「豊かに生きる道 -受けること与えること-」
2005年6月5日 伝道礼拝式
ヨハネによる福音書 第6章1節~15節
「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」
本日も、伝道月間として、教会にはじめて来た、聖書をはじめて開いて見たという方のために、伝道礼拝式として捧げております。そして、本日はその最後の日曜日、主の日となります。今朝、ここにお集まりのお一人ひとりの上に、天地の造り主なる神とわたしたちの救い主、主イエス・キリストを知ることによって、恵みと平和が豊かに与えられますようにと心から祈ります。
今、御一緒に読みました物語、昔から、5000人の給食と言われてまいりました、大変有名な物語であります。新約聖書のなかには、福音書と言う主イエス・キリストのご生涯を描き出す書物が4つ収められております。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという4人の弟子たちがそれぞれの角度から、それぞれの関心から主イエス・キリストの説教、御業を書き記したものです。この4人が共通して記す中心は、イエスさまが十字架につけられて、三日目にお甦りになられたという出来事であります。4人とも、この出来事こそ、伝えたい、伝えるべきもっとも大切なことであると、その意味では完全に一致しております。そしてこれを教会では福音と申します。喜びの知らせ、という意味であります。しかし、実は、そのほかの記事のなかで、4人とも書き残した主イエスの御業は、実は多くはありません。むしろ少ないのです。それが、この5000人の給食の物語なのです。つまり、この物語は、弟子たちにとって大変重要な意味を持つ出来事であったことが分かると思います。
主イエスは、至るところで奇跡の御業をなさいました。そのような奇跡がなされる場面というのは、常に、何とか助けてもらいたいとうめくような思いのなかにたたずんでいる人、危機的な状況に立たされている人がいる場面です。たとえば先週も学びましたのは、12年間もの間、病に苦しんだ一人の女性を癒された主イエスの物語でした。あわせて、自分の幼い娘が死にそうであったというヤイロという人にも触れて、主を礼拝しました。
ところが、今日の物語のなかには、誰かの命がかかっているとか、誰かが苦しみと悲しみのなかに閉じ込められているというような人は登場しません。登場人物は、男たちだけで5000人、女性や子どもたちを含めればおそらく1万人、2万人という群集です。彼らは、主イエスの癒しの奇跡を目撃した人々であり、そのうわさを聞きつけた人々です。彼らは、主イエスの説教を聴き、さらにそのなさる御業を目撃して心底、驚いた人々です。心の中で、ある人たちは口に出して、「この方こそ、ユダヤの王になるべき救世主、神から遣わされたメシアではないか」と期待を募らせていた人々です。そのような彼らが今まさに昼食の時を迎え、しかし、食べるものがないというわけです。確かに、昼食を一食抜かなくてはならないということは、ある人には、危機的なこととかもしれません。しかし、忙しくて昼食を食べ損なったという経験をお持ちの方は少なくないと思います。一食、食べれるか食べれないかという、ただそれだけのことで、主イエスが奇跡を起こされたのです。
ところが、驚くべきことに、他ならない主イエス御自身は、この大群衆をご覧になって、深い同情を寄せられていました。ヨハネによる福音書には記されていませんが、マルコによる福音書では、こう記されています。「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」飼い主のいない羊、これは、まさに、危機的な状況です。文字通りの飼い主のいない羊であるなら、おそらく数時間後には、悲惨な光景を見ざるを得ません。狼の餌食になってしまうからです。主イエスは、今、この群集をそのような、飼うもののいない羊としてみて、深く同情しておられます。深く憐れむという言葉は、もともとの言葉で言えば、「はらわたが痛む」と直訳することができるのです。内臓が締め付けられている状態、それほど激しい、痛みをともなって、憐れんでおられるのが、今、このときの主イエスの群集へのまなざしなのです。
つまり、お昼の食事を一食取れるか取れないかが問題なのではないことは、これで明らかであろうと思います。主イエスの御目に映っている群集。それは、いったい誰のことでしょうか。それは、わたしであり、あなたのことなのです。 ところが問題は、私ども自身が、自分のことを主イエスがみていてくださるように、憐れんでいてくださるように、考えているかどうかです。案外、私どもは自分のことを、そこまで危機的な状況に生きているわけではない、そこまで大変なのだとは考えていないのではないでしょうか。この時の群集もまた同じでした。私どものおかれている状況、私どもの生きている現実が飼い主のいない羊の状態とは、何を言うのでしょうか。それは、神との関係において、さまよい出ているということです。神が生きるようにと与えてくださった、場所、土俵、神の支配の外にいるということです。
