「満ちあふれる恵み」
2006年3月26日
テキスト ローマの信徒への手紙 5章12節~21節④
「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。 この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。 律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。 こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」
ただ今朗読した箇所から四回目の説教を聴くことによって礼拝を捧げます。先週の朝と夕べの祈祷会で、このテキストをあらためて読みました。出席された皆様がこのテキストからどのように恵みを受け止められたのかを、お互いに分かち合いました。そして、本日は、いよいよこのテキストを読み終えます。そこで、これまで触れませんでした、第20節と21節とに集中いたします。「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。 こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」
わたしは、この御言葉に集中するということは、この全体を要約することでもあると思わされています。使徒パウロがここで情熱を傾け、喜びに溢れながら語ってきたことを圧縮するような御言葉であります。私どもは賛美歌21を採用しておりますが、聖歌という讃美歌集がありますが、その701番に「いかに汚れたる」という賛美歌があります。この賛美歌はリフレインの歌詞でこう歌います。「罪けがれはいや増すとも、主の恵みもまたいや増すなり」これは、言うまでもなく、本日の第20節の御言葉を用いたのです。
文語では、「いや増す」と言い表されます。新共同訳聖書では、「なおいっそう満ちあふれる」です。文語は短いのですが、しかし、力がある言葉であると思います。しかし、「なおいっそう、満ちあふれる」も「いや増す」も、いずれにしろ、言いたいことは、恵みは、どんどん湧いてくる。ぐんぐん迫ってくる。それは、岩の間から湧き水がちょろちょろ流れてくる程度のものではない。泉が池になるなどいうだけではなく、湧き上がるのです。遂には、大洪水のように押し寄せて、すべての罪、罪がもたらしたすべての災い、災いの王である死すらも飲み込んで、押し流してしまうのです。そして、流されたそこに現われ出るものは、ただ、恵み、ただ神の恵みのみなのです。罪の痕跡すら消し去って余りある、それが、ここで使徒パウロが主の恵みは「いや増すなり」と記した事態なのです。
しかし、祈祷会のときにも、あらためて思わされたことがあるのです。この「溢れる恵み」という表現は、多くのキリスト者にとっては、いつかそのような恵みを受けられたら良いなと、つまり将来の目標のように考えられてしまうということです。確かに、今、自分は、洗礼を受け、教会員とされ、奉仕にも励み、まじめに主の道を歩んでいる。しかし、第15節にあるように自分の事として「神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、豊かに注がれる」とは思えない。「まだそこまでは達していない」と、考えるのです。第17節の「神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人」とはっきり記されているのですが、何か、自分の現実とはかけ離れていると考えてしまうのです。そして、本日の「恵みはなおいっそう満ちあふれました」ということも、ますます、これを将来のこととして考えてしまいやすいのです。それなら、手紙の著者パウロ自身はどう考えているのでしょうか。「わたしは使徒であるから、特別の恵みを注がれている、しかし、あなたがたはまだそこまで達していない、これを目指しなさい」そういうことでしょうか。違います。彼は、まだ会ってもいないローマの信徒たち、ローマ教会のキリスト者に向かって、ただキリストに結ばれている者であるということだけで、あなたがたとわたしとの間には同じ恵みが注がれている、同じ恵みにあずかっているのだと言ったのです。それをもって、お互いの共通項としている、お互いの間に橋を架けているのです。「あなた方の上にも、恵みは満ち溢れています。豊かに注がれています」と断言しているのです。ここで記されております、「注がれる、受けている、満ちあふれました」という御言葉を見ますと、将来、現在、過去形で現されているわけです。つまり、この恵みとは、過去にも現在にも将来にも及んでしまうものだと言うわけです。だから、満ち溢れるものなのです。
