「尋問中に祈られる主」
2013年3月10日
旧約朗読 イザヤ書第50章4~11節
【主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから/わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。
わたしは知っている/わたしが辱められることはない、と。わたしの正しさを認める方は近くいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか/われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか/わたしに向かって来るがよい。見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう。見よ、彼らはすべて衣のように朽ち/しみに食い尽くされるであろう。
お前たちのうちにいるであろうか/主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも/主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。
見よ、お前たちはそれぞれ、火をともし/松明を掲げている。行け、自分の火の光に頼って/自分で燃やす松明によって。わたしの手がこのことをお前たちに定めた。お前たちは苦悩のうちに横たわるであろう。】
マタイによる福音書第27章11~14節
【 さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。】
私どもは教会の暦で申しますと「受難節」、英語ではレントという季節を過ごしています。受難節とは、私どもの主イエス・キリストがご復活される前の46日間のことです。簡単に申しますと、復活祭をお祝いする準備の期間です。受難節において、主イエス・キリストが歩まれた苦難のご生涯をきちんと考え、黙想し、お祈りすることがとても大切です。主イエスの十字架の御苦しみを、自分の罪のために苦しんで下さったのだと言う事実をまっすぐに仰ぎ見ることなしには、ご復活の祝福にふさわしくあずからせていただくことは、できないからです。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙第6章で、このように言っています。「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」
使徒パウロは、キリスト者はキリストと一体になった者だと言います。主イエス・キリストと一つに結びあわされるということです。パウロは、そのために洗礼を受けたのがキリスト者であると言います。洗礼を受けることによって、客観的にキリストと結びあわされる、一体にさせていただけるというのです。そして、キリストと一つに結ばれるということは、ある順序が求められているということも示しています。それは、十字架を通って復活へという道筋です。順序です。この順番を逆にすることはできません。キリストの苦しみ、十字架の死と一つに結ばれることによって、私どもも古い自分、罪の自分、神に背く自分じしんに死んで、キリストが父なる神の栄光によって死者の中からご復活されたように、私どもの新しい命、神のいのち、つまり永遠の命に生きることができる者とされるのです。復活から十字架へではなく、十字架の苦しみを通って復活の栄光へと主イエスが救いの道を切り開かれたように、私どもにとっても、この道、この順序が大切です。そして、それは、私どもひとりひとりの信仰生活にとっても、同じです。
さて、今朝の登場人物は、二人。ローマ総督、ポンテオ・ピラトと彼に尋問される主イエスです。二人の名前は、今朝、ニカヤ信条で唱えました。「我らのためポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書にしたがって三日目によみがえり、天に昇り、御父の右に座したもう。」
世界中の教会で今朝、しかも一千数百年の時を経て、イエスさまを審判したローマの総督の名が、礼拝堂の中で唱えられています。使徒信条やニカヤ信条のような公同信条に、イエスさまのお名前の他に呼ばれるのは、母、おとめマリヤとこのピラトの名だけです。何故、あえて、この人の名前を挙げるのか、それは、特別にこのピラトが極悪非道なことをしたからではありません。おかしな比較ではありますが、先週学んだイスカリオテのユダの裏切りと比べれば、どっちらがよりひどいことをしたのか、考えてしまいます。
それなら、何故、この人の名だけが常に唱えられるのでしょうか。それは、何よりも、イエスさまの十字架の死が歴史的事実であるということを、ここで確認させるためであると思います。