たとえば肉体の病において、命に関わる病であっても、なお自覚症状がない場合、私どもは医者のところに、病院に参りません。言うまでもなく、自覚症状が出てなお、病院に行かないままでいれば、致命的になります。ところが、もしも、お医者さんの方で、わたしの病を知っていてくださり、しかも訪ねてくださるなら、どんなにありがたいことでしょうか。
主イエスは、私どものあるがままの状況を、的確に、正しく見ていてくださいます。その結果、深く憐れんでいてくださるのです。ここに、私どもの救いの根拠がすえられていると言ってよいのです。私どもは、自分では、自分が飼うもののない羊とは分かっていませんが、しかし、主イエスは、そう見ていてくださる。しかも、主イエスは、このヨハネによる福音書において、「わたしは良い羊飼いである。」と自己紹介されました。「良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」と仰せになりました。この言葉を丁寧に考えれば、そのような羊飼いなど、実際は存在しません。羊飼いの命と羊の命を比べて、羊の方が重いとは誰も考えないのです。あるいは、一匹の羊と九十九の羊を比べて、どちらの方が大切か、重いかと比較して、一匹と答える人も存在しません。ところが、主イエスは、そこでも、良い羊飼いは、迷いでた一匹の羊がいれば、99匹をそこに置いて、探しに出てゆくのだと、御自身のあり方、仕方を教えてくださいました。主イエスは、私どもをこのように見ておられます。憐れんでおられるのです。羊飼いから迷い出た一匹の羊とみておられるのです。だからこそ、私どもをここへと、つまり、真の医者、魂と肉体すら癒してくださる主イエス・キリストの御許、教会へと招いてくださったのです。
さて、ここには群集だけではなく、主イエス弟子たち、つまり主イエスを信じている者たちが登場します。むしろ、彼らにとってこそ、決定的な出来事であったのです。群集を深く憐れまれる主イエスは、この弟子たちをどのように見ておられるのでしょうか。あるいは、主はここで彼らに何を期待しておられるのか、求めておられるのでしょうか。それこそ、この物語の中心なのです。
イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
聖書は、主イエスは、弟子たちを試されるため、試みられるために仰せになられたといいます。試みられた弟子の一人、フィリポは、この大群衆を食べさせるために、最低200デナリオンが必要であると算段します。一デナリオンが、一日の賃金と言われておりますから、仮に一万円としますと、200万円となります。彼は、「200万円も、自分たちに用意があるわけはありません。不可能です。そのようなことは、我々の責任ではありませんから、一度、この集会を閉じて、解散させればよいことです」とこう言いたかったのかもしれません。
すると、この会話を聞いておりました、弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、と主イエスに申し上げます。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」ここに名もなき少年が登場します。おそらくお弁当を持たされて来たのです。少年だけで主イエスのもとに来たとは考えにくいと思います。両親、片親だけでもいたのではないでしょうか。しかし、いずれにしろ、一人の少年が主イエスの直ぐそばにいたのです。弟子たちの傍らにいたようです。おそらく少年は、この会話を聞いていたのかもしれません。そして、彼は素朴に、弟子のアンデレに、「自分にはお弁当があります」と自己申告したのでしょう。しかし、アンデレにとりまして、この申し出はありがたいものでもなんでもなかったのです。わたしはこのような想像をします。アンデレは、このように言ったのではないでしょうか。「ありがとう。でも、それっぽっちでは何にもならない。いいから、君は、自分で食べたらよい。」けれども、この少年は、「どうぞ、このお弁当は、今、自分だけでたべるわけにはいきません。それは、僕もお腹がすいているけれども、イエスさまが必要なら、どうぞ僕の分を食べてください。ちっとも構いません。」とにかく、自分の弁当を主イエスに渡してくれるようにと、アンデレに頼むのです。アンデレは、おそらくしぶしぶ、彼の申し出を受け入れます。伝言するのです。ところがそこで思わず主イエスの御前に余計な言葉、本音が出てしまったのです。「けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」200万円でもこの群集の一回の昼食をまかなうのに大変なのに、一人分の少年のお弁当など、まさに何の役にも立たないと断定したのです。
主イエスの問い、どこでパンを買えばよいのかという問い、そこに込められた試みは、弟子たちに大きな動揺を引き起こしたのでしょう。フィリポも、アンデレも一種、うろたえています。何故でしょうか、それは、自分たちにはお金もないし、お弁当もない。目の前にいる大群衆をもてなす能力などない、と考えているからです。
