかし、あなたは、イエスさまの弟子であろうとしているでしょう。だったら、何故、こんな愚かな無駄遣いをするのか。これほどの高価な香油であれば、高く売って、貧しい人々に施すことができたはずだ。なんと、あなたはお金の使い道をわきまえていない。」このように批判したのです。もしかすると、彼らはさらに、このように言ったかもしれません。「イエスさまは、貧しい人々に施すことが大切だと教えて下さったのだ。それは、イエスさまにして差し上げることにもなるのだと教えてくださった。それなのに、イエスさまをびしょびしょにするほど香油を注いで、それで、お喜びになられるとでも考えているのか。」つまり、弟子たちは、自分たちこそ信仰の真理に基づいたまっとうな考え方をしていると確信しているのです。正義にかられて怒っているのです。

確かに、この意見は、「正論」かもしれません。常識的に考えれば、多くの方々が納得されると思います。しかし、だからこそ、深く立ち止まって考えたいと思います。彼らの考えにこそ、福音をないがしろにしてしまう危険が潜み、福音の中身を空洞化してしまう誘惑が紛れ込むのです。

さて、この正論、この圧倒的に多数派が支持する考えに、ただ一人、決して、うなずかない人がおられます。その批判に断固くみしない人がいます。それは、頭の先から足元まで香油で、びしょびしょになってしまわれたイエスさまです。主イエスは、仰せになられます。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。」主イエスは、ここではっきりと、「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」と宣言されました。事実、四つの福音書のすべてに彼女の行為が記録されています。それは、主イエスが、彼女の信仰に基づく決断と行為に、信仰の基本、その真髄が見事に証されていると受けとめておられるからです。

それなら何故、主イエスは、この女性の行為を称賛なさったのでしょうか。何故、貧しい人々に300万円の義捐金を送るより、イエスさまに香油を全部注ぐことが、正しいことになるのでしょうか。福音にふさわしい応答となるのでしょうか。主イエスは、はっきりと、ただ一つの理由を明らかにされました。それが、「わたしを葬る準備をしてくれた」ということです。この御言葉によって浮き彫りにされる厳しい現実の姿があります。

先週のおさらいにもなりますが、主イエスは、この直前に、少なくとも三度目になりますが、ご自身が十字架につけられること、処刑されることを公然と予告なさいました。マタイによる福音書には、三度、十字架と復活の予告が記されています。しかし、3回だけしか語られなかったというように理解する必要はないと思います。主イエスは、少なくともペトロが弟子たちを代表してあなたはメシア、キリスト、神の子ですと信仰告白した時から、折々に、ご自身が十字架で殺されることを、語られていたのだと思います。

そして、遂に、その死の直前にもはっきりと予告なさったのです。ところが、この主イエスの苦難と死の予告を、なんと今もって、弟子たちはきちんと聴きとっていないことがここで改めて暴露されていまいます。主イエスと弟子たちは3年もの間、寝食を共にしながら、直に教えを聴きながら、しかし、肝心かなめのところで、主イエスの御言葉を聴き捨てたのです。聴き捨て続けていたのです。

マタイによる福音書は、その現実を、まさに正面から取り上げています。第16章で、ペトロが、あなたは生ける神の子キリストです。と信仰を告白したことに対して、21節にこうあります。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」このように、主イエスをいさめたのです。そんな弱気なことを仰ってはなりません。あなたが、十字架で殺されるなど、あってはなりませんと、主の御心を根本から否定したのです。

先週の説教でも私どもは、福音と人間のヒューマニズムの教えとは、似ているようで違うのだと学びました。キリスト者は人間的に評価され、正論とされ、大切にされていることをもっと深く、もっと根本から掘り下げて、突き抜けて、主に従わなければならないのです。私どもは、信仰の中に、忍びこんでくる信仰を口実にした自己正当化、自分の宗教的欲求や精神的欲求を満たすための信仰や教会生活を絶えず打ち破って進まなければなりません。十字架以前の弟子たちは皆、まさに自分の心の深いところで、イエスさまについて行けば、最後は、自分たちの願いがかなって、自分たちの立場が高められるのだと考えていたのです。だから、主イエスの深い御心、福音が入って来なかったのです。主イエスの説教、福音の説教がどれほど鮮やかに、明確に語られたとしても、しかし、聴き捨てられ、信じて受け入れられないということが起こるのです。

しかし、この名もなき女性は違います。彼女は、主イエスの説教をちゃんと聴きとった、言わば唯一の弟子なのです。十字架につけられる直前になって、弟子たちの誰もこの事実に向き合おうとしないところで、この女性信徒だけが、きちんとイエスさまの十字架の死に向き合っているのです。本来、この行為は、死者に、死体に施すものです。しかし、彼女は、それを先取りします。それによって、十字架が偶然のこと等ではなく、主イエスご自身のご決意に基づくもの、神の御心、救いの決意、ご意志であることが、見事に証されます。彼女のおかげで、十字架の意味、目的は、明瞭なものとなるのです。

