★ 先週は、設立特命委員3名をお迎えして、4時45分~8時まで、役員候補者の試問会を行っていただきました。何よりも、このためにご奉仕下さった中根汎信教師、木下裕也教師、○○長老に心から感謝致します。一人一人に丁寧に試問していただきました。
全員が、長老、執事として適当であることが認められました。ここに至るまでの皆さまの背後の執り成しの祈りを心から感謝致します。多くの委員方は、極度の緊張の中、その日を迎えられました。試問の前には、「『教会規程』や『ウェストミンスター信条』など、これまで学んできた事ごとを質問されたらどのように的確に答えられるか・・・」と、受験生のような気持ちでノートを見ておられる方もいました。私もさまざまな思いの中で、緊張の時を共有いたしました。それだけに、「試験」のような問いがなかったことは、候補者には肩すかしであったかもしれません。しかし、試問は、一生の宝となると思います。
☆ しかし、真の緊張は、16日の誓約と按手の時だと思います。長老、執事の務めを不十分ながらも学び、しかもこの数年は、将来の役員像を描きながら、委員としての自覚的な奉仕を深められました。(-ちなみに、政治規準には、当然ながら「伝道所委員」から執事、長老の「移行期間」のための訓練等については記されていません。しかし、執事・長老の務めを自ら想定して、それに備えることは重要かつ必須と考えます-)その日の緊張の意味は、列席者や司式者の前での緊張ではなく、まさに生ける神の面前(御顔の前)でのものだと思います。聖なる「時」の中でも、まさに特別な瞬間です。そして、私ども現住陪餐会員が立ち合うものです。その意味でも、皆さまも自らの「誓約」に責任を持つことが求められています。お配りした式次第の中の「誓約のことば」をかみしめながら、ご準備下さい。
★ 特にこの2年余、わたし自身は、委員の皆さまに、ある意味では、集中してまいりました。長老主義教会にとって、教会役員の訓練は生命線です。教会の将来にとって、この方々の「信仰」が決定的な意味を持つからです。同時に、皆さんのなかで、ただでさえ忙しぶっている牧師が、いよいよ「遠く」になっているとの思いを持たれた方もいらっしゃると思います。本当に、申し訳ないことです。同時に、まさにそのためにこそこれから、長老を中心にしながら執事方も含めて共同牧会を担ってくださることでしょう。牧師を含め、役員とは、まさに奉仕者、仕え人に過ぎません。いささか乱暴な物言いですが、会員の魂の配慮のためにこそ、立てられた務めに過ぎないのです。自分の時間や自分のことを脇に置いてでも、教会の仲間たちの祝福のために、自らを差し出したいと願っています。
☆ 渡辺信夫先生から長いメールを頂きました。まさに理知的な先生が、「涙がこぼれる」と・・・。東京告白教会もまた自給開拓での出発と記憶しています。あの時代も、現代も真の「教会」設立がどれほど困難であるかを思います。祈って支援してくださる大先輩の先生の志を、継承したいと心底願います。
★ 開拓20年の歴史また実質においてもまさに「節目」を迎えます。節目とは、危機(機会=チャンス)に他なりません。「外」からの危機は、私どもにとって本来、不必要なものとも思われます。ただし自らの内にある危機を自覚し、主にあってふさわしく、適切に対応すべきです。その成熟を祈り求めます。
★ 先週、○○兄の卒業制作発表を芸文センターに家内と共に観に行きました。実に、優れた作品に心底驚かされました。救われて、キリスト者とされ、「カテキズム」等の学びの中で、上から与えられた発想ではないかと思います。この欄で、説明不能です。言葉、思想、哲学、宗教、コミュニケーション・・・をデザイン(遊ぶ)する・・・。この賜物が神と人に捧げられ、用いられるようにと心から祈ります。帰路、現実(別れ)を見つめないで過ごしてきましたが、本当に、送り出す日が近づいて来たことを実感してしまいました。今日の「歓送会」が祝福されますように。
☆ 「主の名を呼び求める者は誰でも救われる」このヨエル書第3章の御言葉は、ルカや使徒パウロによって引用されています。私どもは、今朝も主「イエス」の御名を唱えて祈り、そして礼拝を捧げます。聖霊が注がれたからお呼びすることができるのです。掘り下げて言えば、聖霊が何十回、何万回も私どもの名前を呼び続けて下さったということです。それに呼応するのが、祈りです。そもそも、愛をもって優しくこの地上へと呼びだされ(誕生)た私どもです。その時から、さらに優しく呼ばれ続けて、今日に至りました。ですから、私どもも、愛と感謝を込めて、主イエスさまとお呼びするのです。何と言う恵み、何と言う幸いでしょうか。