「いのちの交換」
2013年3月24日
マタイによる福音書第27章11~14節 ②
【ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。】
先週に引き続いてこの個所からの二回目の説教となります。40日に渡る受難節の歩みは、いよいよ、本日から最後の週、いわゆる受難週となります。実は、古代の教会から、大人が洗礼を受ける時は、復活徹夜祭のときと決められていました。今でも、ローマ・カトリック教会では、この時に洗礼を受ける人が多いと伺っています。そして、そもそも、この受難節は、そのように洗礼を受けることを志願する求道者たちのために整えられたものだと言われています。昔、洗礼入会志願者の方は、このときに、断食をしたりしたそうです。私どもも「受難週」には、何度か毎朝、教会に集まって祈りをすることがありました。いずれにしろ、教会は、そのようにして、主イエス・キリストのご復活のいのち、その喜び、救い、力にあずかるために特別に霊的な準備をしたわけです。今年、私どもは、特別なプログラムを用意していません。しかし、それぞれがそれぞれの生活の中で、主イエスに従う道、信仰の歩みとは、自分に与えられた十字架を担う歩みであること、十字架の苦しみにあずかってのみ、復活のいのちの輝き、希望、喜びにあずかれることを深く思いたいのです。
先週、この個所から私どもは神の摂理の勝利の御業を学びました。少しおさらいをします。当時、ローマ帝国から遣わされてユダヤを植民地として統治していたのは、ポンテオ・ピラトでした。彼は、ユダヤ総督として一応、全権を把握していました。しかし歴史的には、当時の彼の立場は堅固なものではなかったと言われています。大ローマ帝国の権力を背後にする総督であれば、もっと毅然として自分の態度、立場を貫けたはずであろうのに、それができませんでした。それは、自分のローマ帝国における立場が実は、盤石なものではなかったからです。彼は、ユダヤ人たちの受けを狙って、また同時にイエスを助けられるとも判断して、恩赦を提案しました。ところが、群衆は、バラバ・イエスを釈放し、メシア・イエスについては「十字架につけよ」と要求しました。ついに、その声が大きくなったとき、ピラトの良心、心はくじかれてしまいます。自分の責任を逃れようとして言いました。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」もとより、そのようなことを言ったとしても、神の前における責任は残ります。これに対して、ユダヤ人はこう答えます。民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」先週のもっとも大切な福音のメッセージは、この御ことばの解釈にありました。「その血の責任は、我々と子孫にある。」私どもは、このユダヤ人たちの恐るべきことばの中に、神の摂理の勝利の宣言を聴きとったのです。
また、私どもは先週、主イエスを「十字架につけろ」と叫んだ人々の一人が他ならない私ども自身に他ならないのだとも学びました。確かに歴史的にみれば「十字架につけろ」と叫んだ群衆の中に、私どもはおりません。しかし、福音書を読めば、ユダヤの指導者たち、総督ピラト、そして群衆たちが犯したイエスさまに対する罪、神に対する罪は、すべて他人事ではありませんでした。実に、私どもの中にあるものでした。私どももまた、自分に役立たないイエスを殺せ、自分に不都合なイエスは知らない、関係がないと言ったり、思ったりしたことがあるのです。イエスさまを殺したのは、まさに、この私どもなのです。ところが、その自分たちが犯した極悪の罪とその責任が、神の摂理によって十字架を通して赦され、償われるのです。神は、私どもの極悪の罪を十字架において逆転してくださいました。血の責任、つまり、神である救い主を殺した責任を、私どもに負わせず、神が責任を取ってくださったのです。それが十字架の意味です。