わたしは、最初に、この物語は、4つの福音書すべてに書き記されていると申しました。弟子たちにとって、決して忘れ得ない出来事であったからです。そして、それ以上でもあるはずです。昔の出来事、それは、残念ながら時がたてば色あせます。忘れられてしまうこともあります。しかし、今目の前の出来事であれば、かっかと興奮して語るはずです。この物語が、4つの福音書に記されたのは、単に昔、主イエスがこんなにも見事な奇跡を見せてくださったなぁと、回顧、思い出話をしたいからではないのです。むしろ、今のことを語っているのです。本日は、説教の後直ちに聖餐の礼典を祝います。多くの聖書の学者たちは、この物語と聖餐との結びつきを口をそろえて申します。
聖餐は、教会員のみがここであずかることのできる主イエスが制定された記念の食事会です。主イエス・キリストの御体を意味するパンと、御血を意味するぶどうジュースをいただきます。ただそれだけのことです。しかし、私どもにとりまして、この小さな食卓は、特別な意味があります。この聖餐の食卓にあずかるとき、そこで、私どもが確実に主イエス・キリストと一つとなり、主イエス・キリストのみ体と合体し、そのようにしてここで共にあずかった仲間たちと一つとされ、永遠の命が与えられ、新しくされるからです。これこそ、私どもの霊的なお祭り、最高のお祝いです。そして、この聖餐の食卓を司るのは、牧師であるわたしですが、司式者のわたしが主人公ではないのです。目に見えませんが、この食卓の真の主人は、主イエス・キリスト御自身なのです。この主の食卓に招かれている人、それが、本日ここにお集まりの皆さまなのです。ただし、まだ、口でイエスさまを主と告白し、洗礼をお受けになって、教会員、教会に生きる者となっていない方はこれにあずかっていただくことはできません。この主イエスの食卓の主人公は、イエスさまなのです。世々の教会は2000年もの間、この聖餐の食卓を祝い続けてまいりました。ここに自分たちの救いがあり、望みがあり、喜びがあるからです。ここに主イエス・キリストがともにおられるからです。この聖餐を祝うなかで、永遠の命の喜び、希望が確かめられてきたからです。まことに命の糧、人間になくてはならない命の食物となったからです。
そして、この奇跡の物語は、繰り返し繰り返し、教会で語り伝えられてまいりました。その時に、この名もなき一人の少年と差し出したお弁当、五つのパンと二匹の魚、食べくずが、12の籠にいっぱいになって、皆が心から満腹したこと、その数もはっきりと思い起こされたのです。その時の手ごたえが、鮮やかであったのです。ある人は、5足す2は、7で、完全数。12の籠は、神の民イスラエル12部族を意味すると教えてくれます。確かに、その数には、固有の意味、メッセージがあるのかもしれません。
しかし、大切なことは、そこに主イエス・キリストがおられること、そして、どれほど、小さなお弁当でも、主イエスのために、人々のために、差し出すなら、「こんなものはこの困難な現実の前には、何の役に立たない」などというアンデレの言葉が、克服され、恥ずかしくなるほどに克服されてしまうことを喜んで思い出させられたのです。
実に、2000年前のガリラヤの湖の岸辺で、五つのパンと二匹の魚とを持って、5000人以上の人々のおなかをすっかり満たされたお方、主イエス・キリストが、今この場所にも、共におられること、それが聖餐のお祝いで確かめられるのです。
そして、今日の主の弟子である私どもキリスト者、教会は、同じように主の試みを受けているのです。主イエスは、今日も、私どもにも、同じ期待、同じ使命を与えておられるのです。それを聖餐を祝うたびに私どもはわきまえるべきなのです。
何よりも、私どもの世界も、この国も、社会も、そして教会も、一人ひとりの人生も、家庭も、そこに主イエス・キリストが私どもを憐れんでいてくださることを忘れないなら、この救い主が共におられることを忘れないならなお解決があるのです。そこに救いがあるのです。
そして、そのように救われた私どもは、自分の持っているもの、主イエスに与えられたものを、主イエスに差し出すなら、主の手のひらの中で、奇跡が起こるのです。大群衆をも養うことになるのです。
もちろんこの奇跡は、人間が起こせるわけではないのです。ある人は、この奇跡の物語を解説して、5000人の男たちはおそらくほとんどお弁当をもっていたのではないか。しかし、もっていない人もいるので、自分だけ食べるのも気が引けていた。しかし、この少年の、心意気、自分のものを隣人に分かち与えようとするすばらしい気持ちが、大人の心を動かして、皆でお弁当を分かち合ったのではないか。だから、今日も、この少年のように、自分のもっているものを隣人に分かち合うべきであると言うわけです。
わたしは、まどみちおさんの「不思議なポケット」の詩が好きです。伝道新聞の巻頭にもしるしましたし、滝の水中学校の入学式にも、この詩を紹介しました。
「ポケットのなかには ビスケットがひとつ
ポケットをたたくと ビスケットはふたつ
もひとつもひとつたたくと ビスケットはみっつ たたいてみるたび ビスケットはふえる
そんなふしぎなポケットがほしい そんなふしぎなポケットがほしい」
