「自分が自分である喜び」
テキスト エフェソの信徒への手紙第1章3節~5節
2002年1月8日
金城学院大学朝の礼拝
わたしは名古屋市緑区の日本キリスト改革派教会名古屋岩の上伝道所で牧師を致しております。
さて、最初からまことに個人的なことを申して恐縮ですが、実は、本日1月8日は、私の○○回目の誕生日であります。牧師として、教会員の誕生日には、神の御言葉を添えてカードを贈ります。今まで、おそらく最も多く記したのは、本日お読みしました御言葉であります。また、ガラテヤの信徒への手紙第1章15節「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召しだしてくださった神」この御言葉もしばしば記しました。「誕生日を祝う。」それは、今の自分自身の存在を心から喜び、感謝することができなければ、深い意味で祝うことはできないと思います。
一つの短い詩を朗読したいと思います。おそらく誰でもご存知でしょう。
「ぞうさん ぞうさん お鼻が長いのね
・そうよ かあさんも長いのよ」
まど・みちおと言うキリスト者の詩人の作品であります。
子どもの象に誰かが言います。「お鼻が長いのね」これは、どう言うふうに朗読すべきでしょうか。もちろん、驚きもあるでしょうが、むしろここではからかう思いのほうが強いと思います。「お鼻が長いのね」他の動物、キリンかあるいは人間か分かりませんが、彼の肉体的な特徴をあげつらったのです。ところが、肝心のぞうさんの方は、「そうよ」と受け入れます。少しも怒っていません。むしろ、嬉しそうにこう言います。「かあさんも長いのよ」
この子どものぞうさんは、自分が他人と違っていることを、認めているのです。「わたしはわたし、あなたはあなた」お互いの違いを認め、受け入れている。もちろん、それで喧嘩などはしない。仲良くするのです。なんと素晴らしい心の態度でしょうか。
いったいどうしたら、このような心になれるのでしょうか。何故、このような豊かな心に育つのでしょうか。それは、ぞうさんが自分自身の存在、特徴を喜びと感謝をもって受け入れているからであります。
この詩はこう続きます。
「ぞうさん ぞうさん だあれが好きなの
・ あのね かあさんが好きなのよ」
これが、このぞうさんをしてこのぞうさんたらしめた核心部分であります。「あのね」とちょっと照れながら、しかし、喜びを押さえきれずに、「母さんが好き!」と歌うのです。この一言で、この小象が母親にどれほど愛されているかが雄弁に語られています。実に、母の愛がこの小象を強く支え、自信と喜びを与え、存在を感謝する思いを膨らませたのであります。愛されている確信が「生まれて嬉しいぞう」と歌わせる原動力なのです。
さて大人である、皆さんは、「生まれて嬉しい。感謝します。自分が自分であることが嬉しいです。」と、ご自分の存在を感謝して受け入れることがお出来になるでしょうか。自分が生まれてきたこと、自分が今の自分であることを心から喜ぶことがお出来になりますか。
今日、心を病む方々が増えております。あるいは、自分自身病を患わなくても、共に生きている隣人の心を損なう行動をとる人もまた少なくありません。その原因は、幾つもあり、複雑であろうと思います。しかし、その中の多くの人に共通するのは、自分自身を受け入れることができないという問題であります。その原因は、深く愛される経験の欠如にこそあります。深い愛、それは自分自身の存在をあるがままで受け入れ、包む愛であります。しかし、現実には、私どもはもはや、もう一度幼児に戻って、母親か父親の愛を受けなおすことはできません。そうであれば、私どもは手遅れなのでしょうか。
そうではありません。聖書は告げます。父なる御神は私どもを、天地創造の前、生まれる前、母の胎内にあるときから、愛をもって選び、神の子としようとご計画されたと。私どもはこの神の愛とご計画に気づいていないだけです。そしてもしも、この私どもを愛していて下さる神を信じ、受け入れるなら、私どもも、また、歌いだすことができるのです。「生かされて在る今のときを、自分自身を感謝します。」もっと素朴に素直にあの小象のように、こう歌えるようにもなるのであります。「あのね、主イエスが好きなのよ。」
どうぞ、皆様が、神に愛されている自分を、この学び舎にいる間に発見できますように。どれほど、神に愛されて生かされてきたかに気づけますように。その愛を受け入れ、神に愛されている喜びのうちに自分自身を感謝し、隣人を受け入れることができますように。
祈祷
主イエス・キリストの父なる御神。あなたは、私どもが生まれる前から、あなたを聖書によって知る前から、既に恵みのうちに私どもを選び、知って下さいました。愛して下さいました。ご自身の深い愛のうちに自分自身を知り、隣人を知ることができる、健やかな心を与えてください。