「知られていた裏切り」
2013年2月24日
マタイによる福音書第26章69~75節
【ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。】
今朝は、12弟子の中で、言わば筆頭弟子であったペトロが主人公となる物語を読みました。マタイによる福音書を読み続けてまいりました私どもにとって、このペトロが、どれほど大切な人であることは、明らかであろうと思います。何よりも、主イエスから最初に弟子としての召しを受けたのは、ペトロでした。4章に出てまいります。
マタイによる福音書が編まれた当時の教会にとって、既に、このペトロはまさに使徒の中で抜きんでた存在であります。使徒ペトロのことは、キリスト者であれば誰もが知っていたと思います。マタイによる福音書もまた、最初の弟子であり、主イエスから、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と召し出されたその言葉を告げています。そして、まさに、ペトロは網を捨て、つまり、自分のこれまでの仕事を捨てて、主イエスの最初の弟子として付き従った人です。その後、このペトロは最初に、「あなたは生ける神の子、キリストです。」と信仰を告白します。そして、主イエスから、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」とご自身の御心を示されました。そして、ゲツセマネの祈りにおいても、特別に主イエスのそばにおらせていただいた人です。いったいペトロほど、主イエスに愛され、深い絆、深い信頼関係で結ばれた弟子はいないと言ってもよいのではないでしょうか。
ところが、そのようなペトロたちが、主イエスから離れて行くことを、主イエスは前もって予告されます。26章31節以下です。今夜、あなたがたはみなつまづくと、旧約聖書を引いて、予告されます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。」父なる神が羊飼いでいらっしゃるイエスさまを鞭打たれる。するとそのとき、羊たちは逃げて行くという予告です。
ここでペトロがまっさきに声を挙げます。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」「イエスさまお言葉ですが、たとい他の弟子たちが躓いても、このわたしだけは、決して躓きません」こう、誓ったのです。主イエスに自分の真心と信仰の志の堅いことを訴えたのです。ところが、主イエスは、さらに踏み込んで、明確な予告をペトロに告げられます。「イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
いったいこのとき、ペトロは、主イエスがさらに強く、厳しく予告された言葉をどのように聴いたのでしょうか。鶏が鳴く前にということは夜が明ける前のことです。「鶏が鳴く」というのは、余りにも具体的な予告です。さらに、三度ということもいよいよ具体的な数字です。
このとき、ペトロもまた、いよいよ、強く宣言します。そうせざるを得なかったのかもしれません。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」死んでも、あなたとの関係がありませんなどとは言わないと誓います。そのとき、他の弟子たちも、声をそろえて、同じように誓い始めます。それは、そうでしょう。イエスさまのことを知らないというのは、イエスさまとは無関係であるということです。
そもそも、信仰とは何でしょうか。イエスさまを救い主、主と信じ、従うことです。もっとも大切なことは、イエスさまというご存在、ご人格です。
そして、信仰の実りとはいったい何でしょうか。信仰の実り、それは、救いに他なりません。それなら、救いとは何でしょうか。それは、神さまとの正しい関係、よい関係、ふさわしい関わりのことです。神とのふさわしい関係のために、絶対に必要なこととは何でしょうか。それは、私どもの神に対して犯した罪が赦されるということです。罪を赦していただき、無罪と宣言していただくことです。それが、神との正しい関係の基本です。このように、神との関係が結びあわされたそのとき、聖書は、「救われた」というのです。救いが起こるのです。主イエスさまが地上に来られたご目的は、ひとへに、父なる神と私どもとの関係を再び結び合わせて下さるためなのです。マタイによる福音書は、冒頭で、告白しています。イエスさまにおいて、神が人と共におられる救いの出来事が完全に実現しているのです。インマヌエル、神が人とともにおられる救いは、イエス・キリストにおいて実現したのです。そうであれば、イエスさまとの関係がなくなるとは、何を意味するのでしょうか。それは、ただちに、神との関係、父なる神との関わりがなくなるということです。もしも、このイエスさまを「知らない」「関係がない」と否定すれば、ただちに神との正しい関係は成り立ちません。イエスさまを否定すること、否認すること、知らないと言って関係を断つことは、私どもにとって死を意味するのです。単に肉体の死のことを意味していません。死とは、永遠の死、滅びを意味するのです。もしも、誰かが、生ける神の子でいらっしゃるイエスさまを知らないと拒絶するなら、もはや、救いの可能性はありません。したがって、このとき、弟子たちがイエスさまのことを知らないと言うと予告されたとき、どれほどの衝撃、どれほどショックを受けたことだろうかと思います。そんなことは弟子たちにとってあり得ないことです。あってはならないことです。冗談でも言って欲しくない、究極におそろしい言葉なのです。
さて、しかし今、予告通りに事柄が進んで行きます。ユダがやってきて、イエスさまは、武装した群衆に捉えられてしまいます。そのとき、弟子たちは蜘蛛の子を散らすようにイエスさまから離れ、逃げて行きます。ところが、ここでもやはり筆頭弟子のペトロらしい行動が記されていると思います。彼は、遠く逃げません。イエスさまがどうなって行くのか、ギリギリまで近づいて、様子を見ようとします。これは、勇気のいることであろうと思います。単なる好奇心などでは決してありません。何よりも、自分の心の中が混乱して、それを整理するためにイエスさまから離れてはならないと考えていたのかもしれません。