わたしは、オセロゲームのイメージを持ちます。黒の石を白の石が両側で挟むときには、すべてが黒の石はすべて裏返しにされます。十字架につけろという群衆の声、その血の責任は我々と子孫にあると開き直った彼らは、黒の石です。ところが、主イエスが十字架について、彼らの罪の刑罰を身代わりに負って、聖なる尊い御血が流されたとき、それらが全部、一気に裏返されてしまったのです。私どものどす黒く汚れた存在が、主イエスの十字架で流された御血のおかげで真っ白にされてしまうのです。今や、主イエスを信じた私どもは、主イエスを殺す罪を犯した私どもは、父なる神の愛と犠牲によって、神の英知によって、摂理の力によって大逆転が起こったのです。裏返されたのです。人間の悪の企てを、神が善に、人間の益へ、救いへと換えてしまわれたのです。そこに、神の知恵と力、犠牲の愛、十字架の愛があります。神の摂理の勝利があるのです。
さて、今朝の物語に、特別に重要な二人が登場しています。うっかりすると、読み過ごされるかもしれないほど、二人の発言は記されていません。その二人の名は、イエスです。同じ名前です。マタイによる福音書は、このイエスの名の意味を教えてくれています。冒頭、第1章で、天使が許嫁のマリアが妊娠している事を告げる個所です。「主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
イエスの名の意味は、神の民を罪から救う、罪からの救いという意味があるのです。しかし、実は、それだけに宗教的な意味が込められていましたから、ユダヤ人の男の子の名としては、ありふれた名前だったのです。さすがに、イエスさま以降のキリスト者にこの名前をつけられることは、なくなって行ったのだと思いますが新約の中には、イエスという弟子が登場します。
ここにバラバと呼ばれたイエスが登場します。バラバとは、父の子、アブラハムの子という意味だと言われます。このあだ名もまた、すばらしい名前、宗教的な名前です。いかにもユダヤ人の名前です。ユダヤ人とは、アブラハムの子孫ということ、アブラハムに与えられた神の契約を受け継ぐ人の意味です。
それならバラバと呼ばれたイエス、バラバ・イエスという人は、どのような人だったのでしょうか。マタイによる福音書は、「評判の囚人」とだけ告げます。ユダヤ人には、有名人だったことが分かります。ルカによる福音書では、「都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていた」と告げます。殺人を犯したのです。しかし、これは単なる殺人者ではありません。エルサレムの都で暴動を起こしたのです。いったいどのような暴動だったのでしょうか。それは、まさにローマ帝国の支配を覆し、民族独立を訴えて、武装蜂起を呼び掛けたということです。つまり、政治犯です。そもそも、ローマ帝国の牢に繋がれて、十字架の刑につけられる死刑囚とは、現代的に言えば、テロの首謀者、実行者です。まさに、ローマ支配に反抗する政治犯、過激派です。主イエスの弟子の中にも熱心党のシモンという人がいました。彼もまた、もともと、そのような独立運動を進めようとしていた政治的には、過激な思想を持っていたわけで、当時のユダヤの民衆の中にあった空気は、一日も早くこの惨めな政治状況を打破したいという思いが溢れていたのです。それが、エルサレムにいた群衆の熱狂的な主イエスへの歓迎の伏線には、まさにイエスさまを政治的王、その意味での救済者、ユダヤの救世主としての期待があったわけです。
バラバは、武装蜂起を呼びかけながら、そして、おそらくはローマ兵を何人か殺したのでしょうが、簡単に制圧されて、十字架の処刑を待つ身となったのでしょう。
ピラトは、このようなバラバ・イエスとキリスト・イエスとを比べれば、ユダヤ人は、キリスト・イエスを釈放しろと要求するだろうと思っていました。しかし、群衆は、バラバ・イエスの釈放を要求します。何故でしょうか。それは、バラバが少なくとも、ローマの兵隊に一矢報いたからでしょう。いのちをかけて抵抗運動をしたバラバです。民衆の苦しみ、怒り、抗議をバラバは代弁したのです。だから、そのようなバラバにむしろ親近感をもったわけです。それにくらべて、キリスト・イエスの方は、あれほど歓迎し期待したのに、ローマの兵隊に一切抵抗せず、されるがままに逮捕され惨めな姿を、さらしている。彼らは、裏切られた、騙された、我慢ならないと身勝手な考えで、キリスト・イエスを殺すことを要求したのです。
