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「開かれた新しい世界」

開かれた新しい世界」
                2013年5月26日
マタイによる福音書第27章45~53節②
【さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。】
 

 この個所から、あらためて学んで、礼拝を捧げます。そして、来週も又この箇所から学ぶ予定です。
 主イエスが十字架にはりつけられた時刻は、マタイによる福音書によれば、「昼の12時」です。マルコによる福音書によれば、午前9時です。午前9時ということは、太陽が昇りすでに夜ははっきりと明け染めているということです。さらに12時とは、太陽が真上に昇り、まぶしい陽射しがさしている時刻です。ところが、福音書は告げています。主イエスが十字架にはりつけられたその12時、明るい日中に、なんと全地が暗くなったと言うのです。

 おそらくこれは、著者マタイ自身のそのときの心模様が示されているのだろうと思います。マタイは、遠くからこの十字架を見ていたのでしょうから、彼の体験談なのだと思います。しかし、同時に歴史の事実として晴れ上がった空が、にわかに掻き曇って、夕空のようになってしまったのかもしれません。これは、創造者なる神さまの、演出であったのかもしれません。日食でもないのに、全地が暗くなってしまうということは、どれほどの神の御業がそこでなされているのかを悟らせる、なんらかの神の御業として解釈すべきことかと思います。
 主イエスを殺すということ、人間が神を捨てるということ、地上から追放するということは、全地を暗くすることだということを示しているのです。つまり、神なきこの世界とは、まさに人間にとって暗黒そのものなのだということを私どもは改めて教えられます。

ヨハネによる福音書の冒頭、第1章にこうあります。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」言とは、主イエスのことを指しています。そして主イエスご自身の内には「命」があります。このいのちこそ、すべてのいのちの根源なのです。このいのちは、人間を照らす光なのです。確かに、太陽の光も偉大であり、尊いものです。しかし、主イエスの内にある光とは、それ以上に偉大であり、尊いものです。地球には、太陽が奇跡的な距離関係で存在していることで、生命が養われています。しかし、地球に太陽が絶対に不可欠であるより、はるかに必要なのは、このひかり、命の光、イエスさまです。この光でいらっしゃるイエスさまを理解しない世界は闇でしかないのです。ヨハネは言います。輝く光でいらっしゃるイエスさまを、この世界が理解しなければ、世界は暗闇のままなのです。

マタイによる福音書は、十字架で起こったことごとを、淡々と告げています。ヨハネによる福音書が示す真理を、自然界に起こった出来事を描写することによって読者に示しているのです。

 これはまた、次の説教で触れるかもしれませんが、主イエスが息を引き取られたそのとき、「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」とマタイは、報告します。これは、マタイによる福音書にしか記されていません。解釈は、おそらくもっとの難しい箇所の一つだろうと思います。今朝は、墓が開いたということで、マタイが読者に悟ってほしいこと、そのことだけに触れます。それは、墓とは光のない世界ということです。つまり、主イエスが十字架で死なれたことによって、それを信じた人たちは、墓から脱出させられた、生き返る、甦る経験、命の光を浴びる経験を与えられることとなったのです。その事実を、つまり、私どもがここで与えられた救いの恵みのマタイ流の表現なのです。

さて、主イエスは、3時にいのちをひきとられました。実は、十字架刑としては異例の早さの死となったと言われています。なぜなら、もともとこの処刑方法は、どれだけ犯罪者を苦しめることができるのかということで、考えられたものだと言われています。長時間苦しませて、それを多くの人々の目にさらしてみせて、本人のみならずローマ帝国に反逆する者は、このような悲惨な目にあうのだぞという見せしめにする狙いがあります。ところが思いがけず、主イエスは、3時に息をひきとられたのです。

今、午後3時にこだわっていますが、それは、この3時には、言わば隠された意味があるからです。それは、十字架の意味を明らかに示す鍵となる時間だからです。実は、この午後3時とは、エルサレム神殿で、イスラエルの罪をあがなうために捧げられた犠牲の子羊を,祭司が「屠る」時間として定められていたからです。そもそも、主イエスの十字架とは、何でしょうか。それは、罪のないご自身のいのちを父なる神にささげた行為、御業であります。つまり、主イエスが午後3時に死なれたのは、偶然ではありません。そこにおいても神の永遠のご計画がきちんと成就したことが、いよいよ深く理解させていただけるのです。

