主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。 主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。 主への畏れは清く、いつまでも続き/主の裁きはまことで、ことごとく正しい。 金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。 詩篇第19編8節~11節
「人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。」わたしが見ていると、手がわたしに差し伸べられており、その手に巻物があるではないか。彼がそれをわたしの前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった。
彼はわたしに言われた。「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。」わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、言われた。「人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。」わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。 エゼキエル書第3章1~3節
「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」
主にあって、新しい年を迎えることができました。何よりも、2005年、最初の主の日を皆様と共に礼拝式を捧げることが許されましたことを心から神に感謝致します。あらためて皆様お一人お一人の上に、神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が豊かに与えられますように、神の祝福を祈ります。信仰の生活が充実したものとなりますように。
昨年最後の説教で、2004年は日本にとって、戦後最悪の年ではなかったかと、ひとりの新聞コラムニストの言葉を紹介いたしました。その直後、世界では、想像を絶するまさに未曾有の大災害が発生致しました。スマトラ沖の大地震と大津波によって、少なくとも12万人以上の方々の命が一瞬に奪われました。なお、二次災害として、救援の手が届かないところで、命を落とす人々が予想されています。地上に生きると言うことは、南国の楽園、まるで天国に近いといわれるリゾート地であっても、そこは、なお人類の罪によって創造の秩序が破壊されてしまっている大地、自然であることにかわりがない事実を、厳かな思いで思わしめられました。悲惨な災害の状況を見るとき、涙がこみ上げてくる思いを禁じえません。私どもにできる何かをしなければと考えます。2005年。世界は、厳しい思いで、新しい年を迎えています。今日、世界中からリアルタイムで情報が入ってまいります。しかもそのほとんどは、私どもの心を暗くし、悲しませるものばかりの情報であります。しかしこの現実を見ないで、ひとりの幸せ、家庭の幸せに閉じこもるようなことは、キリスト者としてはできません。神が統べ治めておられる世界と人間、隣人を自分のように愛しなさいとい主イエスの教えを聴いている限り、今年も私どもは、その意味で、気楽に生きてゆけるはずがありません。しかし、それなら、厳しい現実を目の当たりにさせられて、私どもの喜び、明るさ、生きる楽しさはいよいよ失われて行かざるを得ないのでしょうか。私どもは、ただ悲しみの人として心を病むようにして生きる以外にないのでしょうか。
違います。そこでこそ、私どもの信仰、私どもの希望が自分自身はもとより、この世界を支え、励まし、立ち上がらせることができるのです。キリストの再臨、この聖書の約束が私どもに生きる力を上から与えます。この世界は、破壊で終わらない。神が主イエス・キリストによって完成してくださる世界なのです。新しい天と新しい地とを私どもは見ることができるのです。そこには、もはや海がないとヨハネの黙示録は預言します。海とは、当時の人々の恐怖のイメージの象徴の存在でした。ですから、海がなくなる世界、恐怖がなくなることが予告されているのです。いずれにしろ、このすばらしい約束、すばらしい私どもの将来の姿は、聖書に記された神の御言葉によってのみ知ることができます。つまり、神の御言葉こそが私どもを支えるのです。神の御言葉が私どもを支える力となるのです。何故なら、神の御言葉とは、天地を創造された神の御言葉であり、その全能の力は、他ならない神の御言葉を通してこそ、発動されるものだからです。そして、そもそも信仰とは、神との正しい関係のことでありますし、救いとは、神とのあるべきふさわしい関係のことでもあります。そして実に、神と私どもとの関係は、具体的には神の御言葉と私どもとの関係によって与えられるもの、つくっていただくものであります。ですから、今年も御言葉を聴くことが私どもの生命線となるのです。