「律法が入り込んできた」と使徒パウロは言います。「入り込んできた」という言い方は、第12節で、「罪によって死が入り込んだ」というように用いられています。死が入り込むということは、私どもにとってもっとも災いなことです。嫌なことです。悲しみ、厭うべきことです。ところが、使徒パウロは、ここで律法、神の律法、神の御言葉と言い換えても良いのですが、神の掟に対してそのような表現を用いるのです。
聖書にすでに親しんでおられる方であればあるほど、むしろ、このパウロの言い方に違和感を覚えるはずです。それは、あの詩篇第119編のように、聖書のなかでもっとも長い章で、新共同訳聖書では12ページにわたって、詩人は情熱的に、唯一つのことを歌い上げているのです。たとえば、第一節「いかに幸いなことでしょう。全き道を踏み、主の律法に歩む人は」「わたしはあなたの掟を楽しみとし、御言葉を決して忘れません」「わたしはあなたの戒めを愛し、それを楽しみとします。」「あなたの仰せを味わえば、わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう」えんえんと神の律法への賛美、感謝が歌い上げられるのです。まさに詩人の心は喜びに躍りだして、掟への感謝と楽しみを言い表し、そのようにして神を賛美するのです。律法への賛美は即、神への賛美なのです。ですから、使徒パウロがここで、律法に対して、消極的、否定的な言葉遣いをすることは、さっと読むなら、何か違和感が残るのです。何だか、手触りが悪いのです。パウロ先生が言いたいことは、十分理解できるのだけれども、なんだか、ざらざらしたものが残る感じがするのです。
わたしは、皆様に先立ってこのテキストを何度も何度も読みました。そして、正直に申しますと、同じように、何か分かるけれど、何だかしっくり来ないという、距離感を感じて仕方がありませんでした。いつもは、そのようなことをしないのですが、集中して説教の準備をする金曜日の午後、一人の尊敬する先生の文章を読んで、思い立って散歩に出ました。黙想は散歩が最適であるという文章です。初めてのことですが、黙想のために、滝の水緑地に行きました。この聖書のテキストを印刷して、それを目で追いながら歩きました。小さな雑木林の中を、ときどき、散歩している方ともすれ違いながら、何周か歩きました。これは、皆様もときにそのようなことをなさったらと思いますが、そこで使徒パウロが記した言葉がだんだんと迫ってまいりました。汗をかくように歩いたせいではなく、心が熱くなってまいりました。要するに、神の恵みの勝利、恵みは私どもに豊かに溢れるほど注がれている。もはや、わたしは、罪の支配下に屈服させられているのではない。一人の人イエス・キリストのおかげで、わたしもイエス・キリストと一緒に生き、それゆえに、イエスさまのおかげで、罪と死の支配者、王様にされているのだと、くっきりとこの御言葉が立ち上がってきたのです。ここでのパウロの表現方法、つまり比喩、レトリックが、主イエスの恵みの勝利を明らかにするためにふさわしいのだと分かったのです。
さて、この律法については、実は、このテキストの冒頭でパウロは、議論を始めているわけです。第13節です。ところが、パウロは、始めた律法の議論をすぐに中断してしまったのです。ですから、わたしのこれまでの説教の中でも、律法についての議論は深めていません。その意味で、第20節は、第13節からの続きであると読めばつながります。それならなぜ、パウロは、ここで中断したのか。それは、おそらく、パウロ先生にしてみれば、主イエス・キリストの恵みは、圧倒的なのだと、ただちに、主イエス・キリストについて語りたかったから、律法のことは後回しでよいと思ったからではないでしょうか。
