過去の投稿2004年5月16日

「裁く神が裁かれて」 ヨハネによる福音書 第8章1節-11節

 本日は、伝道月間の第3回目として、礼拝式を捧げております。伝道新聞において予告いたしておりました説教の副題は、もともとは、「十字架の意味」でありました。しかし、今公開されております映画「パッション」が、話題を集めておりますので、皆さんの関心を求めるために、「パッションの意味」と致しました。ただし、単に、興味を引くためだけに「パッション」と付けたのではありません。パッションには、受難、苦難と言う意味がありますし、映画は、キリストの十字架の死に至る最後の一日を再現しようとするものですから、パッションの意味と十字架の意味とは同じ事柄ですから、最初から弁解するようが、このように付けたのです。今朝、神によってこの教会に呼び集められました皆様とともに、キリストの苦難、その頂点である十字架の苦しみの意味を、神の言葉である聖書から学びたいと思います。

 その日、主イエスはエルサレム神殿の境内におられました。その数日前には、ユダヤ人の大きな宗教的お祭りの一つであります、「仮庵の祭り」が盛大に祝われていました。この祭りは別名「水の祭り」とも呼ばれていました。そこで主イエス・キリストは、大声を張り上げて説教なさいました。どのような説教であったかと申しますと、こうです。「あなたがたの本当の渇きを満たすのは、単なる宗教活動ではないのです。いわんやただの飲み水ではありません。わたしのところに来なさい、わたしを信じなさい。何故なら、私こそはあなたの一番大切な命を満たし、潤し、あなたを潤す水、生かす水、永遠の命の水そのものなのだから。私を信じなさい。」

さて、今、この盛大な祭りが終わって、人々はおのおの家に帰って行きます。しかし、主イエスはもう一度、朝早くに神殿に赴かれました。神殿に詣でていた民衆は、イエスを見るやすぐに取り囲んでしまいました。そこで、いつものように、教え始められました。ちょうどその時です。突然、律法学者、ファリサイ派の人々がその場になだれ込むようにして入って来ました。律法学者とは、聖書の学者と言う意味です。当時のユダヤの指導者です。そして、ファリサイ派のユダヤ人とは、律法の掟を厳密に守って、ユダヤ人の純粋を守ろうとするいわゆる敬虔な宗教者のことです。彼らの中に、一人の女性、肌も露な女性がいました。彼らはこの女性を大勢の人々の中に立たせます。彼らは勝ち誇ったような顔つきで申します。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

律法学者、ファリサイ派の人々は、何故、この時、この場面でこのような行動に出たのでしょうか。ヨハネによる福音書は、このように言います。「イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。」「訴える口実を得たい」つまり裁判に訴えたいというわけです。この裁判とは宗教裁判です。宗教裁判に訴えて彼を葬り去りたいと、律法学者、ファリサイ派の人たちは考えているのです。

さて、そこでもしも主イエスが、彼らに向かって、「モーセの律法、聖書の掟に従ってその女を石打の刑に処しなさい」と命じられたらどうなのでしょうか。それは、まったく正しいことであって、彼らと同じ立場に立つということを意味しています。しかし、その時には、主イエスの周りでその説教に心打たれて聴き入っていた人々は、主イエスの教えを、一般の律法学者、聖書の学者と同じものであると認識するでしょう。そしてそうなれば、律法学者たちにすれば、主イエスの人気を落とすことに成功するわけですから、それだけでも良かったのです。そして、万一にも、「彼女を赦しなさい」と発言すれば、大勢の証人がいる前で公然と神の掟を破ることになりますから、主イエス御自身が石打の刑にされてしまいます。つまり、どのように発言するにしても、彼らには一応の目的が達せられるわけです。

ですから、彼らは、勝ち誇ったように主イエスに詰めよるのです。すると、主イエスはかがみこみます。かがみこんで何を始められるかと言いますと、指で地面に何かを書き始められます。いったい、何を書いておられるのでしょか。分かりません。古来、旧約聖書に記されている『十戒』を書いておられたとか、言われます。深い意味があることは確かですが、今朝はそこに深入りする必要はないと思います。律法学者たちは、主イエスのおかしな、しかし深い意味のある行動の意図を考えようとはせずに、問い続けます。「あなたはどうお考えになるのか」「あなたはどうすべきだと思うのか、早く答えなさい。」
そこで、主イエスは、身を起こして仰いました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。あなたたちの中で罪を犯したことのない者がいるのか。神の御前で、神の言葉を破ったことのない者はいるのか。十戒を思い起こして、その一つも破ったことのない者は果たしているのか。」こう仰ると、主イエスはまたもや、かがんで地面に書き続けられます。