昨年の夜の祈祷会で、ひとりの兄弟がしきりに詩篇のすばらしさに言及されました。また、ひとりの姉妹は、詩篇の朗読の力、すばらしさを証されました。現在、朝と夕べの祈祷会では、加藤常昭先生の「祈りへの道」を出席者と読んでおりますが、その前に、必ず、詩篇を朗読して祈りを捧げております。私自身も心から詩篇のすばらしさ、その力に心捉えられています。
そして今朝も、礼拝式への神の招きの言葉で、詩篇第19編を朗読いたしました。特にその第11節をもう一度読みます。「主の裁きはまことで、ことごとく正しい。金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。」有名なすばらしい御言葉であります。詩人が、神の言葉をどれほど深く愛しているのかが強烈に伝わってまいります。ある方は、この御言葉を読んですぐに詩篇第119編を思い出されるかもしれません。第103節「あなたの仰せを味わえば、わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう。」詩篇第119編は旧、新約聖書のなかで最も長い章となります。このまことに長い詩は、しかし唯一つのことに情熱を注いで、歌い上げて行きます。それは、神の御言葉のそのすばらしさについてです。「あなたの仰せ」とは、つまり神の語りかけのことであります。神は、聖書の文字を通して、私どもに語りかけて下さいます。何よりも「語りかけ」とは、説教のことをこそ意味すると理解できると思います。神は、今、私どもに日本語で、我々の言語で語りかけて下さるのです。それを聞き取ること、これが、私どもの信仰の基礎であります。
先週の夜の祈祷会、昨年の恵みを出席者と振り返りながら、一昨年洗礼を受けられた方がこう仰いました。「今年は、説教を噛み締める時間の余裕がなかった・・・、来年は時間を確保して、・・・」私自身も、その方の忙しい生活を垣間見ながら、案じる思いがあったのですが、受洗一年を振り返って、ご本人にそのような反省と自覚が与えられたことは一方で、すばらしいことだと感謝いたしました。また、聖書に慣れ親しむことを決意しながら、実際は難しかったと振り返られた方もおられました。おそらく誰でも同じ思いを持つと思います。本日は特にお互い心新たに、しかも真剣に「今年こそは、聖書に、その説教に慣れ親しみ、その仰せを甘く味わうことができるように最善の努力をしよう」と心に決めているはずであります。決心すべきです。何故なら、これが、私どもの信仰の基本だからであります。
詩篇第19編に戻りますが、詩人は、ここで「主の裁き」と歌っています。主の御言葉による裁き、審判は、蜜よりも、蜂蜜のしたたりよりも甘いと言うのです。この御言葉が旧約聖書にあること、これは一つの奇跡のように思います。旧約聖書を紐解けば、神の民の罪の歴史、信仰を捨て、神に反抗し続けるイスラエルの惨めな、あまりに惨めな姿が次から次へと記されてまいります。そして、神が忍耐をもって、彼らを信仰へと、ご自身の恵みの支配へと引き戻そうとその愛を尽くして下さる御姿が示されているのです。私どもは、実にしばしば読みながら、自分のことを棚にあげて、本当に、だらしのない信仰者だ、本当に、神の民の名折れだ、このような者たちは、本当に神さまに裁かれて当然過ぎる。そう思うこと、少なくないと思います。そして事実、神は何度も、彼らを自分たちの不信仰のままにさせて、自らの身に滅び、破滅を招き入れてしましました。神の裁きは、その意味で、恐るべき鋭さ、確かさで、神に反抗する者たちの上に下される、これが旧約聖書に記された基本的な歴史の姿であろうかと思います。しかし、詩人は、この主の裁きを蜜よりも甘いとと味わっているのです。ここに何かがある、信仰のすばらしい秘訣がある、そう思います。