さて、マタイによる福音書は、この物語をここに書き記します。その意味、そこからのメッセージを聴き取りたいと願います。二人のイエスは、何も発言していません。もとよりバラバ・イエスのことは、ここに初めて登場していますから、読者は、バラバ・イエスのイメージをふくらますことは、難しいと思います。しかし、私どもにとって、ここで群衆の前に立たせられている主イエスのお姿を、想像することは出来るだろうと思います。そこで、ピラトに命乞いをするわけでもなく、祭司長、指導者たちの偽りの証言に弁明するわけでもなく、群衆の十字架につけろという叫び声に、一言も反論することもなく、これまでのように神の言葉を、ここでこそ、権威をもってお語りになられないイエスさまのお姿があります。
現在の私どもにとって圧倒的な存在感をもって、主イエスがそこに黙って耐えておられるお姿を見ます。預言者イザヤが第53章に預言した通りのことがなされているのです。「彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。」じっと苦しみを受けとめておられるのです。ご自身の死を見つめておられるのです。そして、その死が、決して無駄死にではないことを、悟っておられるのです。ご自身の死によってのみ、十字架につけろと叫ぶ、彼らの罪を贖う方法がないことを理解しておられます。血の責任を負うとは、贖いの血の効力を、神の選びの民に与えること、そのようにして、彼らの悪を益に裏返すために、その苦しみの杯を一滴も残さずに、飲み干そうとしておられるのです。そして同時に、裏切った弟子たちの救い、彼らがやがて立ちあがって、この十字架の死と意味を、復活の事実と意味を告げる者となれるように祈られるのです。
さてしかし、それにしてもバラバ・イエスは何も語りません。二人は、何も語りません。しかし、マタイによる福音書は、鮮やかに語らせているのです。それは、ここでも主イエスの十字架の意味と力です。
いったいバラバとは、誰のことでしょうか。確かに、歴史的に申しますとバラバと我々との接点はまったくありません。また、何よりも、バラバと我々一般人、庶民とはかけ離れた存在のように思います。バラバ・イエスとは、体制を転覆させ、民衆を蜂起させ、武力をもってローマ帝国の支配から、独立を勝ち取ろうとした政治家です。現代的に言えばテロ集団の首謀者に近いと思います。ある意味では、勇気のある人です。ユダヤへの愛国心をみなぎらせて、絶対的な富と戦力をもっているローマ帝国に一矢報いて、一か八かと立ちあがったのです。ただし、あえなく鎮圧されてしまいました。今はただ、十字架での処刑を待つ、ひとりの囚人でしかありません。
さて、バラバ・イエスとは、ひとりの囚人。まさにこの点が、私どもとぴあたりと重なるのです。そんなことを申し上げると、さらに、戸惑われるかもしれません。すぐには飲み込めないかもしれません。「いやいや、我々は、囚人ではない。それは毎日、苦しいこともあるけれど、平凡だけれどなんとかそれなりに生きている、自由に生活ができている、このバラバのような過酷な現実とは程遠い」確かにそうです。しかし、私どもは、実は、同じような囚人であるという現実に目をそらしてはならないはずです。
人間は、誰しも、死刑囚のように自分がいつ死ぬのか、分からないままにその日を生きているという者です。人間は、誰しも生まれた瞬間から、死すべき存在としての囚われの中にいるのです。
さらに最も真剣に考えたいことがあります。それは、その死の意味、本質、実態そのものについてです。死とは単に、肉体の生命活動が停止することだけを意味しているわけではありません。聖書によれば、いのちは、大きく言えば二つに分けられます。肉体のいのちと魂のいのちです。魂のいのちとは何でしょうか。それは、神さまとの正しい関わり、正しい関係にある人間の存在ということです。それこそが、神に赦されている状態です。救われている状態です。神の子どもとされている状態です。いのちの源でいらっしゃる神とまっすぐに向き合うことが赦され、愛されていることです。神と私どもの間、その関係が愛の中に成り立っている状態です。それこそが、人間が今ここで、味わうべきいのちなのです。肉体の死後のことではありません。今ここで、喜び、感謝し、体験すべきいのちです。もしもこの救い、魂の救い、魂に神のいのちが注がれていなければ、神の前では、霊的には死んでいるも同然なのです。さらに、もしもそのまま肉体の死を迎えるなら、その魂は、神とのよき関係にないまま、つまり永遠の滅びの中に落ちてしまうのです。