朝早くから神殿に詣でて、主イエスの教えを聞いていた人々は、おそらく最初は、この女性が連行されてきたとき、心のうちに、「そんなことをしでかす女は、モーセの律法どおり、神の掟を破る者だから、厳しく断罪されて当然である」と石ころを拾い集めたかもしれません。しかし、聖書は告げます。年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってしまったのです。年長者たちは、自分の人生を振り返って、思い起こすものがたくさんあったのでしょう。おそらく、律法学者とファリサイ派の人々は、困惑したと思います。しかし、その場に立ち続ける者がどんどん少なくなって行くのを見たとき、苦虫をつぶしたのではないかと思います。そして、彼らも今回は仕方がないということで立ち去って行ったのでしょう。

しかし、注意してください。全員が立ち去ったのではありません。9節、「イエスひとりと、真中にいた女が残った。」のであります。もちろん、この女性は残るしかありません。被告なのですから、立ち去れません。しかし、最も大切なのは、そこに言わば、被告人だけではなく、主イエス・キリストも残っておられると言う事実であります。これこそ、この物語の急所なのです。つまりここではっきりと明らかにされる真理があります。主イエスが「あなたたちの中で罪を犯したことのない者」そのたったお一人であるという事実であります。つまり、イエスには罪がないということです。「罪がない人」と言う事は、文字通り、「神」と言うことであります。主イエスは、神の御子でありたもうことをここでも宣言なさったのであります。このお方こそ、この女性をそして、すべての人間をその正義によって裁く事のお出来になる唯一のお方なのであります。「あなたは姦淫してはならない」という十戒の第七戒を石の板に記された神御自身であられるのです。ところが、実にその主なる神であられるお方御自身が、「わたしもあなたを罪に定めない」と宣言されたのであります。この女性は、当然、死刑を執行されるべき罪の刑罰を、他ならない、神によって免除されてしまったのであります。

さて、確かに、姦淫の罪は、明らかに十戒違反であり、石打の刑に相当する重大な罪であります。しかし、この物語の中であらわにされる人間の罪は、この罪だけではないのです。もっと深いものすらあるように思います。
たとえば、この事件を少し丁寧に考えて見ますと、いくつかの不可解な点、疑惑の部分が見つかるように思います。先ずその一つは、何故、女性だけが捕らえられて来たのかと言う点であります。相手の男性はどこへ行ったのでしょうか。彼だけ振り切って逃げてしまったのでしょうか。第二に、何故、現場を捕らえることができたのかという点です。しかも、こんなにタイミングよく主イエスのおられるところにそのような人を連れて来ることができたのは何か、うまく行き過ぎのように思えます。もしかすると、彼らは単に、主イエス・キリストを貶めるために、彼らの罪を利用したのではないかという疑いが生じます。もしかすると、この二人のことを何かしらの方法で聞きつけて、その行為を及ぶのに任せて、その現場を捕らえようとしたのかもしれません。もしも、この推測が当たっているとすれば、ここには、二重、三重に罪の問題が隠されてあるように思います。一つは言うまでもなく、姦淫の罪であります。しかし、その罪が犯されることを知っていながら、するにまかせた宗教指導者たちの罪はさらに重いと思います。そして何よりも、他人の罪を道具とし、利用してまでしてイエスを殺そうとする罪はおぞましいものです。律法学者、ファリサイ派の人々は、「自分は、罪を犯してはいない、自分は神の前に良い人間である。それに比べて、こんな姦淫を犯す女も、そしてただの大工の男であって、正式な律法の教育を受けてもいない男にすぎないイエスが、自分たちをないがしろにして神の教え、聖書の教えを語っているのも、気に入らないし、このイエスも、神に呪われているような人間たちだ。だから、このような者達は、殺されて当然である。」彼らは、この女性を、そしてイエスをも軽蔑しています。その軽蔑の根拠にしているのは、実に神の言葉、聖書です。聖書によって、つまり神の名の下に裁こうと企てているのです。神の正義、聖書の真理に基づいて、イエスを殺すことこそが、彼らの主な狙いなのです。

