★ 先日開催された大会役員修養会で、個人的にもっとも大切な時として感謝したのは、大会宣教と社会に関する委員会の一コマ(セッション)でした。自民党の改憲草案について、長老(弁護士)が解説されました。戦後の日本は、曲がりなりにも「日本国憲法」によって形つくられてきました。そして、この憲法の三大原理と言われる「基本的人権尊重主義・国民主権(民主主義)・平和主義」が挙げられます。そしてこれらは、言わずとしれたキリスト教の根本的な考え方を根拠としています。何よりも、「人間の尊厳」は、キリスト教信仰がこの世界人類に普遍的な価値観として、神から授けられたものとして理解します。そして、このような創造者なる神への畏怖、信頼、信仰なしには容易に崩されてしまうものです。歴史をみれば、権力者は、常に、言わば「権力の尊厳」を、武力を伴う権力によって市民に訴えてきました。しかし、国民(市民)主権の立場によって、権力者たちは、その権力を正当な仕方で選ばれ建てられた代表者によって行使するように、つまり、市民のために行使するように決定的に義務付けられています。その義務を明瞭にしたものが、最高法規である憲法です。つまり、憲法は、市民(国民)が政府の権力の濫用を制御する装置なのです。権力濫用を縛る縄です。市民の権威、尊厳、自由を決定的に制限するのは、いつの時でも「戦争」でした。「戦時体制」それは、市民、個人の自由を国家のために制限させることを、前提に成り立ちます。
☆ 「自民党憲法改正草案」は、この憲法の本質そのものを完全に無視した驚くべきものです。つまり、憲法を自分たちを縛る最高法規にするのではなく、国民の自由を制限する、しばる方向で「改正」しているものだからです。およそ、まじめに議論するその前提が失われているというものです。「維新の会」の共同代表の一人は、実に、「憲法破棄」を公言しています。しかし、自民党草案を読めば、上述のようにほとんど似たりよったりの主張だと思います。
★ 私どもの教会は、戦後、新しく創立した教会です。その原点は、「二度と同じ過ちを繰り返さない」と言うものであったハズです。その過ちは、教会固有の過ちでした。政府の過ちによって起した戦争に反対せず、むしろその国策を遂行する宗教団体になったという日本の教会の決定的罪です。当時、ほとんどすべての団体は、治安維持法、国家総動員法などによって、国策に追従しないいかなる個人、団体の存在は、非合法のものとされ、存在を全否定されました。しかし、神と御言葉に従う教会は、たとい、そのような悪法の下であっても、これに預言者として神の御心である正義と公平を告げ、抵抗すべきでした。
☆ 戦後の私どもの教会の国家との信仰的な戦いの法的根拠は、憲法によって保障されていました。キリスト教的価値観に基づいて、私どもは、(もとよりそのすべてを喜んで受け入れているわけではまったくありませんが!)憲法に立ち、憲法擁護を教会の基本的立場として、さまざまな政治的活動に対して、折々に、反対や抵抗の意見を表明してまいりました。そのほとんど全ては、「信教の自由」を擁護する戦いでした。しかし、改正草案は、まさに「信教の自由」を、かの「大日本帝国憲法」とまったく同じように、「制限」をつけることによって実質的に骨抜きにしてしまうものです。戦後の教会の戦争責任、戦後責任の総決算の戦いを求められるのは、いつでしょうか。
★ 教会は、神と隣人のために生きる群れです。私どもが政治的な態度を公的に表明するのは、決して、単に、キリスト教会という己の宗教団体の権益を擁護するためではありません。そのようなことのために、政治的権力に訴えること、それは、教会の自殺行為とすら思います。私どもは、神の国の福音を伝道し、証することによって世界に平和を築きあげる務めを担うのです。しかもそれは、決して政治団体、政党によって打ち建てられるようなものではありません。主イエス・キリストの福音、十字架と復活による神との和解、平和こそが、この世界を救う唯一の道です。伝道月間の最終日です。私どもの存在理由は、神の国の喜びの知らせ、つまり福音伝道を行うところにあります。伝道する教会であることを、やめるとき、教会は死んでいます。
☆ 今年の夏の被災地ディアコニア(被災者支援の奉仕)は、これまでの三つの仮設住宅の皆さまへの支援ではなく、初めて、福島県相馬市の仮設入居者の支援を計画し始めています。一つは、のぞみセンターが山元町への支援で、手いっぱいの現実に鑑み、福島県よりの隣町への支援の道を探りたいとの願いからです。そしてそれは、福島原発の被災の現実がまったく復興に程遠く、被災者の特別の苦しみを思わされているからです。三カ月に一度の現地ディアコニア。これからも、祈りましょう。