連合長老会総会 開会礼拝説教
2005年3月21日 犬山 13時30分~14時
「教会憲法の神髄」
テキスト 使徒言行録 第20章22~32節
最初から私事で大変恐縮ですが、私は、日本キリスト改革派教会以外の場所、特に牧師たちとの交わりの中では、いつでも、日本キリスト改革派教会の宣伝をしております。つまり、私どもの教会は、神の救いの歴史、日本の教会の歴史において重大な意義と使命があり、この教会の進展こそ、日本の教会に与えられた「宿題」を果たす行為であると主張しております。しかし、日本キリスト改革派教会の内側では、20周年宣言に記された有名な文言「聖霊の力あふれる教会」の形成に励みましょうと呼びかけております。そうでなければ、今申しました意義を自ら損なうと考えますし、危機感を覚え続けております。かつて連合長老会ニュースの巻頭言に、「教会のすべての制度は、福音に仕えるための霊的な制度である」と書かせていただきました。日本キリスト改革派教会は、なお教会職務の制度を整える過程にあると思います。しかし、教会の職務制度を整備する際に、この制度が、「霊的な制度」であることを忘れてはならないということであります。教会の職務・制度は、福音、つまり主イエス・キリストにおける「罪の赦し」の御業に使えるためのものである事を忘れてしまったならば、本末転倒となります。教会の職務制度の意味と価値は全くなくなってしまうのです。
さて、この箇所は、エフェソの教会の長老たちへの最後の言葉、告別説教と言われる箇所であります。ある神学者は、このパウロの説教を「教会の憲法」と呼びました。私どもの教会は、教会の職務制度を整え、それを憲法に明文化しながら教会の形成に励みます。そうであれば、このテキストは、その憲法を正しく生かす道、誰よりも長老たちがどのように生きるべきか、教会に仕えるべきかを問うとき、立ち返るべきその原点になると信じます。
今、パウロはミレトスという町におります。そこからエフェソの町にある教会の長老たちを呼び寄せます。地図で見ますと、名古屋の緑区からここ犬山よりなお10キロほど遠い距離になるのでしょうか。しかし、この当時のことであります。呼び寄せられてもすぐに駆けつけるには、大変な苦労があったのではないでしょうか。しかし、長老たちは、万難を排して駆けつけたのでしょう。長老たちが使徒パウロによって召集されたこの場所、それは長老たちの会議の場、言わば中会定期会の場であり、この説教は、その開会礼拝における説教としてイメージすることも許されるのではないかと思います。使徒パウロは開口一番、自分の生活ぶり、生き方を、エフェソの長老たちに思い起こさせることから始めて行きます。
①「自分をまったく取るに足りない者と思い」これは、まことの神の御前の謙遜を意味しています。ただ恵みによって、一方的に神に拾い上げていただかなければ、つまり自分の能力では神にお仕えすることができないと、心底考えているのです。
②「涙を流しながら」かつて牧師になりたての頃、「説教は涙を流して語ってもらいたい」と批判されたことがあります。即座に「説教は涙を流して語るものではない。むしろ、涙はこらえなければならない」と言い返しました。今も同じ考えです。男性が、涙を流して話すのであれば、むしろ警戒するのが常識ではないでしょうか。しかし、ここでの涙は、福音の恵みへの激しい感動による抑えがたい感涙でありましょう。いうに言われぬ苦しく厳しい試練のなかで、しかし嬉し涙を流しながら、主にお仕えした伝道者の姿は、私どもの恵みへの感動を問い返される思いが致します。
③「役にたつことは一つ残らず~教えてきた。」と申します。一つ残らずと言う表現を見るとすぐにわたしは、パウロは博学ですから、さまざまな役立つ話をしたのかと思ってしまいます。ところが、その直後に続く言葉は、こうです。
④「神に対する悔い改めと私たちの主イエス・キリストに対する信仰」つまり、福音の中核、真髄についての教えを語ったというのであります。私どもも、この世と教会に向けて、古より語り伝えられてまいりました、福音の根本を語り続けることが求められております。知恵の言葉によらないで、十字架の言葉を語る愚かさに徹底しなければならないのです。説教者自身、自分の説教が要するに、この福音の真髄を説くものであるかどうか、深くこの御言葉で問われるのです。
⑤「“霊”に促されてエルサレムに行きます。」パウロは、自分の判断で生きない霊的な人間です。聖霊によって促されているのかどうかを判定しうるのは、御言葉とこれまでのすべての信仰の経験を総合しての判断に基づきます。総合的判断力です。これは、一朝一夕に、身につくものではないと思います。ここに私どもが自ら課さなければならない信仰の修練があります。パウロは、聖霊に導かれてエルサレムに行くのだと心しながら、しかし、他ならない聖霊は、「投獄と苦難とが待ち受けている」と示し、彼は、そこへと赴くのです。平坦な道ではないことを知ってなお、神の導きに従うのです。信仰とは、これ以上でもこれ以下でもありません。
⑥「神の恵みの福音を力強く証する任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」「命がけ」という言葉は、やすやすとは使えません。しかし、パウロは、この言葉をしばしば語ったのだと思われます。テサロニケの手紙のなかで、「神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。」と記しました。実にうらやましい信頼関係、麗しい牧師と会員との関係でしょう。しかし、一方で、福音の説教者が、おそらく日本人伝道者として、何年か伝道すれば痛切に知らされる現実とは、それほどしなければ、福音の真理に心を開かないほど人々の心は福音に対して冷淡であるということだと思います。わたしは日本しか知りませんが、日本で福音宣教に仕えるためには、そのような言わば、「異常」なほどの真剣さが求められているのではないかと、考えさせられてまいりました。しかし、もちろんこれは、日本だけではなく、当時のエフェソでも、今日の欧米でも、福音が真実に受け入れられるところでは、この語り手自身、説教者自身の福音に生かされる姿勢が問われていることは事実であろうと思います。もとより、説教者が福音となるわけではありません。福音の言葉そのもの、「神への悔い改めと主イエス・キリストへの信仰」が人を救うのです。
