「世界に広がる教会」
2013年10月13日
マタイによる福音書第28章16~20節③
【さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」】
今朝は、いよいよ、「主の大宣教命令」そのものを学びます。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」です。これは、ご復活された主イエスは、山の上で、高らかに「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」と勝利の宣言に基づいて語られたご命令です。おさらいをしますが、これは、もともと御子なる神として持っていらっしゃった主権者としての権威と権能のことだけではありません。むしろ、十字架で私どもの死を自らの死をもって打ち破り、死者の中からご復活されたことによって初めて父なる神から付与された権能、権威のことが前面に出ています。一言で言えば、救い主としての権能、救いの権威のことです。これこそまさに究極の権能なのです。権能を簡単に言えば、「力」のことです。権威とは「偉さ」ということです。しかし、たとい偉い人、権威者と認められていても、その偉さで現実に人や社会に影響を及ぼすことができないのであれば、権能を持っていないということになります。つまり、権能とは、真実の権威に基づいて実際に行使できる力のことです。イエスさまは、天地の主でいらっしゃっる権威者であられます。しかもその権威を自由に発動する権能も、父なる神から授けられたのです。そして、その権能の中でも、究極の権能こそ、十字架とご復活の後に与えられた権能にほかなりません。それは、死の力、陰府の力を打ち滅ぼす権能、罪人の罪を赦す権能、罪人を神の子とする権能です。罪人を義とし、天国に入る資格を与えるという究極の権能です。
さて、今朝の御言葉は、「だから」と始まります。言い換えれば、「こういうわけで」となります。これこれを理由にして、あなたがたは当然、こうすべきである。これこれの事実を根拠にすれば当然、あなたがたは、こうなるはずだという意味です。主イエスが天地のあるじでいらっしゃって、罪の赦しの権能を授けられたのであれば、そして、それを弟子たちが理解するならば、どうしてもこのことがついて来る。これをしなければならない。こうあらねばならないというわけです。
その「だから」に続くのは、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」です。まさにこの個所が「大宣教命令」と呼ばれる所以です。しかし、だからこうしなさい、だからこうなるはずだと言われても、ユダヤ人である弟子たちにとっては、すぐには飲み込めない命令です。どういうことかと申しますと、主イエスは、ここで「すべての民」とはっきりと仰ったことです。少しおさらいをしましょう。マタイによる福音書第10章で、主イエスは、12人の弟子たちを、伝道へと派遣致しました。そのとき、こう仰っいました。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」ここで主イエスは、はっきりと弟子たちの伝道のエリア、広がりをイスラエルの家の失われた羊、つまり、ユダヤ人に限定しておられます。そこから踏み出ることを、主イエスが禁止なさったのです。
さらに、マタイによる福音書の第15章では、カナンの女性、つまり異邦人の女性が自分の娘の癒しをもとめて、はるか遠い、主イエスを訪ねて来た出来事が記されています。その時、こう仰いました。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」ただし、彼女が、自分のことを小犬になぞらえて、主人の食卓から落ちるパン屑なら、いただけるのではないでしょうか、と主に信頼し、よりすがったのを受けて、主イエスは、感動し、喜んで彼女の娘を癒されました。
私どもは、特に、マタイによる福音書において、主イエスの地上のご生涯の中で、伝道のエリア、伝道における範囲について、明確に、イスラエルの民、ユダヤ人に限定しておられる御心を知らされました。これは、ユダヤ人が圧倒的多数を占めるマタイによる福音書を生みだした当時の教会に対しての主イエスからの強いメッセージが込められていたのです。つまり、神がイスラエルに対して結ばれた契約は、決して、覆されることはなかった。神は、第一に、ユダヤ人の救いを成し遂げようとなさったし、今もそうであるというユダヤ人へのメッセージです。