真夜中、ペトロは大祭司の宮廷の中庭にいます。焚き火くらいはたいてあったかもしれません。しかし、夜のしじまの中で、顔は、はっきり分からなかったでしょう。だからこそ、ぎりぎり、そこに入れたのだと思います。日が昇るまでの間の冒険だったでしょう。
そして、今朝、お読みした物語が進むのです。大祭司に雇われていた女中の一人が、ペトロに気づきました。そして、こう言います。「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。あなたは、イエスの知り合いだろうという感じです。弟子なのかどうかは、くわしいことは知らないが、あんたは、確か近くにいた男だねと言うのです。そこには、下働きをしていた人たちもいます。すると、ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。最初は、とぼけました。あなたの言っている意味が分からないと、とぼけます。
ペトロは、これはこのままこの庭にいるのは危険であろうと思ったのでしょう。門の方に行きます。いざという時、すぐに、逃げられる場所に移動するのです。すると、こんどは、他の女中が、ペトロに気づきます。まわりの人々に、告げます。「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。するとペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消しました。しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」おそらくガリラヤの言葉遣いは、都会のエルサレムの言葉とは、イントネーションが違ったのでしょう。方言に近い言葉もあったのかもしれません。そのときペトロは、呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。のです。「俺ら、しらね。」と言ったかもしれません。声を出せば出すほど、ガリラヤなまりです。だから、いよいよ、イエスなどは知らない、イエスなどという男とは、何のかかわりもない、そして、ついに、神に誓ってイエスなど知らないと言い放ってしまったのです。それは、ペトロの本意であったわけでは決してないと思います。しかし、今や、自分のいのちと主イエスのいのちを天秤にかけて、自分のいのちをとりました。そのいのちとは、まさに、肉体の生命のことです。これは、決して消すことのできない事実です。いかに極限のように恐ろしい状況であったとしても、それを割り引いても、筆頭弟子である、あったはずのペトロは、見事に、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と自分の真実の誓いを覆したのです。この罪は、消すことはできません。
さて、ちょうどそのときです。鶏が鳴きました。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。とマタイは告げます。さてこれは、どのような意味の涙なのでしょうか。男泣きに泣くのです。いったいどのような涙なのでしょうか。自分が、主イエスを裏切ってしまったことに対する涙なのでしょうか。自分のふがいなさにたいする涙でしょうか。この涙の意味を、厳密に一つだけ特定することは出来ないように思います。さまざまな思いが入り混じっていたのでしょう。確かに、自分のふがいなさに対する悔やむ思いがなかったとは言えないでしょう。しかし、マタイによる福音書は、告げます。主イエスの御言葉を思いだしたから泣いたのです。もしも、主の御言葉がなかったなら、男泣きに泣いたのでしょうか。とにかく、門の外に出て、身の危険を避けるために走り出して逃げるのではないでしょうか。
彼は、主イエスの予告の言葉を思い出したのです。つまり、彼は、自分が現実に裏切ってしまうことを、前もって主イエスがご存知でいらっしゃったことを、今更ながら理解した、理解できたのです。
それは、何を意味するのでしょうか。主イエスは、すでに裏切りをご存知の上でなお、ペトロを愛しておられるということです。そのことを、今まざまざと悟るペトロがいるのです。ペトロは、このとき、今更ながら、自分の裏切りを恥じたのだと思います。もしも、鶏がなかなかったら、泣かなくても済んだと思います。鶏がないて、主イエスの予告を思いだしたから泣いたのです。つまり、このときの涙は、主イエスの深い愛と憐れみを思い起こす涙です。そして、それだけに自分のあさはかな思い、主イエスを知らないと言ってしまった愚かさ、不真実を嘆いたのだと思います。
しかし、裏切ったことを後悔して自殺してしまったユダは、このような主イエスの深い愛を悟りませんでした。ペトロは、自分のおそるべき裏切りを、主イエスの赦しのなかで見つめることができたのです。
今、子どもたちのためのカテキズムを新しく作成しています。その中で、過去のカテキズムを改めて読み直しています。日本キリスト改革派教会の中で、子どもカテキズムの前に、長く用いられた教理問答書に、「初歩教理問答書」があります。その中に、一つ、実にすばらしい問答があります。第十一問として、こう問います。「あなたは神さまを見ることができますか。」「いいえ、わたくしは神さまを見ることはできません。けれども、神さまはいつも私を見ておられます。」わたしは、これは、秀逸な問答だと思います。信仰とは、神を仰ぎ見ることです。神に心を向けることです。顔をまっすぐ向けることです。それは、神を見る、仰ぎ見ると表現できます。信仰とは、信じて神を仰ぎ見るものです。しかし肉眼で神を見ることは決してできません。神は物質ではなく霊でいらっしゃるので、目に見ることも、手で触ることもできません。しかし、私どもにとってどうして、これほどまでに揺るぎなく、確かな現実存在でいらっしゃるのでしょうか。確かに私どもと共にいて下さるのでしょうか。それが分かるのはなぜでしょうか。それは、神がいつも私を見ておられるからです。神が、私を見失ってしまわれることがないことを、私どもが信じているからです。そこに、信仰の真髄があります。この初歩教理問答は、それをずばり、言い抜いたのです。