つまり、主イエスは自らを、ご自身の全存在を、神へ犠牲として捧げられるべき子羊となってくださったということです。主イエスは、私どもの罪をあがなう代価として、ご自身のけがれなきいのちを、捧げてくださったのです。主イエスの十字架の死とは、まさに罪人の罪を贖うための死、罪を償うための犠牲の死、身代わりの死であることが、この3時ということにおいてもまた、はっきりと示されたわけです。主イエスは聖なるエルサレムの都の中ではなく、その外であるゴルゴタの丘において、犠牲の羊となって下さったのです。それもまた、深い意味があります。後でも触れますが、エルサレム神殿とはかかわりのない私どもを救うために、主がエルサレムの外、犯罪者を処刑する場所で、ご自身を父なる神にささげることによって、エルサレムの外で生きていたユダヤ人以外の人々、つまり異邦人をも救おうとされたのです。

 今、祈祷会では、ヨハネによる福音書を、出席者全員でああだ、こうだと質問をもとに議論しながら、学び続けています。すばらしい恵みの時となっています。そのヨハネによる福音書に実は、極めて重要な御言葉が記されています。第10章16節も学びました。「わたしは羊のために命を捨てる。~わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」ここで主イエスは、いのちを「捨てる」と仰います。ものすごいこだわりを示しておられると、受け取ってよいかと思います。人間は、誰も死にます。いつか必ず死ぬ存在です。言うなれば、人間はどんなに健康な人でも、いつか必ずいのちを奪われるのです。しかし、主イエスは、高らかに宣言なさいます。わたしからいのちを奪うことはできない。これは、明らかに、後から十字架で殺されてしまわれるわけですから、この御言葉を読み飛ばす人であれば、イエスさまは、ユダヤ人やローマ兵から十字架の上で命を奪われたのだと、考えてしまうかもしれません。しかし、主イエスは神の御子です。人間が、神を現実的に殺してしまうことはできないのです。サタンは、イエスを十字架で殺すことのために全力を注いで、悪知恵を総動力し、この世の権力を悪用して、イエスさまを殺します。彼は、喝采したかもしれません。これで、ついに自分たちの存在がこの地上で、大きな影響を持ち続けることができるだろうと、浅はかにも思ったでしょう。しかし、それは、全くサタンの浅知恵でした。主イエスの十字架の死によってこそ、サタンの敗北は決定されたのです。決定的な敗北をサタンは十字架で味わわされたのです。

 主イエスだけが、いのちを自ら捨てることがおできになられます。しかもその死は、人間のするような自死ではありません。ちなみに、人間は、自らのいのちを捨てることはできません。いや、沢山の人たちが戦争を例にあげるまでもなく、いのちを捨てさせられてきたではないかと仰います。しかし、いのちは神の御手にあります。つまり、いのちそのものを自由にできるのは、神のみです。主イエスは自ら、父なる神へといのちをお捨てになられたのです。ここでの捨てるとは、粗末にすると言う意味では毛頭ありません。捧げることです。神殿で動物を人間の犠牲として屠るのは、決して動物のいのちを軽んじること、粗末にすることではありません。最上の動物が大切に捧げられるのです。主イエスのおいのちは、父なる神へと、わたしどもの贖いの代価として捧げられたものです。捨てるとは、神へと捧げる、引き渡すことなのです。

さらに、「わたしは命を捨てることもでき」ると、仰っただけではなく、「それを再び受けることもできる。」と、さらに不思議なことも仰いました。今となっては、この御言葉の意味は、とても分かりやすいと思います。命を再び受けるとは、ご復活のことです。聖書は、主イエスのご復活を、父なる神によって甦らされたと受動態で表現することが多いのですが、主は甦られたと能動対で表現することもあります。主イエスご自身の力で甦ることもお出来になられるわけです。しかし、その表記においてもやはり、再び受ける、つまり、父なる神からいのちを受けることができるという不思議な表現です。ちなみに、私どもは、主イエスのご復活のおかげで、終わりの日には、復活させていただきます。しかし、私どもは、再びいのちを受けるとは言えません。そのような権威があるのは、主イエスのみです。