使徒パウロはすでにこの手紙の特に第3章で、集中的に神の律法についての議論をしているわけであります。そこで、ユダヤ人の優れた点は、彼らが神の言葉、律法を委ねられたことにあると言いました。今、あらためてその議論をおさらいする暇はありません。しかし、そこで、使徒パウロは、「ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にあるのです。」と既に、断定しているのです。ですから、この第5章12節で、「すべての人が罪を犯した」「死はすべての人に及んだ」と言ったのは、もう一度確認していると読むことができます。そしてそれは、結局、主イエス・キリストを私どもの紹介するために他なりません。その準備のためなのです。
先日の花倶楽部の集会のとき、わたしは、主イエス・キリストが仰せになったことを単純に、素直に受け止めるなら、このお方への評価は、二つに一つ以外にないと申しました。主イエスは、「わたしが道であり、いのちであり、真理なのです。と仰せになられ、わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない。」と仰せになられました。つまり、この一つの主張をとりあげるだけでも、イエスさまは、ご自身をしてはっきりと神であると宣言されたわけであります。いったい、一人の人間が、自分のことを生ける全能の神、造り主なる神へと至る唯一の道、門であると宣言するのであれば、その人は、気が狂った人間かもしくはまことに神であられるのか、これは、二つに一つでしかないのです。主イエスへの評価には、中途半端はありえなくなるのです。つまり、人は、主イエスを知るとき、常に態度決定を迫られるわけです。そのようなし方でしか、私どもは主イエスにお会いできませんし、また、主イエス・キリスト自らそのように出会って下さっているのです。
ここで使徒パウロは、我々人間に、このような仕方とごく似ている仕方で、決定的な事実を突きつけていることに気づきます。「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」つまり、パウロは、読者に、我々人間に、「人間とは、全員が罪人であって、例外はない。つまり、人間には、この罪のなかで滅ぶか、主イエス・キリストによって救われるのか、どちらかでしかない」こう私どもに告げるのです。これが、神の宣言であります。そうであれば、私どもは、自分自身の立場について、追い込まれます。滅びるべき人間なのか、救われるべき人間の課、滅んでいのちを失っている人間なのか、救われて永遠の命を豊かに受けている人間なのか。聖書を読むということは、一方で確かに、我々を不安にさせます。我々にこの二つの立場に立たせ、追い込まれるのです。
16世紀の私どもの教会の先輩たちがつくり、今日ももっとも多くの教会に親しまれているカテキズム、信仰問答にハイデルベルク信仰問答があります。この問答もまた、皆様が親しまれるとどれほど豊かな恵みを受けることになろうかと思います。その序として、先ず最初に、「生きている時も死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか」と問います。「わたしが身も魂も、生きている時も死ぬときも、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。」序として「唯一の慰め」と主題が掲げられています。そして、その第一部として「人間の惨めさについて」と続きます。問い三にこうあります。「何によって、あなたは、あなたの惨めなことを、認めることができるのですか。」答え、「神に律法によるのです。」ハイデルベルク信仰問答は、唯一の慰めを受けている人間、救われている人間として、人間の惨めさを見据えているのです。惨めさとは、何かと申しますと、もともとの言葉、ドイツ語では、本来あるべき場所にいないという、故郷から追われている状態という意味なのです。それが、人間の惨めさなのです。つまり、神によって生かされているエデンの園にいない、故郷にいない状態、言わばボートピープル、難民になっている状態のことです。そのような現実に生きていることは、いったい何によって認識できるのか、それは、神の律法によってであると言うのです。