しかし、静かに考えてみるべきです。そもそも、神の教え、聖書の真理は何のためにあるのでしょうか。それは、人間を罪から解き放ち、自由にするためです。人間を、神の愛の下に置いて、どこまでのこの神の愛と恵みの支配の中で、祝福された、人間らしい生活を、神を愛し隣人を愛するために、与えられたものが、神の言葉、神の掟、十戒なのです。それを、相手を貶め、自分に不利なことを言い、厳しい批判をし、自分の立場を危うくするような、自分の気に入らない者を攻撃するために用いることが、そもそも、聖書の間違った使用法と言わなければならないのです。

今、世界がきしんでいます。イスラム文化圏とユダヤ・キリスト教文化圏の対立であると言われます。その対立の根底に、お互いに、信じる経典をたてにして、相手の存在を否定する動きがあります。しかし、イスラムのコーランについては専門外ですから、論評を差し控えますが、もしも聖書を盾にしてそのような企てをするなら、まったく愚かしいことであります。しかし、その様な行為がまさに今でもなされているのではないでしょうか。神の言葉が相手を断罪し、叩きのめすために使われるのであれば、それは、聖書と正しく向かいあっているとは決して言えないのです。そして、そこでもしも、私ども自身も、自分は彼女、またこの訴える律法学者たちのような罪、過ちから遠いと考えるなら、それこそ、まさに、ここに登場する人たちと同じことになるのです。

「わたしもあなたを罪に定めない」主イエスはこう宣言されました。彼女は、主イエス・キリストによって罪の責任を取らされず、まったく赦されました。彼女を真に裁くことのおできになる唯一のお方が、「罪に定めない」と宣言してくださる。いったい、これにまさる幸いがあるでしょうか。罪人にとって、究極の課題は、罪が赦されること、これ以外にありません。ですから、教会の使命、あるいは働き、役割は、この罪の赦しに人々を招き、あずからせることだと断定してもかまいません。神はキリストの教会をご自身の救いの機関として、定めておられます。この礼拝式でも究極の課題は、まさにここにあります。皆様が、この教会に来てくださり、ここで主イエス・キリストと出会ってくださるなら、神がここで何を与えてくださるかと言えば、この罪の赦しなのです。 

もしも彼女が、「ああ助かった、ああこの人はなんと優しいお方なのだろう、この人と出会えて私はなんて幸運なのだろう。」それ位の気持ちでは、この女性を姦通罪、姦淫の罪へと転落させた罪の大きな力、激しい誘惑に抗う事など決してできません。この女性が本当に、この罪を憎み、いえ、ただこの罪だけではなく、彼女のなかにもあったはずの、律法学者やファリサイ派の人々に通じる自分の立場を守り、自分のしていることを正しいとするために、相手を軽んじるような罪、つまりすべて神の正義、御言葉に背く罪と戦うことは不可能です。「罪の赦し」に生きるということは、この地上では、新しい人間に造り変えていただくまでは、つまり、主イエス・キリストと一つに結ばれて新しい人間となること、主イエス・キリストによって渇きを満たされること、主イエス・キリストという命の水を飲み続ける人間となるまでは、現実に罪と戦う意欲と力は出てまいりません。

そのためにも、主イエスは、「わたしもあなたを罪に定めない」と仰った後すぐに付け加えてこのように仰せになられます。「安心して行きなさい。そして、これからはもう罪を犯してはならない。」彼女は、これから「もう決して罪を犯してはならない。」との主の御言葉を本気で生きなければならないのです。もう二度と、この過ちを犯さないと決心して、志を固く定めて歩みだす必要があります。そのためには、「これからはもう罪を犯してはならない。」との主イエスのご命令を、いわゆる戒律、恐怖の言葉として聞くのでは不可能です。そうではなく、愛の戒め、愛の命令として、感謝しながら、喜んで聴きつづけること、感謝しながら生きつづけることがなければ、この主の御言葉は地に落ちるのです。もしも、「あぁ、この場を何とかやり過ごせた」と言うように聞いているなら、この主の赦しの宣言は、大胆に申しますと空虚な言葉でしかありません。

 さて、それならこのあと彼女はどうしたでしょうか。彼女のその後の歩みについては記されていません。この物語はここで終わっております。しかし、この物語を収めているヨハネによる福音書には、もっと大きな物語が記されています。その後の彼女の消息は不明なのですが、その後の主イエス・キリストの消息は明らかにされています。