ユダヤの国は、ユダヤ人という唯一の神を信じるまさにユニークな民族であり、国でした。ローマ帝国にとっては、小さいながらも、きわめてやっかいな民族であり国であると映ったことでしょう。そこに派遣されたのが、総督ポンテオ・ピラトでした。
ここで少し、当時の世界情勢をおさらいしてみたいと思います。さて、当時のユダヤを統治していたのは、ローマ帝国でした。この大帝国は、広大な領土を支配していました。その統治の仕方は、現代のあり方ととても似ています。それは、それぞれの民族、国々の風習、伝統を一定程度認めながら、武力で統治したのです。もともといる支配される国の権力者たちを、権力によって自分たちに手なずけます。その代わり、難しい民族的な紛争や、ローマ帝国への反抗などは、手なずけた現地の権力者たちの力を前面に押し立てて、従わせるのです。このようにして、ローマ帝国は、まさに世界の大帝国となりました。有名な「ローマの平和」という言葉があります。つまり、帝国に服従し、その支配を受け入れる限り、人々は、今日の言葉を用いれば、「安全保障」の傘の中で守られたわけです
ピラトは、ローマの平和の傘の中に入れる代わりに、ユダヤ社会に重税を課しました。ピラトは、ユダヤ社会が自分たちに反抗しないように、権力によって飴と鞭をつかって、ユダヤの権力者を手なづけていました。そして、今、自分が統治しているユダヤ社会にやっかいなもめごとが起こってしまいます。イエスという指導者とユダヤの公の権力者とが対立しているらしいのです。そして、権力者は、イエスという男を逮捕し、自分たちの法律で処刑してほしいとしつこく要求するのです。そして、結論を申しますと、ピラトは、自分の立場をただ守るために、罪のないイエスを処刑したのです。イスカリオテのユダは積極的に罪を犯しました。しかし、このピラトは、事なかれ主義です。自分の立場を守るただそれだけのために、無実のイエスさまを死刑にしてしまったのです。私どもには、自ら積極的に犯す罪と周りの力に流されて犯す罪とがあります。こうして、世界中で信条が唱えられるとき、ピラトの消極的な罪を犯したピラトの名が唱えられることになってしまいました。
主イエスは、大祭司カイヤファの官邸からピラトの官邸へと移送されます。主イエスは、今、総督ピラトの前に立たれます。ピラトは、ただちに、総督らしい尋問をします。政治家として、権力者、統治者として、最大の関心がそこに込められています。こう尋ねます。「お前がユダヤ人の王なのか」
ユダヤ人の王なのか、どうか。先ず、それを確認するのです。ユダヤ人の王であれば、これは、政治家です。そして、ローマ総督は、ユダヤ人の王を自分の権力の下にきちんと服従させなければなりません。それを本人に認めさせ、自分に協力させ、そして、ユダヤ人たちにも自分たち、自分の権力がはるかに強いことを確認させなければなりません。万が一にも自分たちの統治を覆そう、独立運動、反乱を起こそうものなら、その芽が見えたなら、徹底した弾圧あるのみです。そして、その首謀者はローマの処刑の中でも極刑中の極刑であった十字架刑です。その意味で、十字架で処刑されるということは、ローマ帝国では、政治犯を意味したわけです。「お前がユダヤ人の王なのか」ピラトの問いが、この一点に集中するのも、当然のことだと思います。
主イエスは、お答えになられます。「それは、あなたが言っていることです」私どもはすぐに思い起こせるのではないでしょうか。大祭司カイアファの尋問と同じです。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」主イエスはその時も、同じようにお答えになっておられます。「それは、あなたが言ったことです。」その意味は、こうです。「あなたの考えている神の子の理解、メシア救い主に対する考え、それとわたし自身とはまったく異なっているのだ」ということです。
「それは、あなたが言っていることです」主イエスは、このようにして、反対に、彼らに問いかけているのです。あなたは、真実のわたし、本当のわたしについて、どう考えているのかと言う問いです。
キリスト者は、一応、誰でも、主イエスを信じているということが言えるはずです。単純に、イエスを信じていると言った方がより正確です。しかし、肝心要になるのは、「イエスを誰だと信じているのか」ということです。確かに、イエスさまを自分の救い主だと信じることは、良いことです。しかし、その救い主とは、いったいどのような意味で、救い主なのでしょうか。もし、自分の願い、自分の思い、自分の考えを実現させてくれる人だと言う意味で、救い主だというのであれば、それは、聖書が証する主イエス、キリスト・イエスとは別のものです。自分の人生観や価値観、それを支えるイエスさまという信仰があるのでしょうか。自分の家庭、自分の会社、自分の人生をより豊かなものとしてくださる救い主、それがイエスさまだ。そのイエスさまを心から信じる。それは、イエスさまを信じることとは、異なります。