教会に来て、私どもは、恵みを豊かに受けます。ところが、教会に招かれ、教会に来ながらも、この恵みが分からない人も現実には、少なくありません。なぜなのでしょうか。それは、神の恵みを必要としていないからであります。恵みとは、神の恵みであって、神の恵みとは、罪の赦しの恵みに他なりません。その意味で、どれほど、教会が、説教が恵みを語ったとしても、聞いている人が、今自分が欲するものを満たしてくれるものが恵みであると考えるなら、神の恵みを受けることができません。罪の赦しを必要としない人に、いくら罪の赦しなしに生きれない、これがどれほど莫大な恵みであるかを語っても、必要としていないのですから、分からないのです。しかし、もし、人が罪人であることを悟り、自分の将来が滅び、絶望であることを知ったなら、神の恵みなしにどうして生きられるだろうか。神の恵みこそ、真の恵みであると分かった人は、そして、その恵みが主イエス・キリストを通してあふれるほど注がれることが分かった人は、歓喜に満たされるはずです。
そうであれば、パウロがここで、神の律法は、「入り込んでくる」と、まるで悪いものであるかのように表現していても、それは、まさに主イエス・キリストの恵みがどれほどすばらしいかを知っている人間の、この恵みの巨大さをいいあらわすレトリック、比喩として受け止められるのです。ハイデルベルク信仰問答も言うように、人間の惨めさ、罪の悲惨を律法が教えるのですが、しかし、今や、それもまた、大きな恵みとして私どもは理解している、できるのです。
キリスト者になって、私どもは初めて、自分の惨めさに気がつきます。洗礼を受ける志願をするとき、すでに、そうです。しかし、いよいよ、自分の惨めさを知るのは、実際にキリスト者として生きはじめるそのところでこそ、知るのです。そのとき、本当に傍らに、霊的な指導者、牧師、神学者がいてくれないととても危険です。つまり、キリスト者は、自分がこれほどまでに罪深い人間であることに、これまで気づかなかったのですから、まるで、自分が洗礼を受けたのが、間違っていたのではないか、自分など、神の子、キリスト者として呼ばれるような者ではないのではないかと大変な霊的な危機に陥ることもないわけではないのです。しかし、そこで、神の御言葉を正確に聴き取ることが必要です。光の中で生きているからこそ、初めて自分の罪深さが見えてきているのです。
私どもの教会を代表する神学者、牧師カルバンは、この箇所を注解してこう言います。「律法のうちに我々の断罪が示されるのは、そこにとどまる為ではない。そこで、打ちひしがれるためでもない。悲惨な自分をよく知った人間が、キリストへとまっすぐに向くため。彼に服するため。キリストは病人の癒し主。奴隷の解放者、悩める者の慰め主。虐げられた者の保護者。」
ルター派的敬虔というあり方があります。それに対してやはり改革派的敬虔があります。それは、少々、図式的になってしまいますが、ルターは、律法によって自分の罪を知らされるのです。彼にとって律法とは、人間が罪人であることを指し示す神の道具なのです。ですから、律法は、彼にとって聖なるものですが、しかし、いつも、悲しいものです。恐るべきものです。そしてルターは、自分が罪人であることを律法によって教えられて、そして十字架の主イエスを仰ぎ見るのです。その意味では、十戒を唱えることによって、いつも、主イエス・キリストの十字架の贖いへと引っ張っていただくものなのです。しかし、改革派の律法理解は違います。それを律法の第三用益と申します。律法を神の愛、恵みとして、自由の道しるべとして生きるのです。
律法によって、罪が入り込んでしまいました。その通りです。罪が指摘され、その結果、神の怒りを受けるべき人間であることを知らされました。しかし、恵みは、溢れるのです。とんとんではありません。罪と赦しは、天秤にかけてバランスが取れたのではないのです。天秤にのりません。赦しはそれほど、圧倒的なのです。恵みとはそのようなものです。そうでなければ、そもそも恵みとは申しません。
誤解してはならないのです。わたしどもは、やっと救われたのでしゅか。ぎりぎりで救われたのでしょうか。違います。有り余るほど救われたのです。圧倒的な恵みの対価が支払われたのです。
確かに、私どもの経験は、こう語ります。「今日も、やっとの思いで主の日を守れている。すぐる一週間の自分の歩みを顧みるならふがいない思いを禁じえない。いったい、自分の信仰はあるのかないのかというような次元ではないか。聖書を読んで、何よりも説教を聴いていると、信仰とはもっと確かなもので、いつも勝利、毎回、勝利を積み重ねるような体験ではないか、それこそがキリスト者の信仰生活ではないかと思う。しかし、わたしの現実生活は、そうではない。だから、自分は、確かにキリスト者ではあるけれど、ぎりぎりの線で信仰生活、教会生活を営んでいる。」