もしもこの物語がただ単にこれで終わってしまうとすれば、根本的な重大問題は残されたままになってしまいます。これだけのお話であれば、単に「イエス様というお方は優しい方だなあ、大岡裁きのように機転がきく賢い英雄だなぁ」と言う次元でしかなくなってしまうのです。私自身、高校生の時、そのようにこの物語を読んでいました。これだけなら、根本問題、重大問題が残ったままです。即ち、あの女性の罪の刑罰はそのまま、残ったままなのです。たとい神の御子であったとしても、「私もあなたを罪に定めない。」と口で言っただけでは済まないのです。いえ、神御自身だからこそ、それでは済まないはずです。つまり、モーセの律法はどうなるのかと言うことです。あの姦淫を罰する掟は、踏みにじられたままになるのです。神御自身が打ち立てられた正義は地に落ちたままなのです。神の審きは残ったままです。神の死刑判決は残ったままなのです。神の審きが貫かれることがなければ、世界は罪の汚染によって、無秩序になり、ますます崩壊へと急ぐしかないのです。何よりも神御自身の正義が立ちません。正義が曲がってしまうのです。はっきり申しますと、神が神であることができなくなる、こう言っても過言ではありません。ただ口先だけで、「あなたの罪を赦す」と言うなら、誰も裁くことなしに、何も裁きが執行されないままにこの物語が終わって行くだけなら、本当の意味で、彼女の罪は赦されないはずです。そのまま残るはずです。旧約聖書を開いてみますと、少なくとも神の民が罪を犯すなら、動物を屠り、血を流させます。それは、命が身代わりなるということです。罪の刑罰を動物に代行させるのです。

私は信じます。これは明らかなことだと信じます。主イエスは、ここで、このようにこの女性に赦しを告げられた瞬間にすでに覚悟しておられた、決意しておられたはずです。それは、この罪を、実に自分自身の責任として担うことです。つまり、自分自身が死刑にされることを覚悟しておられるのです。ご自身が十字架に掛けられることを見据えられた上で、彼女に赦しを告げられたのです。ご自分が、罪を償うことがなく赦しを告げることは、自ら神の正義、神の律法を壊してしまうことになるのです。世界でたった一人、この女性を審くことがお出来になる主イエスだけが、この女性の罪の支払う償いの死を肩代わりなさる、それをお引き受けになる決断をされてこそ、主イエスは赦しの宣言を発せられたのであります。

主イエス・キリストは姦淫に、罪にルーズな優しいお人好しなお方ではありません。主イエス・キリストこそは、そしてこのお方を罰せられる父なる神こそは、姦淫を小さな罪、わずかなこととはお考えになっていません。律法に記されているごとく、それは死刑に相当する、十戒の第7戒違反なのであります。そればかりか、ここで律法学者たちが必死になって、この女性を踏み台にして、あるいは、神の言葉である聖書を踏み台にして、自分に不利な人間、自分を攻撃する者を断罪し、殺そうと企むおそるべき暗黒の罪をも、罰せられるのです。そればかりか、ここに登場している石を投げられないと考えて立ち去った一人ひとりもまた、罪の刑罰から遠いのではありません。彼らもまた、自分の犯した罪によって、神の裁きを受けなければならないのです。立ち去ってだけでは、自分の罪とその責任は、残ったままなのです。

この説教をするに当たり、私はやはり映画「パッション」を観ておかなければと思いまして、観に行ってまいりました。実は、主イエスが激しく鞭打たれ、まさにそれだけで血みどろにされてしまいながら十字架への道行きを歩まれる中で、人々との出会いや説教を回想させるシーンが出てまいります。そのなかの一つに、この物語が出てくるのです。脚本家は、この女性をマグダラのマリヤと解釈しました。母マリアとおそらくこの福音書の著者であるヨハネそして、この罪を赦された女性、マグダラのマリアが見ているのです。彼らは、その苦難の一部始終を、その肉体的な刑罰のすさまじさは事実ではあるのですが、あまりのむごたらしさに、映画であっても直視するのがつらくなるほどです。

私は、既にこの主イエスの弟子となっている彼女が、兵隊たちの憎悪、軽蔑に基づく鞭打ちの悲惨極まりない光景、主イエスの肉が裂けて全身血みどろになっている光景を見ながら、何を考えていたのかと思っていました。「なぜ、神は、これほどまでにすばらしい愛の人を、これほどまでに放って置かれるのか、なぜ、神はこの聖なる人を、お見捨てになるのか。なぜ、これほどまでにむごい目に、辱めに、暴力にさらさせておかれるのか」このように思っていたのではないでしょう。