しかし今ここで、そのイエスさまが、悪い言葉を使えば、前言撤回されるのです。「あの時はああ言ったけれども、今は、こうなのだ」と仰ったのです。これは、確かに、誤解を生じかねないことです。しかし、マタイによる福音書は、今まさに、時代の転換点、新しい時代が始まったことを、主の勝利宣言を告げようとするのです。これまでは、神の国の福音伝道は、ユダヤ地域限定のものでした。そうでなければならなかったのです。しかし、今日、この日からは、それでは、ダメだと、過去のご自身のお考えを否定されたのです。十字架とご復活が地上で実現したからです。これが、新しい時を切り開く出来事となったからです。
しかし、弟子たちは、この主イエスの御心の大変化、自分たちのあり方に対する大変革にただちについて行くことは、繰り返しますが、できませんでした。とても、時間がかかったのです。ここでも、おさらいをしたいと思います。この個所からの最初の説教で、ご復活された主イエスにお会いしてひれ伏し、礼拝を捧げた弟子たちについて学びました。彼らは、心からご復活の主イエスを礼拝しました。しかし同時に、なお信じきること、つまり、深く理解し、納得し、徹底して信じきることができなかった弟子たちでもあったのです。これが、私どもの信仰の真実、あるがままの姿です。この事実を主がすべて受入れ、含み入れた上で、この大宣教命令が彼らに託されるのです。
ですから、弟子たちの少なくない者たち、使徒言行録を読めば、ペトロは明らかにこの大宣教命令の言葉の意味がよく理解できていなかったことが分かります。しかし、彼らは、しだいにこの御言葉の意味がはっきり見えて来るのです。この福音書の著者自身もまた、よく分かったからこそ、この御言葉を書き残したのです。主の御心がはっきり理解できた証拠が、この福音書の存在だと言っても良いと思います。
彼らは、主イエスの御心、あの十字架とご復活の意味を、罪の赦しのため、全人類の救いの成就のためのみわざであったことを悟りました。彼らは、主のご復活によって、世界は新しい時代に突入したこと、世界はまったく新しく変わったことを悟ったとき、彼らは、まさにガリラヤから出て行ったのです。彼らは、漁師たちで、ユダヤ以外の世界は見たこともありません。足を踏み入れたこともありません。しかし、主がどなたでいらっしゃるのか、主イエスが、自分たちに何をもたらして下さったのかを知った時、そのような彼らであっても、世界に打って出るように変えられるのです。
彼らが、まさにこの御言葉を理解し、従ったそのなによりの証拠として、ここに私どもの教会もまたあるのです。彼らが、弟子として主イエスに忠実に従ってくれたそのおかげで、ここに私どもの教会もまたあるわけです。私どもも、主イエスの復活によって、時代がまったく新しくなったこの事実をいよいよ深く悟り、この事実にしっかりと立ちましょう。
さて、ここで「出て行く」ということを、なお丁寧に考えましょう。私は、心に悲しみと痛みがあり続けています。それは、使徒パウロになぞらえるのは、おこがましいですが、事実です。パウロは、同胞のユダヤ人が、続々と主イエスを信じないで、むしろ、なお主イエスに敵対する姿を見ていました。使徒パウロは、神がどれほど、愛と憐れみを注ぎ、忍耐の限りをもってご自身の特別に選ばれた民が悔い改めて、ご自身に立ち帰ることをのぞんでおられるかを知っています。ですから、パウロ自身も、神の悲しみと痛みを共有するのです。何とか救われて欲しいという願いが、彼の心を苦しめ続けます。これは、救われたキリスト者であれば誰でも理解できるキリスト者の心だと思います。ですから、パウロは、まさに全世界を目指しました。そして、彼がしたことは先ず、世界に散らばって居住するユダヤ人を伝道の対象としたのでした。そこから、その町の異邦人へと伝道を広げて行く、それが、パウロの言わば、伝道戦略でした。彼こそ、出て行く人、出て行くキリスト者の典型です。しかし、その彼が、そこで一生懸命したのは、出て行く実りとしての教会の形成でした。彼の理解する神の国の伝道とは、キリストの教会をその町に建て上げ、それを広げ、深めて行くことだったのです。