主イエスは、まことにユダヤ人の王でいらっしゃいます。本当のことなのです。さらに正確に言えば、ユダヤ人のみならず、世界の王です。王の王なるお方です。しかし、その王を信じるとは、どういうことなのでしょうか。それは、本当に、イエスさまを自分の人生の主にすることです。王にすることです。口で、主イエスと唱えていても、心と行いにおいて、イエスさまを王、あるじにして、従っていなければ、従おうとしなければ、それは、大祭司カイアファや総督ポンテオ・ピラトのイエスさま理解と、大差がありません。イエスさまを信じるとは、自分を罪から救ってくださるお方、罪を赦して下さるお方としての王として信じ、そして従うことなのです。
主イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになられます。これは、彼らへの問いかけです。また、厳しい批判です。本当のわたしと会いなさい。本当の私が分かったら、あなたがどうするのか、あなた自身がすぐに態度で現わさざるを得ないでしょう。そう仰います。
さて、その後、主イエスは、一言もお答えになられませんでした。「祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。」なぜ、弁明をなさらなかったのでしょうか。ピラト自身も、こう言って不思議がっています。「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。いったい、何故、黙っておられるのでしょうか。一つには、主がこのような過酷で、不当な裁判の苦しみを、全身全霊で受けとめようとなさっておられるということです。苦しみを味わおうとなさるのです。そこで、主が挑戦しておられること、それは、我々がすることとは、反対のことです。我々であれば、このような苦しいとき、何を求めるのでしょうか。どうすれば、この苦しさを緩和できるかということでしょう。どうすれば、和らぐのか、そのために頭を真っ白にして、別のことでも考えるとか、そのようにしてこの現実から逃げようとするでしょう。しかし、主イエスがここでなさっておられることは、苦しみを受けるというその一点にあるのです。弁明すること、真理や真実を、正々堂々と対論を重ねて、自分の主張を貫くこと、それが悪いわけでは決してありません。正義や真理をないがしろにして、事柄に向き合おうとしないで、逃避することは、悪や不義をはびこらせるだけでしょう。ですから、自分のためにも、相手のためにも、裁判で弁明し、弁護士を立てて戦うことは、当然の権利であり、義務でもあるはずです。
しかし今、主イエスはここで、そのような我々がする、すべき法廷闘争をなさいません。何のために、この法廷に立たされているのかを、主はご存知だからです。それは、私どもの罪を償うためです。私どもの代わりに訴えられるということをご理解なさっておられるからです。そうであればこそ、主イエスは、ひたすら、私どもが受けるべき裁きを、ご自分のこととしてここでじっと受けておられるのです。何と言う犠牲でしょう。何と言う犠牲の愛の尊さでしょう。私どもは、最後に、神からの裁き、審判を受けます。最後の審判に立たされます。その時、私どもは、神に審判されるのです。いったい、そこで何の自己弁護が可能でしょうか。神の裁きを受ける時、何一つ、弁解の余地がありません。そのようなまさに100%私どもに非があり、罪がある故に、私どもは、徹底的に断罪されるべきです。当然のことです。しかし、主イエスがここで、私どもに代わって、人間からの、人間の規準からの刑罰、審判を受けられます。そして最後には、十字架で他ならない父なる神からの徹底的な審判を受けて、死なれます。そのすべての苦しみを、私どもにかわって舐め尽されるのです。私どもを救うためです。何と言う尊い身代わりでしょうか。
第二の理由があります。今朝は、イザヤ書第50章を朗読しました。大まかに言えば、主イエスの受難の予告です。受難の僕と呼ばれるイエスさまを、あらかじめ示す預言の言葉です。そして、同時に、主に従う者たちが地上で受ける苦しみをも予告されていると読むことができます。
あらためて読んでみます。「わたしは知っている/わたしが辱められることはない、と。わたしの正しさを認める方は近くいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか/われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか/わたしに向かって来るがよい。見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう。見よ、彼らはすべて衣のように朽ち/しみに食い尽くされるであろう。