本日の聖書朗読で、エゼキエル書の冒頭を読みました。預言者エゼキエルが、南ユダ王国の滅亡を予告する、預言する召命です。預言者としてこれ以上厳しい使命はないでしょう。神の民がその神への頑なさを続けるゆえに、神の審判として、異邦人に国を奪われてしまうのです。エゼキエルは、この反逆の家であるユダの人々に、しかも彼らはこの言葉を聞き入れないと神によって予告されているのにもかかわらず、御言葉を語らせられるのです。「人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。」わたしが見ていると、手がわたしに差し伸べられており、その手に巻物があるではないか。彼がそれをわたしの前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった。」
神が与えられた御言葉は、哀歌、悲しみの歌、呻きと嘆きの歌であったのです。そのような文字がびっしりと記されている神の御言葉をエゼキエルは食べるように言われました。食べるとは、体のなかに宿すことです。血となり肉となるように、ということです。そのような哀歌、呻きの言葉を食べたら、お腹を壊してしまうのではないでしょうか。あまりに苦くて、飲み込めないのではないでしょうか。しかし、神がそれを命じられるのです。彼が口を開くと神が食べさせる、まるで、赤ちゃんに母親が離乳食を与えるかのように、エゼキエルは、神に食べさせられるのです。ところが、どうでしょうか、それを食べてみると甘かったというのです。神の裁きの言葉、神の怒りの言葉を彼が受け入れたとき、それが、甘く感じられる。ここに何かがある。そう思わざるをえません。そして、それこそ、私どもが知らなければならないことであり、知りたい秘密であります。いったい、この秘訣を知らなければ、今年私どもはまことの意味で楽しく生きてゆくことが出来るでしょうか。真剣に、真摯に生きてゆくことができるでしょうか。喜んで、そしてだからこそ十字架を担って生きて行くことができるでしょうか。
私どもは、このローマの信徒への手紙の16節17節を学んで、これで5回目となります。これまでいつも心深く覚えていたことは、改革者マルチン・ルターの事でした。彼が、この御言葉の意味を再発見したことで、我々の教会は誕生し、世界の歴史は変わったのだということでありました。この御言葉の正しい解釈が、教会を立ちもし倒れさせもするほどの重要な教えなのだと語り続けました。そうであれば、私どもは、この御言葉を子どもたちに負けないように暗唱すべきではないかとすら思います。
さて、ルターは、ときのローマ・カトリック教会のなかで単なる司祭としてだけではなく、聖書博士としての職務を与えられ、教会に仕えておりました。聖書の正しい解釈によって教会に仕えるべき博士であったのです。その御言葉の博士、司祭にも信徒にも教えるべき立場の彼は、しかし実は、この御言葉にいつも立ちすくむ思いを禁じえなかったのです。喜んでこの御言葉を読むことができなかったのです。いや、既に30歳にもなっていた彼は、この御言葉に恐怖を覚えてならなかったと言うのです。なぜなら、自分のような信仰とその生活では到底神の御前に立つことができない。神の正しい裁きに立ちおおせることはできないと考えたのです。彼は、もとよりふしだらに生きていたわけではありません。司祭として、学者として一生懸命に励んでいたのです。ルターにとってこの「神の義」という御言葉は、喜ばしいものでもいわんや甘いものでもありませんでした。ただ恐怖でしかなかったのです。彼は、この御言葉を憎んだとすら言うのです。途方に暮れる思いで、この神の義、神の裁きを目にし、苦しみ貫いたのです。ところが、その彼にいわゆる、塔の経験が与えられます。ビッテンベルクの城の塔のなかにあった書斎で、この「神の義」の正しい御言葉の解釈、釈義を発見するのです。
それが、信仰義認の教理でした。神の義とは、神が神らしくふるまわれることで、この神の神らしい活動が、人間に発動し、人間に触れるとき、人間は、その罪を断罪され、滅ぼされ、捨てられるのではなく!神の義を付与される、神の正しさをまとわせられる、神の義を受けてしまう。神が罪人、不義を犯し、存在そのものが既に不義でしかない人間を、神が一方的に義と認められる。そのような神の働きがここでの神の義である、神の義のまことの意味であると理解できたのです。これこそ、いわゆる宗教改革の原理となる聖書の真理、その真理を再発見したのです。人はただ信仰によってのみ義とされる、言葉を換えれば救われるという教えです。そこで、自分を恐怖に陥れる言葉でしかなかった言葉、憎みさへしたこの神のみ言葉、「神の義」が一気に、喜びの言葉になったのです。苦い言葉、飲み込めなかった言葉が、一瞬にして甘くなったのです。そして、この神の言葉が甘くなったとき、聖書博士の彼にとって、聖書のすべての御言葉が甘くなったのです。説教する喜びが与えられ、聴く喜びが与えられたのです。彼もまた、この福音、喜びの報せを発信する人、まさにその張本人になった、教会の改革者、世界史の変革者となったのです。