そして、私は、彼女は、主イエス・キリストが十字架で本当に死なれたとき悟ったのではないかと思います。あるいは、復活の主イエスにお会いしたときには、鮮やかに悟ったに違いありません。主イエス・キリストは、この私に「あなたを罪に定めない」と仰せ下さったとき、それは、このわたしの罪を身代わりになって、ただ単に人間たちからではない、人間たちの暴力、辱めの極地にあっただけではない、神の怒り、神の刑罰をお受け下さったのだと悟ったと思います。

彼女はそこで、自分の罪が本当に赦されるという根拠、その確かさを見たのです。単なる言葉ではない。行いを伴う言葉を見たのです。そして、自分の罪の重さがどれほどのものであるのか、そもそも罪とは何か、その罪の刑罰がどれほど恐ろしいものであるのか、どれほどまでに神を、神の御子イエス・キリストを苦しめることになるのかを悟ったと思います。また、同時に自分のあらゆる罪がまったく、徹底的に赦されたことを悟ったと思います。

主イエス・キリストは神の御子です。人間の罪を裁く権威を神に与えられているのです。たとえば、聖書の最後の書物でありますヨハネの黙示録によれば、終わりの日に、このイエス・キリストが王の王、主の主として再び来られて全ての人を裁かれることが予告、約束されています。ところが今、このお方が、単に人間から裁かれているのではなく、もちろん、目の前で繰り広げられる、おぞましい暴力、形だけの裁判によって、裁かれているのですが、本当に裁いておられるのは、御子の父、父なる神御自身なのです。この父なる神からの容赦ない裁きを、黙々と受けておられるのです。これが、十字架で起こっている出来事、それが、キリストの苦難の頂点である十字架の出来事の意味なのです。

わたしは映画「パッション」を見ながら、さまざまなことを考えていました。改めて現実に起こったこの神の御子への暴力のひどさに視線をそらせたくなる思いがありましたが、一方で、本当に、わたしの罪は決定的に赦されたことを改めて思いました。あの流された御血の故に私の、私どもの罪は赦されたのです。ですから、あの血みどろの光景を見ながら、深い感謝と喜びが沸いてまいりました。

主イエス・キリストは彼女に、そして私どもに仰せになられるのです。「わたしはあなた罪に定めない!これからは、もう罪を犯してはならない。」この御言葉は、彼女を支える言葉、生かす言葉、出来事になったはずです。そして、今私どもをも支え、生かし、この罪と戦おうという意欲を掻き立てる励ましの言葉として聴こえて来ているのです。御言葉がここで既に出来事になっている、実現し始めているのです。

しかしまた、万一、この罪を犯したときにも、なお、御子イエス・キリストの流された御血を信じるなら、十字架で身代わりになって苦しみ、神の裁きを身代わりに受けてくださったと信じるなら、なお、自分が神の刑罰を受ける人間ではなく、主イエス・キリストのおかげで赦される人間であると信じ直すことができるはずです。

神の御子イエス・キリストは、本当に、死んでくださいました。あなたの罪を赦すためにです。今、あなたは、罪の赦しと永遠の救いを感謝して受けるだけでよいのです。この十字架のイエス・キリストを信じるだけで、良いのです。
教会は、この罪の赦しにあずかった者たちの集いです。罪人の集いです。赦された罪人の集いです。そして、赦された者として、今では、罪と戦う者として救われた者たちの集いなのです。

罪人でなければ、主イエス・キリストの十字架は必要ありません。罪人でなければ、教会は必要ありません。しかし、罪人であると神に教えていただいた方には、どうしても主イエス・キリストの救いが、教会が必要です。どうぞ、あなたの罪の刑罰、あなたの罪はこの主イエス・キリストが代わってお受けくださったのです。2000年前に。十字架の上で。いまや、このキリストを信じるだけで、私どもは罪赦され、神の子とされ、この地上で神の祝福を受けるばかりか、永遠に神の子としての祝福の中に置かれるのです。

祈祷
独り子イエス・キリストを罪人の手に渡され、彼らの思うがままに十字架に至るまで苦難を受けさせ、最後にはあなた御自身の御手によって、死に至らしめられた父なる御神。すべては、私どもの罪を赦すためです。そして、今、私どもは、魂の牧者である主イエス・キリストの御許に帰ることができました。今、どれほど自分のような罪人は決して赦されない、自分はそこまで罪を犯したことがないはずだ、そのように考える方がおられますなら、聖霊が光を照らしてくださり、主イエス・キリストの愛の光の中で、罪を認め、悔い改めることができますように。その悔い改めと信仰の恵みを今日ここに呼び集められたすべての一人一人に豊かに与えてください。アーメン。