過去の投稿2012年12月2日

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★  先週は 長老執事御夫妻との豊かな交わりのときが与えられました。31歳で長老任職とのこと。「人材不足・・・?」と言われたことに発奮されたとのこと。31歳での長老任職は、空前絶後かもしれません。又、教会に仕えること、とりわけ長老として奉仕する事は、涙の労苦を担うことだということも証されました。ひとりの委員が、その「ストレス」にどのように向き合うのかと質問されました。「寝ること」と最初に答えられました。現在は、社長の立場。火曜日に頂いた礼状メールは、シンガポールからです。本当に、忙しい日々と拝察しますが、しかし、教会のために、中会のために献身しておられるのです。そこから深い慰めと喜びもまた得ておられるはずです。牧師として、このような長老がいれば、どれほど、勇気と励ましを受けることでしょうか。牧師と信徒(役員)は、召しと奉仕は異なりますが、「献身」の深さにおいては、牧師を越えることがあってよいはずです。おそらく、その教会の牧師は、さらに喜んで献身して、牧師の務めを担い、果たせることでしょう。

☆  執事からは、「コーヒーブレイク伝道」、信徒主導による伝道のための聖書を学ぶ集会について、分かち合って頂きました。日本キリスト改革派教会では、聖書を教える教師の働きが徹底的に重んじられます。 当然すぎることです。御言葉、教理が間違って教えられたら、教会はその中心から崩壊、溶解してしまうからです。しかし、福音派では、このような「帰納法的聖書研究」は、既に、数十年前から導入されています。わたしも大学生時代、これで学友を導いていました。しかし、もし、正しい教理の知識がない人が、この会を導けば、とんでもないところに行ってしまうでしょう。ですから、私どもの教会でも、先ずは基礎固めを徹底したわけです。しかし、今は、そのような消極的な所に立ち止まってはならないと思います。日本キリスト改革派教会とその信徒だからこそ、むしろ、ラクラクと、このような信徒による「伝道のための」(ここが最重要です。  それ以外の聖書研究は、信徒の誰もができるわけではありません。)聖書研究を担うことができるだろうと思います。先ずは、大学生から、一度、実際に経験していただきたい・・・、そう願っています。

★  昨日は、イエスさまのお誕生会に、愛知県立芸術大学学生5名、那加教会の子どもたち4名の幸いな奉仕を受けました。また、ろうそくづくりも大盛況でした。総計、87名の方々が集われました。地域の子たちも、集ってくれましたが、これまでのチョコやピカソの出席者も少なくなく、大変、感謝なときでした。

政治規準
・第36条(他住会員)小会または宣教教師は、教会員が所属教会の地域外に住所を移し、あるいはその他の理由で所属教会と積極的関係を続けることが不可能または困難となり、その事情を認めたときは本人に通知し、異議がなければ氏名を他住会員名簿に移さなければならない。以下、紙面の関係で、省略します。配布済みの条文をお読みください。  
→転勤、入学等で所属教会の地域外に転居するか、その他の事情で礼拝出席がかなわない方は、「他住会員」として登録します。聖書によれば、所属教会なくして信仰生活は成り立ちません。キリスト者であって教会籍がない・・・、これは、迫害下などの特別の事情の他、通常はありえないことであり、あってはならないことです。教会の交わり、又、法治権の外で、信仰生活をおくるなどということは、ありえません。それは、生きた信仰ではなく、ひとりよがりの信念になってしまいます。

・第37条(別帳会員)小会または宣教教師は、二年間住所不明の教会員、または二年間礼拝に出席せず、維持献金をせず、その他教会に関心を示さない教会員に対しては、復帰させるための努力を払った後、その氏名を別帳会員名簿に移さなければならない。 2 小会または宣教教師は、他住会員が会員籍を移すよう勧告を受けてから二年間これを怠り、これに関心を示さず、また所属教会に献金しないならば、その氏名を別帳会員名簿に移さなければならない。  以下省略。

・第38条(移籍手続き中の法治権) 移薄手続き中の教会員は、正規の移籍手続きが完了するまでは、その教会の小会または宣教教師の法治権の下に置かれる。 2 省略  

→別帳会員の制度、これは、弱い信仰者にとってまことに大切で、慰めに満ちた制度だと思います。一時、自分の罪や不信仰によって教会生活を止めて、交わりや礼拝式から離れることも現実にはあります。残念ながら少なくありません。日本の教会では、その半数が、受洗後数年で、教会を「卒業」するという統計があります。しかし、その中から、わずかながらでも、戻って来られる方が起こされます。私どもの教理で言えば、「聖徒の堅忍」です。その意味でも、教会は祈りと熟慮を重ね、別帳会員に名簿を移し、信仰の復興、教会への復帰を待つのです。