しかし、パウロは、そこで言うのです。あなたに恵みは十分注がれている。あなたは罪を赦されてそれだけで十分に良かったと思うだろうが、待っているのは、永遠の命、同時に与えられているのは永遠の命なのだ、このいのちによって、あなたは義に支配されている、主イエス・キリストの獲得された義、勝利に支配されている、そうであれば、あなたの王様は主イエスさま、そして、この主が主であるということは、あなたは罪と死を支配する人間、新しい人間、王であり王女であるということなのです。
この説教の準備のために優れた説教者であった竹森満佐一先生の説教を読んでおりまして、忘れがたい言葉に出会いました。どうしても皆様にもご紹介したいと思いました。「こうして主イエス・キリストによって恵みが与えられてみると今まで罪に悩んだことがどんなに愚かしいことであったかということが分かったのです。恵みは、我々が罪が多いと思って数える数、量とは比較にならないものでした。それは、罪が大したことではないというのではありません。罪は全くおそろしく、数えつくすことができないほどなのです。しかし、キリストによる恵みは、それよりもさらに多いのです。新しく罪を知るごとに、その幾倍もの力をもって、恵みがそれを圧倒するのです。それで、今は、自分の罪に苦しむいとまもないのです。」竹森先生は、「それで、今は、自分の罪に苦しむいとまもないのです。」と仰るのです。なんと愉快な言葉であろうかと思います。わたしも、毎日毎日、時間が足らないという思いのなかで生きておりますからこの言葉に心奪われてしまったのかもしれません。竹森先生は、主イエス・キリストの恵みを受けた今は、自分の罪に罪深さに苦しむ時間がない、そんな余裕はないというのです。それほどまでに、恵みは義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。
私どもは、この永遠の命を受けているのです。そうであれば、究極の勝利を今、手にしているのです。まさに、勝利者キリストのおかげで、私どももこの勝利をかぶせられるのです。自分の罪や弱さをほじくりまわして、それを見つめて、そして主イエスの十字架を見上げる、そのような信仰の循環をやめてよいし、止めなければならないということです。そんな時間はないではないか。キリスト者とされた私どもはすでに、神の恵みすなわち罪の赦し、永遠の命を受けているのです。そこから見れば良いのです。律法を、第二用法だけで見るしかたを止めてしまってよいのです。十戒を唱えるとき、必ず、必ず、わたしは、「主よ、憐れんで下さい」と唱えます。カルバンのつくった礼拝式は、十戒の一つひとつを唱えたあと、直ちに主よ憐れんで下さいと唱えさせます。十回、主よ、憐れんで下さいと唱えるのです。しかし、このキリエ・エレイソンという祈りの言葉は、明るい言葉です。キリスト者には、分かっているのです。どれほど、憐れんでいただいているのかを知っているから、願い求めているのです。憐れんで下さいという言葉は、決して憐れまれていない、恵みを受けていない者の叫びではないからです。物乞いが、お金を恵んでほしい、何とか助けてほしいという憐れな声色を使って、同情を引くようなことでは、全く、まったくありません。主の恵みを豊かに受けていることを知っているからこそ、主の御前に、十戒を生きようという意欲が与えられるのです。そしてこの十戒を生きることが、私どもの自由の道しるべとなるのです。そして、私どもは、神の律法の中核としての十戒を明るく唱えるのです。そして、繰り返し主イエス・キリストのいのちによって立ち上がらせていただくのです。
祈祷
罪の増し加わるところに、私どもの主イエス・キリストの恵みはいよいよ溢れます。この溢れ、迫ってくる恵みのうちに私どもは今朝も、あなたを礼拝する家にいることができます。心から感謝いたします。この恵みのうちに、いのちのある限りとどまらせて下さい。そして、この恵みに支えられ、自己実現、自分をどれだけ楽しませられるのかという人生から、神に喜ばれる人生、神の栄光に生きる人生、隣人のために生きる人生へと解き放ち続けて下さい。アーメン。