さて、今日の私どもは、この教会に来て、聖書を学び、説教を聞くと、このルターが再発見した真理、福音に言わば、いきなり、最初から導き入れられます。これは言うまでもなく、すばらしいことです。そこに私どもの教会の強みがあります。
しかしそこでこそ新たな問題も生じる危険性がないわけではないと思います。ルターは、まさに精神的に血を吐くような苦しみを味わいました。心の葛藤だけではなく、彼は、何度も塔の階段を跪いて登ったのです。膝から血を流しながらの肉体的な修行、苦行を経験したのです。信仰によって義とされるという中学校や高校の教科書にも出てまいります、この言葉を単に頭で理解して済ませてしまう、そのようなことが起こらないわけではないのではないでしょうか。
今日の教会は、説教を分かりやすく、分かりやすくということで、一生懸命になる方向に進んでおります。もちろん、それは正しいことでもあります。しかし、もしもあのルターのように神の義とは一体何か、これに苦しみ抜くような経験を味わわないで、気軽に福音の奥義を知らされ、ただ知的に理解するだけで済ませさせてしまう危険性があることを、今日の私どもは深く用心しなければならないのではないでしょうか。だから、御言葉を味わうことが必要なのです。
昔、神学生のときに、「にれ噛む」という言葉を習いました。牛は、一度食べたものを、何度も口に戻して噛む、反芻します。ユダヤの人にとって牛が清いというのは、反芻する動物だからであると申命記第14章に出てまいります。何故、反芻することがそれほど大切なのか、それは、神の言葉と人間との関係を意味するのだ、神の言葉を何度も味わう者が神の御心にかなうことの象徴なのだと解釈する人もおります。いずれにしろ、神の言葉と私どもとの関係は、「にれ噛む」こと何度でも噛み続けることが大切なのであります。すぐに飲み込まないで、甘くなるまで噛み続けるのです。ある場合には、すぐに分かる必要はないとすら言えます。今年、そのような御言葉との格闘、味わいの時間がないままで、主の日をやり過ごす、神の御言葉を聴き流すことがないように、ここにおられるひとりひとりのために心から祈ります。
ルターが気がついた神の義のまことの意味、それは神が人間との正しい関係を神御自ら構築したもう御業であるということです。そうであれば、説教者は、こう言って良いし、先週、私は申しました。神の義とは、神の人間への熱愛、熱情、熱狂である。つまり、神の義は人間への愛として発動するのです。御自身の御子の命、その犠牲を支払っての愛が、人間に神御自身とのふさわしい関係を御自ら作り出してくださるのです。
しかし、それなら、何故、使徒パウロは、ここで、私どもにもっと受け入れられやすい、飲み込みやすい神の「愛」と言わないのでしょうか。そうであれば、もしかするとあれほどまでにルターは苦しまなくてよかったのかもしれません。神の義とは、神の神らしい「優しさ」と言っても間違いではないのです。それなら、使徒パウロはどうしてここで神の「義」という言葉を用いて譲らないのでしょうか。もとより、彼にこの御言葉を書かせたもうたのは聖霊なる神御自身は、なぜ、この御言葉をもって、福音を啓示なさるのでしょうか。それは、神が、私どもに、この神の義の行為のなかで、何をなして下さったのかを明らかに示す為ではないでしょうか。神御自身が成し遂げられた御業を私どもに刻みこむ為、もはやここから立ち退くことができないほど鮮やかに指し示すためなのではないでしょうか。罪人、不義なる人間を義と認めること、それだけではなく実質的にも義なる存在とするために、神がその独り子を十字架で裁かれたことを、人間が、私どもが忘れないためではないでしょうか。