 主イエスは、御自ら進んで、ご自身を犠牲として、父なる神に差し出されたのです。そこにも単なる神殿礼拝における動物の死との違いがあります。動物は、無理やり屠られてしまいます。しかし、主イエスは、自ら進んで、ご自身を捧げられます。苦しみの杯を、自らお飲みになる力があるのです。

 こうして、ここでも、何が明らかになるのかといえば、私どもの救いが揺るがないということです。もし、主イエスが御自ら十字架に進まれるのでなければ、弟子たちは、ペトロやヨハネ、マタイたちは、自分の裏切りの罪に生涯、こだわらざるを得なかったのではないでしょうか。確かに、私どもが主イエスを殺しました。つまり、私どもの罪が主イエスを十字架に追いやった事実は、何がどうあっても消されません。それほどまでに、私どもの罪、原罪は深刻、恐ろしいものです。しかし、最後のギリギリのところで、この事実が光ります。あの十字架は、最後の最後に、もっとも大切なとこで、人間が誰も関与できなかった、していないということです。ただ、父なる神が、私どもを愛し、私どもを拾い上げ、神の子とするために、もっとも大切なご自身の御子を私どもにお与え下さったのです。御子イエスさまは、私どもを拾い上げ、神の子とするために、ご自身の汚れなきいのちそのものを、父なる神に捧げられたのです。人間もサタンも手出しができない、まさに聖なる三位一体の神の人類を救うための御業なのです。こうして、十字架の死は、私どもの救いのこれ以上にありえない救いの保証となりました。

さて、マタイもマルコもルカによる福音書もこの十字架で強調していることがあります。何でしょうか。それは、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」たことです。これが、福音書が声をそろえて説き明かすキリストの十字架の意味のメッセージです。聖所と至聖所の間に、掛けられていた垂れ幕。それは、年にただ一度大祭司だけが、そこに入って贖罪の儀式をなす場所です。確かにこれまで、ユダヤ人も神殿に入ることはできますが、至聖所に入れません。異邦人であれば、神殿の境内の外に出て、内部で行われることを覗き見ることすらできませんでした。しかし、今や、その隔たりは、消滅しました。

パウロはエフェソの信徒への手紙第2章で高らかに言います。
実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」今や、異邦人もまた、神との交わりを楽しむことができると言うのです。主イエスが十字架で御血を流され、肉体を裂かれたのは、「二つのものを一つ」にするためだったとパウロは、説き明かしました。その二つとは、ユダヤ人とギリシャ人つまりもともとのイスラエルと異邦人のことです。主イエスは、ごじしんの十字架の死によってこの両者の間にそびえ立っていた隔ての壁を取り壊してしまわれたのです。双方を一人の新しい人、新しいイスラエルにしてしまわれたのです。

 さきほどのヨハネによる福音書において、主イエスは、ご自身をよい羊飼いになぞらえて、こうおっしゃいました。 「わたしは良い羊飼いである。~わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」
 羊の囲いの外にいる他の羊とは、ユダヤ人ではなく異邦人のことです。主イエスは、ここではっきりと異邦人である私どもの救いのために十字架に赴かれ、死んでくださったということです。こうして今、私どもがキリストの教会の一員、この群れのひとりとされているのです。

 主イエスが十字架の上で、息を引き取られたとき、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」たのです。今や、まったくの異邦人である私どもにも、救いの扉が開かれたのです。
週報の通信欄にも記したことと関わりますが、ある学生が、何故、キリスト教を信じる人がこんなに大勢いるのかという問いを出されました。それをこの箇所からこたえるとするなら、こうなるかもしれません。「イエスさまが十字架で死なれたことによって、ユダヤ人の救いではなく、全人類の救いの門が開かれたからです。」
 今、天地の創造者なる神が、わたしの神となってくださいました。もう、隔てるものがないのです。垂れ幕は、主イエスの十字架の死によって真っ二つに切り裂かれて、取り除かれました。したがって、もはやエルサレム神殿における礼拝は不用となりました。今、誰でもただ主イエス・キリストの御名によって集まれば、そこに主イエス・キリストが共にいてくださるのです。二人、三人、主の御名を信じ、お呼びするところにキリストご自身が臨在してくださいます。そこに教会が出現します。