先ほどの囚人のイメージとは、そのような肉体の死、永遠の死、魂の死へと一日一日、近づいている、それが、罪人の真実の姿に他なりません。人間は一人の例外もなしに、誰もが、やがて必ず死にます。現実の死刑囚と違うのは、言わば空間の自由が与えられているということだけかもしれません。
マタイによる福音書は、バラバ・イエスとキリスト・イエスとをここで並べています。二人とも同じ名前を持ちますが、しかし、まったく違った人です。二人とも同じ十字架で処刑される危機にありますが、しかし、まったく違う立場に分かれました。
今朝の説教題は、「いのちの交換」としました。ここでマタイによる福音書が暗黙のうちに私どもに示している事柄に、ぴったりだと思ったからです。バラバは、完全に死刑を執行されるべき人でした。もしも、イエスさまがこのような仕方で、冤罪で逮捕され、審判を受け、ユダヤの人々の「十字架につけろ」という感情、憎しみの激情の声によって総督ピラトの意思をくじくことがなかったなら、彼こそ、処刑されていたはずです。しかし、実に、バラバ・イエスは釈放されるのです。その代わりにキリスト・イエスのいのちが奪われるのです。そして、まさに神が御子イエス・キリストにおいて、その十字架において私どもに示された真理が、ここで具体的な事例として示されたのです。
イエスさまの永遠のいのちとバラバ・イエスの本来死すべきいのちとが交換されたということです。バラバは生かされたのです。その代わりに、イエスさまは、殺されたのです。そして、十字架とは、まさにこのようにいのちの交換が起こる場所となったことが、見事に示されるのです。つまり、バラバとは、主イエスによって救われた者の代表であり、そのモデルなのです。
一つのイメージで言えば、死刑囚として収用されていた私どもの牢獄に、こともあろうに無実のまったく罪のない人が入り込んで来て下さったのです。そして、私どもの囚人服を脱がせて、その罪のない人が来ている神々しいまでの輝きを放つ王子の服を着せて下さったのです。そして、この王子は、囚人服を来て、そのまま牢獄の中に留まり、私どもを釈放させて下さったのです。これが、キリスト者に起こった霊的な出来事です。洗礼において起こった霊的な出来事なのです。
キリスト・イエスは、バラバである私どもに「安心して出て行きなさい」と告げて下さいました。そして、私どもは今朝のこの日を迎えることが許されているのです。
父なる神は、そして御子イエスさまは、私どものためになんという犠牲を支払って下さったのでしょうか。歴史においてバラバ・イエスのその後を福音書は報告していません。実に興味があります。
しかし、おそらくマタイによる福音書は、このバラバのことよりも、これを読んでいる読者であるバラバ、つまり、私どもに関心、興味を持っているはずです。あなたにも、イエスさまは、この尊い、いのちの交換をしてくださいましたね。それなら、あなたはその後、どう生きるべきですかと、問うているのではないでしょうか。
使徒パウロは、Ⅱコリントの信徒への手紙第5章15節でこう言いました。「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」キリスト・イエスが十字架で死んで下さったのです。そのご目的は、信じる者たちが、キリスト者が、もはや自分自身のために生きるという古い生き方を辞めさせるためでした。今朝、私どももそのような者とされています。特に、今朝、被災地で奉仕に勤しむ若い姉妹をお迎えしています。その仲間もまた、おそらくは自分のために死んでご復活されたイエスさまのために生きること、それが、被災者の皆さまと共に生きたいという思いの原動力になっているのだと思います。
祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、あなたの摂理の力によって、人間の罪の力は覆され、かえって主イエスの死によって救いの道が開かれました。バラバは釈放され、いのちがもたらされました。あなたの驚くべき救いの御業の勝利を賛美致します。私どもの人生においても、ときに自分の罪によって、また他人の罪によって、悪魔の企てによって受け入れがたい苦難や悲しみをなめさせられることがあります。しかし、どのような時にも、遂にはあなたが救いの御業を成就させて下さることを信じます。その信仰を、主イエスの十字架と復活の歩みを黙想することによっていよいよ、自分の確信とさせて下さい。そして、勇気をもって立ちあがって、希望に生きることができますように。アーメン。