このとき、使徒ペトロは、主イエスがどなたであるのかを見失いました。ほぼ完全に、見失ってしまいました。そして、自分の目先の利害だけを優先しました。いのちが惜しくなったのです。イエスさまのためならいのちなど惜しくないと、本心から言ったペトロです。しかし、肝心のイエスさまが分からなくなってしまったとき、このイエスさまのために、いのちを差し出せないと思ったのです。しかし、そんなペトロを、主イエスはじっと見つめておられたのです。しかも、あるがままの、この裏切るペトロを見つめておられたのです。それはいうまでもなく、愛の眼差しです。赦しの眼差しです。赦しへと立ち返らせる、悔い改めへと導く眼差しです。神は、あるがままのこのペトロをご覧になって、その信仰がまことに信仰へと立ちあがらせるために、忍耐深く、憐れみ続けておられるのです。激しく泣いたのは、その神の、主イエスの愛の深さ、ふところの深さに対する思いであったはずです。そして、自分のふがいなさを真実に嘆くこともできたのです。
人は、このイエスさまに会うまでは、いつも自分を真実に見つめることができません。本当の意味で、罪の赦しの確信がなければ、人間は、神との関係のなかでリラックスできません。安定しません。少し、良いことができたとすれば、これで安心、これで大丈夫と思うかもしれません。そして同時に、まわりが気になって、良い信仰の行いが出来ていないと判断して、裁き始まるのです。逆に、福音の赦し、主イエスに知られている、赦されていることがしっかり分からないと、自分がよい行いができていないことで落ち込んだり、落ち込む自分じしんや落ち込ませる誰かを裁いたりすることもあります。
今朝、もう一度、私どもの信仰、キリスト教信仰、聖書の信仰とはいかなるものかを確認したいのです。私どもの主イエス・キリストの父なる神は、わたしどもの罪も弱さもすべてご存知でいらっしゃることを真剣に確認したいのです。そのように知られた上で、私どもが神の子とされている福音の恵み、罪赦され、イエスさまの弟子とされている恵みの福音を確認したいのです。その意味において、私どもも神さまの前で、激しく泣きたいのです。主イエス・キリストの父なる神の前で泣くことができるのです。
このような涙を流すとき、まさに、主イエスが山上の説教で語られた御言葉を思い起こすことができるでしょう。「悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。」そして、このペトロは、慰められる幸いをやがてさらに深く知ることになります。お甦りになられたイエスさまのこの上ない赦しと愛を受け、自分の罪を赦され、罪によって傷ついた自分の心をちゃんと癒されるのです。それこそが慰めです。圧倒的な神の愛と赦しの力、それが慰めです。この慰めをペトロが受けたからこそ、彼はペトロの手紙を書くこともできたのです。第2章の20節以下、少し長いですが、朗読致します。「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。 「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。これはまさに、先週のおさらいです。主は、不正な裁判をじっと黙って耐え抜かれました。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになった」のです。さらにこのように続きます。「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」自分自身が、男泣きに泣いて流した涙を、魂の大牧者、羊飼いなるイエスさま、魂の監督でいらっしゃるイエスさまのところへ戻ったのです。そして、しっかりと癒され、慰められたのです。それゆえに、弟子たちの中で、本当に謙虚に、指導者として用いられて行くことができたのです。
私どももまた、信仰の歩みにおいては、このような神からの激しい顧みを体験させていただくことがあります。信仰には、このような激しい涙を流させる体験が伴うものなのです。キリスト教信仰の、福音の根本とは何でしょうか。それは、自分の弱さの故に罪を犯してしまわないことではありません。もとより、罪をおかさずに生きて行ければ、それにこしたことはありません。しかし、それは、地上にあるかぎりは、不可能です。ですから、もっとも大切な事は、このペトロのように、主イエスの恵みを思い起こし、神がまるごと自分をご存知でいてくださり赦して下さることを確信することです。そして、罪を嘆き、なんどでも悔い改めて、魂の牧者であり監督である主イエスに立ちもどることです。そのようにしながら、私どもは、罪を憎み、信仰に生きて行く力強い歩みへと立ち返らせられ続けて行けるのです。
祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、私どももまた、なんど、心の中で、あるいは言葉や態度で、わたしはイエスさまと、キリスト教と無関係ですと、態度を表明すべきときに、結局、自分を守るため、自分の立場を失わせないために、証に生きることをためらったり、しなかったことでしょう。そのような者から、私の父と呼ばれることを恥となさらない主イエス・キリストの父なる御神、心からあなたの憐れみを感謝致します。今、私どもも、あなたの御前に、深い涙を流させて下さい。しかし、それは既に深く慰められ始めている涙です。あなたの慰めによって、私どももまた、自分の利益ではなく、あなたの栄光と隣人の益を求めて歩む主の弟子として歩ませて下さい。アーメン。