 2000年前、主イエスが十字架で死なれた瞬間、今、ここに名古屋岩の上教会が誕生することは定まったと言ってもよいのです。私どもは、ここで神の御言葉と聖礼典によって、真実の礼拝を捧げ、神とのいのちの交わりが回復されました。

 最近のことですが、車のなかでラジオを聞くともなしに聞いていて、耳に残った言葉があります。自分流に言い直して、おぼえているのですが、こういうものです。「人は誰も、檻の中に閉じ込められて生きている。そのかんぬきはあけられているのに。」しっかり聞いておけばよかったと思ったほど、これは、福音の真理を明らかにできる格言になっているなと、感心してしまいました。私どものまわりの圧倒的に多くの人々は、人間は、何のために生まれてきたのだろう。死んだらどうなるのだろう。死んだら、もう終わりだ。それまで、どれほど楽しい思いを多く持てるか、それが人生だと、そう思っておられます。どうすれば、どこに行けば自分の本当の救いがあるのか、分からないまま、やがて死ぬという運命の檻の中に閉じ込められているのです。そのような古い世界にどっぷりつかって生きていらっしゃいます。しかし、それは、まさに騙されているのです。誤解させられているのです。何故なら、主イエスさまが、十字架で死なれたあの瞬間、神殿の幕は真っ二つに切り裂かれ、墓は開かれてしまったからです。今や、救いの扉は開かれたからです。

確かに私どももまた、主イエスを信じる前は、墓で生きていました。つまり、神さまとの関係において死んでいました。太陽の明るい陽射しを浴びていましたが、本当の意味では、造り主なる神との関係においては、まさに墓場暮らしであったのです。死んでいたのです。しかし、そこは、古い世界です。古い世界も古い時代も、主イエスの十字架によって、もう終わったのです。旧約は成就し、新約の時代が始まったのです。私どもキリスト者とは、墓から出て、閉じ込められていた檻から出していただいた人間たちです。もはや、罪の縄目に縛られて、古い生き方に縛られることはないのです。

今日の午後、定例の読書会があります。皆さんで伝道について学び、懇談します。本当に楽しみです。世界中のありとあらゆる仕事のなかで、伝道ほど重要で、楽しく、尊く、価値あるものはありません。私どもは、伝道する特権を与えられています。私どもは、こう告げることができるはずです。「確かに、あなたは自己中心という罪の檻の中に、入っていますね。神さまと離れた生活は、本当は不自由なのですよ。檻から外に出ましょう。もう、門は開かれたのですよ。よくわからなくても、わたしの後についてきてください。そうしたら、あなたも門が開かれていることを知るでしょう。」十字架の深い意味を、告げるのは後からでもよいかもしれません。何より、私ども自身が、開かれた新しい世界に生きる喜びと感謝にいよいよ確信をもって生きることが大切です。

私どもは、まだ檻の中に閉じ込められている大勢の方々のただ一歩先を歩ませていただいたにすぎません。しかし、その一歩先が、決定的に、永遠に決定的です。重要です。門はすでに、十字架によって開かれ、世界は新しくなっています。もう、古い罪の縄目にがんじがらめに縛られてはいないのです。もう、ほどかれています。その喜び、福音の喜びの報せを持って、私どもはこの教会の外にいる方々のよい隣人となりたいのです。

祈祷
十字架の上で成し遂げられた救いの御業によって、全人類が罪の縄目から解き放たれ、罪赦され、神の子とされ、自由の身とされる門が開かれました。異邦人である私どもも今や、あなたの羊の群れに加えられました。心から感謝いたします。どうぞ、私どもを救うために苦しみ抜いてくださった主、いのちを捨てて下さった主イエスへの愛と信頼を、いよいよ深め、燃え上がらせ、主イエスの十字架の意味を、福音を証するものとならせてください。囲いの外になおとどまっているこの町の人々のために、滅びの檻から脱出できる門が開いていることを知らないままの羊たちのために、私どもを用いて下さい。アーメン。