言うまでもありませんが、主イエスは、高価な香油そのものを喜ばれたのではありません。彼女が、ご自身の説教、御心をきちんと理解し、それに応答してくれたことを、そのような彼女自身の真心と存在を心から喜ばれたのです。実に、この場面における信仰の正論とは、福音のただしい理解とは、貧しい人々に施すことではありません。主イエスの葬りの備えをすることなのです。そのようにして十字架に向き合うことなのです。

私どもは、今もそしてこれからもこの福音に基づいて、生きて行きたいと心から願っています。そして、それは、自分の信念とか主義に堅く立つことではありません。信仰とは、一瞬一瞬、神の御顔の前で生きることなのです。そのとき、信仰共同体である教会は、必ず教理の言葉を生みだします。信仰の道筋をきちんと整えなければならないからです。自分勝手、独りよがりな信仰はありえないからです。したがって私どもの教会は、信仰とは、教理を学び、それを身につけることだと言ってはばかりません。信仰に生きるとは、教理体得の道だと断言します。それは、福音の教え、主イエスの御言葉を生きることなのです。そしてそれは、教理の言葉を学ぶことによってしか始められないのです。

ただし、そこで誘惑が待ち受けます。悪魔の攻撃があります。それは、最近の言葉で言えば、原理主義への誘惑です。原理主義の方々は、とても信仰が強く見えます。確信にみなぎっているようです。しかし、よく見つめると、結局は、自分自身の考えを優先しているのです。人間が神になり変わって、神の御心を決めるのです。筋が通っていて、とても分かりやすいのです。白黒明瞭です。だから、確信に基づいて自信満々で、事をなして行くのです。何故そうなるのでしょうか。深く考えないからです。ただ、決まりごとに従って行くからです。信仰における合理主義です。単純化です。

弟子たちもまたそのまま行けば、原理主義へと転落しかねません。しかし、ここに一人の女性の弟子が登場します。彼女は、いわゆる正論の声に負けません。何よりここで、主イエスご自身が、この女性の行動を支持なさるのです。むしろ、彼女からこそ、学びなさいとお命じになられるのです。世界中で福音が証されるところでは、彼女の行動も語られて、福音に生きるとは何か、どのようなことなのかが、そして、十字架の重さと意味が鮮明にされて行くのです。

さて、今朝、そこで終わることは許されません。今この現実のただ中で、私どもは、主イエスに向かって、何をすればよいのか、それを問わなければなりません。私どもは、どのような奉仕、ディアコニアが求められているのでしょうか。私どもの300万円、つまり、宝を何に、どのように使うべきでしょうか。

わたしは、ここからは、むしろ、説教しない方がよいかと思います。ひとり一人が考えるべきことだと思うからです。これは、丁寧に申あげなければなりません。一人ひとりが考えなければなりませんが、決して、ひとりぼっちで考えるべきことではありません。教会では、そして信仰とは常に、共同体で考えるべきものです。共に考えるのです。皆で意見を出し合って、修正しあって、そのようにして深めあうことができます。

さて今朝は、やはりこのテキストに即すならば、ある程度、説教で担うべきでもあると思います。
かつてビルで伝道していたときのことです。ある未信者の不動産屋さんに言われたことがあります。「日曜日だけ使うために部屋を借りるのですか・・・。」その方は、その後は、仰いませんでした。おそらく、心の中で、こうつぶやかれたと思います。「贅沢だな。」それはよく分かります。商売をなさる方だったら、考えられないことでしょう。もとより、ビルの一室は、わたしの書斎でもありましたし、毎日のように個人的な学び会を行っていました。しかし、商売や経営のことを考えたら、教会のすること、その活動はなんと贅沢に映ることでしょうか。しかも、利益は生じないのです。

このような考え方をさらに推し進めて行けば、こうなって行くかもしれません。「キリスト教という宗教のシステムは贅沢だ。わずかの教会員のために、牧師という専門家が、その人生を捧げている。小さな教会だったら、二つでも三つでも合併してしまって、ひとりの牧師が巡回すれば、人件費が浮いて、むしろどちらも助かるでしょう。」さらに、こんなことも考えられるかもしれません。「キリスト教の信者さんたちは贅沢だ。毎週日曜日、礼拝を捧げるなんて、どうかしているのではないか。みんな、ほどほどに教会にかかわっているのだろうな。しかも、毎週の日曜日教会に行くだけではなく、献金もして、そればかりか奉仕活動もしているらしい。そんなことをしていたら自分の暮らし向き、仕事の立場など、どんどん厳しくなる。本当に、余裕のある人たちなのだな。贅沢な人たちだな。」
未信者の方々にとって、彼女の行為は、お金に苦労したことのない裕福な女性のおかしなふるまいとして、片づけられてしまうかもしれません。弟子たちは、まだましだと一応、言えなくもありません。貧しい人に施しなさいと言っているからです。しかし、私どもは、掘り下げなければなりません。弟子たちの考えも又、未信者と深いところで通じあっているのではないでしょうか。この世的な考え、合理的な考えに引きずられたのです。一般の人々から、文句を言われることはないでしょうし、むしろ、貧しい方々からは感謝されるでしょう。しかし、そこで私どもは、福音にふさわしい生き方ができなくなり、その土台を崩されてしまうことが起こるのです。