⑦「神のご計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたのです。」ここでは、さきほどの福音の根本、真髄だけではなく、言わば、聖書に記された神の救いの歴史の全貌を伝えたと言います。3年あまりと言われる滞在期間で、旧約聖書の全巻を講解説教したのでしょうか。カルバンは講解説教に徹しました。しかし、何より改革教会は、聖書に基づき新たに信仰を告白し、その告白を学習する教会として自己形成してまいりました。しかもその信仰告白とは、聖書の内容である救いの歴史の全貌をまとめたものに他なりません。たとえば、使徒信条、ニカヤ信条などの基本信条とは、神の救いのご計画、歴史をまとめたものなのです。パウロは救いの歴史を語り続け、長老は喜んで学び続けたのだと思われます。
⑧「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。」先ず自分自身に気を配ること、何故なら、他ならない自分自身がキリストの教会を荒らすことが、その可能性があるからだと言うのです。これは、何度読んでも厳粛な思いにさせられます。いったい皆様は、自分自身の中に、そのような可能性があるとお考えになっておられるでしょうか。愚かなことですが、私自身は、わたしの中には、まさかそうなる可能性はあるまいと考えてしまうのです。しかしそれは、私自身がいまだこのパウロが見据え、戦った、霊的な戦いのすさまじさを経験していないからであろうと思います。邪説を唱えるということは、教理に外れることです。日本キリスト改革派教会とは、この現実を真剣に見据え、考えている教会です。ですから、私どもはウエストミンスター信仰基準を重んじ、常に、説教者がその信仰の理解から逸脱しないように、客観的なチェック機能を委員会に持たせてもいるのです。何よりも、各小会こそ、説教とその実りをよく見守る事が求められているのです。そのとき、長老方が教理の体得を怠れば、説教者の怠慢、霊的な無気力、教理の逸脱すら見抜けなくなります。そうであれば、長老の主要な務めは担えなくなってしまうのです。もしも、長老方が教理を体得する真剣さを失えば、たとえ小会において牧師と仲良い関係にあれば、順調であるというような、本来の主にある交わりとは異質な交わりが幅を利かせることもないわけではないのです。そのことを牧師も長老も真剣に恐れるべきではないかと思います。そのためにこそ、ごく基本的なこととして、パウロが勧めたことがあります。
⑨「目を覚ましていなさい」、つまり祈り続けなさいということです。先ず、自分の霊性を整えるためです。そして、教会の霊的な状態を見、適切に「世話」つまり牧会するためです。もしも、長老方が、牧師とともに、そして教会員とともに祈ること、はっきり申しますと、祈祷会に出席しなければ、ほとんど、長老としての基本的な奉仕を断念せざるを得ないと信じます。如何でしょうか。
⑩「神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」もはや時間がありません。何時間でも費やさなければこの御言葉の重みを受け止めることはおそらくできません。教会は、「本当に」、説教によって立ちもし、倒れもするのです。私どもの教会では、すでに何年も前から礼拝式の後すぐに、説教の分かち合いを行います。既にいくつかの教会も、それを開始されていると伺っております。まことに嬉しいことです。その説教が、どのように会員を生かすのか、聴き取らなかったことがあれば、他の仲間から教えられ、励まされることもあるのです。もとより、何もこのような集会をしなくてもかまいません。要するに、説教への気迫が説教者と会員相互にみなぎることがなければ、教会は聖霊の力あふれる共同体になりえないことを、真剣に受け止めるべきであります。
最後に、⑪「受けるよりは与える方が幸いである。」主イエスが語られたとされる説教の引用でこの説教は結ばれます。説教を重んじるパウロが、最後は、最初のようにまた自分の生活スタイルに言及して終わったのです。それは結局、御言葉に仕える者、教会に仕える者は、信仰者としての生活、生き方、存在そのものに戻って来ざるを得ない、そこを問題とせざるを得ないということではないでしょうか。
私どもの光栄とは、神が御子の御血によって贖い取られた神の教会に仕えることとされたことであります。私どもにこれにまさる光栄はあるでしょうか。私どもの働きが正しく実るためには、どれだけこの召された職務、務めを光栄として考えられているかどうか、ここにかかっているのであります。それが分かれば、与える人となる、ならざるを得ないとパウロは信じていると思います。御子の御血で贖われた私、私どもであれば、もはや、わたしの全存在はキリストのものであります。そうであれば、このお方、具体的には、このお方の御体である教会へと自分の全存在を与えること、そこへと私どもは方向付けられております。出し惜しみせずに、自分の賜物を与えたい、教えるものは教え、奉仕するものは奉仕し、捧げるものは捧げとそれぞれが、その召しに答え、受けるより与える方が幸いであるとこの教えをその全生涯と全存在をもって見せてくださり、私どもをお救い下さった神に感謝して、新しい年度、それぞれの教会に献身をあらたにしてまいりましょう。来年、ここで、教会にどれだけ仕えることができたのかということを、神への献げ物として集まりたいと思います。
祈祷
私どもにあなたの御子の御血で贖い取られた教会に仕える召しを与え、お用い下さる光栄を感謝申し上げます。一方的な恵みによって召されたのです。取るに足らない者でしかありません。しかし、あなたが誰でもない私どもを召しだしてくださいました。この召しに忠実に、死に至るまで従いぬくことができますように。御霊をもって導いてください。アーメン。