お前たちのうちにいるであろうか/主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも/主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。」
この人は、一人法廷に立たされているようです。敵は、不当に訴えます。その場所から逃げられません。しかし、この人は、「わたしは知っている/わたしが辱められることはない、と。わたしの正しさを認める方は近くいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか/われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか/わたしに向かって来るがよい。見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう。見よ、彼らはすべて衣のように朽ち/しみに食い尽くされるであろう。」と告白します。彼は、ひとりで立っているのではなく、弁護者と共に断っているのです。それは、主なる神に他なりません。この神が、助けて下さり、敵は、衣のように朽ち、しみに食い尽されてボロボロになるというのです。
この苦しむ神の僕を、神は、喜び、ご自身の僕として受入れて下さいます。ご自身の誇りとしてくださるのです。「お前たちのうちにいるであろうか/主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも/主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。」
闇の中を歩く時、光が見えない孤独と悲しみと困難のどん底で、しかしなお、主なる神の御名に信頼し、その神のみを支えとする、そのような僕になりたいと思います。私どもは、目に見える状況が好転し、輝かしい喜びが与えられるときだけ、ああ、主なる神がこの私を祝福していてくださる、神の支えはこれほど鮮やかで、すばらしいのかと、思います。それでよいのです。しかし、何よりも大切なこと、それは、主イエスがここでしておられるように、まったく闇の中を一人歩くとき、弟子たちに裏切られ、ユダヤの宗教指導者にはいのちを狙われ、大ローマ帝国の権力のもとに、そのいのちが風前の灯火のようにさらされる、闇の中を歩くそのときにもなお、主の御名を信頼し、神を支えとして生きることができるのです。神は、そのようにして、支えて下さいます。その証拠が、ここで主イエスの苦難は、全うされることです。主イエスがこのピラトの法廷で、沈黙され続けたのは、キリストの敗北ではなく、勝利なのです。
最後に、ここでの沈黙の意味は、祈りです。ただし、それは、マタイによる福音書では、はっきりとは記されていません。ルカによる福音書第22章では、主イエスは、ペトロに仰いました。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」ここでの沈黙のなかで、主が御考えになっておられることは、ペトロをはじめとする弟子たちのことなのです。これは、ルカによる福音書を説教するとき、取っておかなければならないメッセージです。しかし、私どもは、主がこの苦しみを受けられたのは、ひとへに弟子たち、つまり、私どもキリスト者の救いの為だったと学びました。困難と苦しみの真っただ中、どん底で、主なる神に自分を委ねられたのも、また、父なる神への信仰を貫かれたのも、すべては、私の罪を贖い、赦し、罪から、神の刑罰から救うためでした。そして、自分のことを、横において、弟子たちのために祈られていたのです。
そして、今もなお、ご復活して、天に戻られた王の王、主の主として父なる神の右に坐して祈り続けていてくださるのです。今週も、この主の祈りを思いつつ、主イエスが私どものために、ご自分のことを忘れるようにして、二の次にして祈っておられることを、信じて歩みましょう。
祈祷
父なる御神、あなたの御子が弟子たちの裏切りを受け、孤独の中でピラトの尋問、審判を受けられました。苦しみを耐え続けて下さいました。そのようにして、私どもの罪を担い、私どもの代わりに苦しんで下さいました。その苦しみのおかげで、私どもは罪を赦され、生かされました。私どももまた救い主、王なるイエスさまに従うとき、そのような苦難の歩みを時に避けて通ることはできません。どうぞ、勇気を与えて下さい。あなたへの信頼をその闇、苦しみの底において貫く信仰を与えて下さい。そして、御子と共に苦しみ、御子イエスさまのために苦しむことによって、復活のいのちにあふれるようにあずからせて下さい。アーメン。span>