さて、今朝、否定的、消極的なことで終わらせるわけにはまいりません。現実に私どもの教会が、ここから何を学び、どのように行動すべきかということを問わなければなりません。それは、福音の真理にのみ価値を置くということです。彼女は、主の死、主イエスの十字架の準備をしました。それは、彼女が、主の御言葉をきちんと、まっすぐに心に受け入れたからであって、つまり、彼女は、このお方が、自分の罪を担って死んで下さるその救いの事実を見つめたのです。だからこそ、主イエスは、賞賛されたのです。それなら主イエスは、今、私どもがどのように生き、行動し、奉仕することを喜んでくださるのでしょうか。単純なことです。主イエスの十字架と死を常に覚えること、ここに集中することです。主イエスの贖いの御業、救いの御業、十字架を常に「記念」することです。私どもの全存在をもって、生活のすべてをもって、イエスさまを救い主、そして主と告白することです。今朝は、残念ながら聖餐の礼典を祝いません。しかし、説教では、礼拝式では常に、聖餐の食卓の主を中心にしているのです。この礼拝堂の空間そのものが、まさに、この食卓を囲んでいるのです。それは、主の救いの御業、犠牲に対して、私どもも真心から応答し、奉仕することを促しています。イエスさまは主、キリスト、神の御子でいらっしゃるという信仰の告白にいつでもどこでも生きることです。

衆議院選挙が始まります。右傾化の流れに巻き込まれる人々が圧倒的な多数派になろうとしています。既になっているのです。いよいよ、国家の意思として、キリストの教会が、キリストの福音に純粋に従うことを妨げようと挑戦してまいります。この現実に、向き合うことが大切です。あれこれ、妥協せず、この現実を乗り越えるように生きることです。主の日の礼拝式を怠らず、何よりも伝道において、イエスさまを主と証し続けることです。そんなことは、あなたの人生や家庭にとって、無駄ですよ。損ですよ。と言われても、それに負けないことです。私どもは、本当に価値あること、永遠に価値あることにあずかっているのです。救われているのです。この世と、そこに流されて行く方々は、永遠のことが分からない、主イエスが分からないから、自分の知恵を絶対化し、自分たちの価値基準で勝ち負けを判断し、うぬぼれたり、落ち込んだりするのです。

先週のおさらいをします。主イエスは、罪人である私ども、未決の死刑囚として牢獄に入っていた私どものところにやってきて、自らが牢獄に入られ、私どもをそこから解放してくださり、かわりに罪の刑罰としての死を十字架で死んで下さいました。このお方によって救われたのが私どもです。私どもは、すでにこのイエスさまのものとされているのです。主イエスを宿しているのです。隣人となって飢えを満たされ、渇きを満たされ、神の家に住むことが許されているのです。私どもは、すべてをそこから、考えるのです。主イエスが、罪人である私のためにどのような犠牲を支払って下さったのか、そこを規準にして、何が、善いことで、神に喜ばれることかをわきまえて行くのです。

ですから、私どもは、どんなにこの世の知恵や力で、主の日の礼拝式を軽んじるようにとそそのかされても、それを拒否します。どんなに、自分のすべてを捧げるとか、自分の全部をかけて行くことは、何の得にもならないからと教会生活は、ほどほどにしなさいとそそのかされても、それを拒否します。

最後の最後に触れておきます。私どもは、4回に渡って、もっとも小さな者にしたことは、私にしてくれたことなのであるとの主イエスの御言葉を学びました。今の私どもにとって主に従うこと、それは、礼拝であり、伝道です。しかし、それで終わりません。今ここから、私どもはそれぞれの持ち場に派遣されてまいります。そこでどれだけ、施しの業、愛の奉仕に参与できるかが問われています。教会は、礼拝だけしていれば、それで十分だと言うなら、その正論は、信仰のまことの正論ではありません。今、主イエスの代理として、私どもがそれをなすべき時だからです。

祈祷
主イエスよ、ナルドの香油を注ぐことで、あなたの葬りを準備し、また、あなたの十字架に感謝の真心を捧げた一人の女性を思い起こします。彼女は、あなたの御言葉を、自分の先入観や自分の考えを捨てて、聴きとったからこそ、そのようにできたのです。天の父よ、私どもの歩みを省みます。あなたのことを思わず、自分のことを優先しつつ、教会生活を送り、信仰生活を送ることは、結局、信仰ではなく、自己実現の道です。主イエスを裏切り、殺す道です。どうぞ、その恐るべき罪を犯すことから守って下さい。まるで正論であるかのように威勢のよい言葉が語られるとき、その過ちを見抜く知恵、福音による賢さを与えて下さい。何よりも、福音にふさわしく行動する生活を、生き方を整えて下さい。アーメン。