父なる神が、私どもの罪と不義、私どもの反逆と不信仰への聖なる怒り、憤りを、私どもにではなく、私ども罪人にではなく、御子イエス・キリストに向けられたからこそ、私どもは救われたのです。神に義とされたのです。そのときに、私どもにとって、神の義とは、決して苦いものではなくなったのであります。甘くなってしまったのです。味わいが変化してしまったのです。しかしそこでこそ、私どもは、この味わいの激変の背後にある神の御業を決して忘れてはならないのです。神の苦しみ、その痛み、その犠牲、その嘆き、その呻きから目をそらしてはならないのです。だから、ルターは、十字架の主イエス・キリストに集中したのです。キリストの十字架に集中したのです。「復活はどうなったのですか」とある人達から悪口を言われるほど、彼は、十字架につけられたままの主イエスの御姿とその御業を重んじたのです。私どもの視線をここへと釘付けようと説教し、文章を書いたのです。
私どもは、この十字架によって、キリストの苦難と死によって、神の子とされています。罪赦されています。それは、私どもの地上の全生涯が明るく塗り替えられたことを意味しています。過去の苦々しい歩みすら、このキリスト、この神の義のおかげで、この神の義を信じるだけで、まさに薔薇色に塗り替えられさへするのです。もちろん、過去だけではなく今と、将来も変化させられるのです。苦さから甘さへと、まことに蜜のしたたりのように甘いものとなる。それは、神が御言葉においてそのように出会って下さることによって、実現させられてゆくのであります。これが、今年を生きる私どもへの、神の約束なのであります。
今、聖餐を祝います。この食卓こそ、主イエス・キリストが用意し、整えて下さいました。それは、私どもが、十字架の主イエスを仰ぎ見るためであります。ここでは、見ることが大切なのです。
神の御言葉そのものでありたもう主イエスは、十字架につけられました。かつて、この御言葉を目撃した人がいます。使徒たちです。手で触った人たちがいます。使徒たちです。この使徒がこの御言葉なる主イエスを聖書に書き記し、聖餐を伝え、そして今日の私どもに手渡し続けてくれています。私どもは、今、ここで、聖餐のパンとぶどう酒をこの目で見るのです。さらに、この手で、この口で、この腹で味わうのです。それは、天に座しておられ、しかし今聖霊によってこの礼拝堂に臨在したもう主イエス・キリスト御自身を味わい、見ることです。
神は、今年も、私どもに説教と聖餐、この恵みの手立てをもって生かして下さいます。恵み豊かにふるまって下さいます。もてなして下さいます。わたしは神さまの恵みをちょっとしか受けていない。神の恵みをあの人、この人のようには、たくさんふるまわれていないなどと言ってはなりません。この聖餐と説教を受けているなら、それ以上の神の恵みのふるまいはないのです。私どもは等しくこの恵みに招かれているのです。願わくは、「にれ噛む」こと、反芻して、血肉とすることであります。そのようにして今まさにこの聖餐の食物、飲み物にあずかって、御言葉を味わい、御言葉を見ることができるし、見るべきであります。そして、蜜よりも、蜂蜜のしたたりよりも甘い、福音の甘さを味わいたいのです。神は、求める者に、今、これをふるまってくださいます。私どもは、この御言葉を味わい、見ることによって、たとい困難や試練、あるいは自分自身、世界の破滅であるかのような厳しい状況のなかでも、なお望みをもって、神のために、隣人のために、自分自身のために生きてゆくことができるのです。
祈祷
この新しい年も御言葉をもって私どものまことの命を養い、この地上の人生を喜びと希望と慰めでもてなし、ふるまって下さる主イエス・キリストの父なる御神、この恵みを徒に受けることがありませんように。その罪から私どもを守って下さい。この神の命の宴、祝宴に招かれていることをこそ、何よりも誇りとさせてください。福音を恥とせず、福音を高く掲げて、教会と共に歩み続けさせて下さい。予期しない試練が、困難があるかもしれません。しかし、そのときこそ、その試練や困難を通して、あなたの甘き御言葉を味わい、見させて下さい。そこで、慰められ、立ち上がらせてください。どうぞ、今年も、主イエス・キリストの父なる御神よ、あなたが変わらず、あなたでいてくださいますように。そうであれば、私どもは生きることができます。この世界が、すでにキリストにおいて啓示されているあなたの義と真実に出会うことができますように。救ってくださいますように。そのために、私どもが福音を恥とせず、この福音を発信するものとならせてください。すべてのキリストの教会をそのために豊かにお用い下さいますように。 アーメン。