つまり、出て行くと言うことは、そこに留まる人が必要であるということでもあります。さらに言えば、留まるキリスト者がその町にまさに根付いて、その町の人々に主のご復活を証して、教会の交わりへと招き入れることが必要だということです。そうなりますと、出て行くことと、今朝、私どもがここで礼拝を捧げていることは、別のもの、別の働きではないということが、分かって頂けると思います。ここで、しっかりとまことの神礼拝を捧げることと、出て行って伝道することとは、違う行為ではないのです。むしろ、日本の現実において、いよいよ、この主日礼拝式の充実、伝道する礼拝式としての思いを込めて、説教者も皆さまもこれを守ることが、基本中の基本の教会のあり方です。もとよりいつも、新しい人向けの、初心者の方々への説教をなすことは、これは、できません。しかし、新しい方が、真剣に神を求め、神の救いを求めるような聖書の説き明かしが説教者に求められています。また、皆さまは、週日の歩み、生活においては、まさに、教会から神の国の福音を伝道し、証するように家庭や働き場に遣わされているのですから主日礼拝式に共に出席できるように、いつも第一の祈りとして頂きたいですし、すべきです。これが、出かけて行くということの意味です。
最後に、「弟子にしなさい」を学びます。私どもは、自分のことをキリスト者と呼びます。岩の上教会では、クリスチャンという表現ではなく、キリスト者と日本語を用いる方がほとんどかと思います。しかし、このクリスチャン、ギリシャ語では、クリスティアヌスという言い方は、そもそも、私ども自身から生まれた言葉、定義ではありませんでした。これは、批判する人々からのあだ名でした。使徒言行録第11章に記されていますが、アンティオキアという町で、初めて、呼ばれはじめたものです。このクリスティアヌスの意味は、キリストの者、キリストに属する者、キリストの奴隷というニュアンスです。おそらく、キリスト者の生き方や言葉のはしはしに、キリストという言葉が出てきたり、キリストを中心にした生活の営み、キリストを中心に何でもかんでも考えるという世の中一般の人々からすれば、変わり者という軽蔑の思いが込められていたのです。しかし、キリスト者たちは、そのあだ名があながち嫌ではなく、しかもポイントをついていると思ったからでしょう、今日にまで残って、むしろ、私どもを呼ぶ際の、一般的な呼び方になったのです。それなら、新約においてキリスト者は、自分たちのことをどのように理解し、自分たちの存在を表現していたのでしょうか。今朝、この素朴ですが重要な点を、私どもは、あらためてわきまえたいのです。それが「弟子」「マセーテース」です。そもそも、マタイによる福音書をはじめすべての福音書では、弟子という表現だけが用いられています。実は、新約において、キリスト者、クリスチャンの呼称は、ほとんどないのです。(一ペト4:16)それなら、どのような呼び方が多いのかと言えば、弟子でなければ、「聖なる者」です。さて、いずれにしろ、ここで問いたいのは、私どもは自分のことをどのように自覚しているのかということです。私どもは、聖書に記されているように、キリストの弟子としての自覚をどれほど鮮明にしているでしょうか。逆に、ここが不明瞭であると、どうなってしまうのでしょうか。もしかすると、ここにこそ、我々の信仰生活において根本的な課題も示されているのかもしれません。
子どもカテキズムは、これを学ぶ仲間たちには、特に、「神さまの子ども」ということをベースにして、問いを重ねて行きます。新しく大会教育委員会で発行される子どものためのカテキズムもまた、「神の子ども」という言葉を基本に据えています。そして、「神の子ども」という表現で明らかにするのは、主に救われた結果の私どもの立場、本質のことです。つまり、神の子になるのではなく、徹底的に神の子とされるという受け身の世界なのです。そこには、私どもの意思だとか志、私どもの決意だとか目標などは一切問われません。しかし、主イエスの弟子なら、如何でしょうか。そこには、私ども自身の志が問われているのではないでしょうか。私どものある覚悟が求められているのではないでしょうか。主イエスは、目の前にいる弟子たちを、まさにご自身の弟子として選ばれたのです。最初に弟子とされたのは、二人の兄弟でした。ペトロと弟のアンデレです。この二人に対して、「わたしについて来なさい。」とお招きになられました。そして、その目的として、このように彼らの将来を描き出されました。「人間をとる漁師にしよう」彼らは、ガリラヤ湖の漁師をしていました。しかし主イエスは、もはや、彼らを魚を釣り上げるのではなく、人間を神ご自身のもとへと釣り上げる漁師にすることこそ、彼らを選び、弟子として招かれたご目的なのです。そして、彼らは、ただちに網を捨てて、主の弟子となります。主イエスに従って行ったのです。
そしてあれから3年後、もう一度、彼らは、改めてこの召命の御心を聴かされます。それは、「すべての民をわたしの弟子としなさい」でした。主イエスの弟子をつくり、育てることことが、人間をとる漁師の務めだということです。