自分のビスケットを叩き割って、二つにすれば、喜びが増えるというものです。確かにその通りです。けれども、この5000人の給食は、満腹しているのです。単なる、おすそ分けの物語ではないのです。不思議なポケットは、ビスケットは小さくなって行くのですが、ここでは、どんどん増えてゆくのです。奇跡以外にありません、その奇跡が起こるのです。それは、主イエスというお方が、この不思議なポケットを本当にお持ちだからです。この主の手の平の中で、奇跡が起こるのです。それなら、世界の食糧危機、飢餓対策は、神さま、イエスさまに頼れば解決でしょうか。2000年前の大勢の群集もそこで間違いました。主イエスを、そのような解決の手段として、王様になってもらおうとしたのです。
しかし、そこで間違ってはなりません。このパンの奇跡は、ヨハネによる福音書の直ぐ後で、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食物のために、働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」「わたしが命のパンである。」と仰せになりました。パンの給食の奇跡とは、主イエスの与えてくださる永遠の食べ物、永遠の命、主イエス御自身の象徴であることを忘れてはならないのです。私どもは主イエス御自身の手から、この永遠の命、救い、信仰、罪の赦しを振舞われるのです。だれでも、受けることができるのです。しかもそこで、この賜物を無代価で、ただで受けた者たちは、このプレゼント、賜物を、あの少年のように、差し出すことができるのですし、そうすることへと命じられているのです。そうすると増えるのです。この奇跡が昔話などではなく、今、私どもの間に起こるのです。あのとき、少年はひもじい思いをしなかったのです。むしろ、豊かになったのです。5つのパンと二匹の魚でお腹をみたしただけではなく、有り余るほど、満腹したのです。どうしてそうなったのか。答えは唯一つ、主イエス・キリストが共におられるからです。
教会は、この奇跡の主の御業を味わい続けました。逆に、これを味わわないなら、教会は、衰退します。貧しくなります。教会は、永遠の命の源、命のパンを無尽蔵のように与えられているのです。すべての人にこのパンを提供します。すべきです。そして、この労苦にいそしむときこそ、主イエスの約束を味わい続けることができるのです。「見よ、わたしは、世の終わりまであなた方と共にいる」
豊かに生きる道、それは、何よりも豊かなるお方主イエス・キリストと共に生きる道です。「受けるよりは与える方が幸いである」と教えられ、実際、私どものために、そのお命を十字架において与えてくださいましたお方と共に生きる道です。また同時に、主と共に生きることとは、このお方から受けた、頂いた宝、富を互いに分かち合う道でもあります。あの名もなき少年のように、主イエスに自分の持っているものを差し出す道でもあります。
もちろん、先ず受けることから始めたらよいのです。どうぞ、ここで、主イエスがおられるこの教会で豊かに受けて、満たされてください。しかし、誤解してはなりません。すでに私どもはここで、今、受けているのです。今、主の命の言葉を聞いているのです。主イエスはヨハネによる福音書のなかで、この物語直ぐ後にこうもお教えくださいました。「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」つまり、この説教の言葉もまた、主の命のパンそのものであると教えてくださいました。洗礼を受けておられるかどうかは、関係ありません。今、ここで、皆で、主イエスの御言葉を聴いたのです。受けたのです。わたしは受けていない。受けるまでは、何もしないぞと固まっていては、既に受けていることすら気づけないのです。
願わくは、神が、主イエス・キリスト御自身が、今日、私どもをご覧下さり、憐れんでくださり、ここに呼び集めてくださいました、お一人ひとりに、御自身の命の富、命の食物を受け入れる信仰をお与えてくださいますように。この命の食物を受けてくださいますように。そのようにして皆様が、この豊かに生きる道へと入って下さいますように。この奇跡を自ら体験し、それだけではなく、この主の奇跡のお手伝いをする人間、まさに豊かに生きる人間として、生きれるように、主は私どもを今招いておられます。
祈祷
私どもを飼う者のいない羊として、はらわたを痛めるように憐れんでくださいます主イエス・キリストの父なる御神、そのように見てくださるゆえに、私どもは今、あなたのみ前に、羊飼いの守りの中で、豊かな命の食物を受けて、この地上の生活を営むことが許されています。心から、感謝申し上げます。しかしながら、私どもは、あなたから受けている恵みが不十分であるのかのように思い、互いに分かち与えて生きる道から脱線し、独り占めしようとの乏しい心に転落し、あなたの御心を損なってしまいます。どうぞ、今朝、神の言葉の説教により、ただ今あずかる聖餐によって、私どもをもう一度豊かにしてください。そして、あの少年のように、出し惜しみすることなく、主に捧げて豊かに生きることを得させてください。 アーメン