さて、ここで間違えてならないことがあります。大切なのは、主イエスの弟子とすることであって、自分たちの弟子をつくることでは決してないということです。この事は、極めて重要なことです。ここで失敗すれば、この働きは、単なる人間的な営み、人間のなす宗教活動に転落します。人の目には、似たような働きに映ってしまいやすいのですが、それを見分けなければなりません。そして、教会の役員は、そのようなことがなされないように、見張り、自分自身も又、自分について来る人を育てるようなことにならないように自戒すべきことです。
最後に、この大宣教命令は、誰に課された命令なのでしょうか。これは、決して、この場にいた弟子たちだけに与えられたものではありません。主イエスの弟子たち全体、教会に与えられた命令です。教会共同体に連なるすべての者たちは、この務めを手分けして担うように命じられたのです。したがって、そこに、さまざまな奉仕が生まれるのです。多様な働きが生まれるのです。皆が、いわゆる説教者、伝道者、牧師にならなければならないわけでは、まったくありません。長老、執事、それぞれ信徒としての務めがあります。また、具体的な教会の奉仕があります。大宣教命令とは、教会全体に、私どもひとり一人に課せられているのです。この命令に正しく、旺盛に応答しているかどうか、これが教会をはかる物差しだと言ってもよいのです。
「主イエスの弟子」をめぐってわずかの時間で学ぶことは不可能です。まことに大きな、広い概念です。ただし、要になるのは、私どもの言わば、唯一の先生でいらっしゃる主イエスに生きることの上で必要なことは、何から何まで、学ぶことが求められています。主イエスの地上の歩み、その生き方、その考え方に学ぶのです。それを真似てやってみることです。
主イエスの弟子たちの集い、それが教会です。それが、教会であるべきです。そうであれば、教会員になるということは、相当にハードルが高いと言わざるを得ません。そして、その弟子ということが、間違って解釈されるとき、まさに彼らが主イエスの前で、自分たちの中で誰が一番偉いのかという、この世の競争とまったく同じことをすることになります。主イエスの弟子となる、それは、終わりなき歩みです。地上にあっては、先生でいらっしゃる主イエスを越えることは、まったくかないません。他の領域での先生なら、弟子が先生を越えて行くことは、しばしば起こります。当たり前の事と言えるかもしれません。後から行く者たちには、先生が先に進んだその地点から、出発できるという有利さがあるからだと思います。しかし、主イエスと私どもの場合は、異なります。質が異なります。それなら、私どもはいつ弟子になるのでしょうか。なれるのでしょうか。それは、従うその瞬間からです。ついて行くそのときからです。ですから教会は、イエスさまを天地の主、わたしの救い主と信じ、従うところで、その人を教会の仲間として受け入れる、主の弟子として認めるのです。他の弟子たちと、信仰の進み具合を比較することは、意味がありません。ひたすら師である主イエスをみならうことです。
私どもは、既に主の弟子とされています。主の弟子には、卒業がありません。一生涯、主のご命令の下に留まって、主の弟子としての成長を求めてまいりましょう。それは、自分自身が弟子となることに励むことと同時に、主の弟子を育てて行くことです。今からまた出て行きましょう。そして同時に、水曜日に、また主の日にここに集いましょう。それが、主に派遣された教会の応答なのです。
祈祷
私どもは今ここであなたを父なる神として礼拝し、御子イエスを救い主として崇め、賛美することが許されています。あの山の上で、主イエス・キリストが弟子たちに信頼をもって託された神の国の福音伝道が、今、ここで信じられ、神の国が広がり続けています。願わくは、私どもが今ここで、新しくあなたのご命令を聴き取り、志を常に新しくして、全ての民をあなたの弟子とすべく、励む者とならせてください。先ず、自ら、主イエスに倣い、主イエスを師と仰いで生きて、弟子としての歩みを進み行かせて下さい。その歩みを共にする弟子たちの仲間をここに加え続けて下さい。そのために、私どもの教会が、教会を挙げて、この一事に打ち込むことができますように。そのためにあなたは、役員たちを備え、私どもひとり一人が主の弟子として、整えられ、この命令を教会全体に担うように導かれます。どうぞ、確かな導きの中で、教会設立を果たし、いよいよ、主の宣教の命令に勤しむ群れとならせて下さい。アーメン。