「使徒信条・聖書の信仰の基準」
賛美歌 前12(2:14秒)・後66
コリントの信徒への手紙一第15章1節-5節
おはようございます。
今日から半年間、皆さまとご一緒に、「使徒信条」を学んで、私どもを造り、導き、今愛していてくださる真の神をご一緒に礼拝してまいります。
キリストの教会は、21世紀の今日、多くの教派、教団に分かれて存在しております。私どものような福音主義諸教会、いわゆるプロテスタント教会があり、ローマ・カトリック教会があり、日本にはまだ少ないのですが、ギリシャ正教、ロシア正教という東方の諸教会もあります。
それなら、キリスト教というのは、仏教のようにさまざまな宗派に分かれ、信仰の内容はそれぞれに違うのかと申しますと、決してそうではありません。キリストの教会は、聖書をその信仰の唯一絶対の規準として信じ、受け入れています。これを否定してみせる教会は、ありません。ただし、問題は、その聖書をどのように解釈するのかによって、キリスト教とはおよそかけ離れた宗教に転落してしまうという可能性があります。実際、これまでの歴史のなかで数多く起こってまいりました。
そこで、いったい、何が正しい聖書の信仰であり、どこにまことの教会があるのか、平たく申しますと「本物と偽物とを分ける目印」が教会に求められるようになってまいります。そればかりではなく、むしろ積極的な意味で、たとえば新しく教会の仲間に加わりたいと願い求める方たちのために、聖書の信仰とはいかなるものであるのか、教会は何を信じているのか、言わば要約して教える必要も生じます。こうして紀元4世紀や5世紀までに、それこそ命をかけて整えられた聖書の信仰の要約、それが公同信条とか、基本信条と呼ばれる教会の信条なのです。その一つが使徒信条です。これは、世々の教会、そして今地上にあるすべての教会を結びあわせる「絆」なのです。
実は、この放送は、教派を異にした教会、また学校に仕える者たちが、それぞれの立場を重んじつつも、しかし心を一つにし、祈りを集めて、神に愛されているおひとりお一人に、聖書の信仰、罪の赦し、救いの喜びをお伝えさせていただいております。それができるのも実に、この使徒信条のおかげと言っても良いのです。
先ほど朗読して頂きました御言葉のなかで、聖書の著者となった使徒パウロ自身もまた、自分が伝えるよい知らせは、先輩たちから伝えられた教会の信仰を受け継ぎ、それを今、自分も受け渡しているのだと言いました。そして、神は、今日もご自身の教会を通して、ただ一つの信仰を、世代を越えて受け継がせ、国境を越えて広めていてくださるのです。ですから、使徒信条を告白するということは、この2000年の教会の信仰告白の歴史、つまり教会の命の流れに加わることを意味します。そればかりか、まだお会いしたこともないこの放送を聴いてくださるお互いが、キリストにあって一つに結ばれているのだと、確認することもできるのです。
今朝は、最後に、アナウンサーの大野さんと一緒に、使徒信条を唱えて終わります。ご存知の方は、ぜひご一緒に使徒信条を唱えて、信仰を与えてくださり、お救いくださいました神に感謝と賛美を捧げましょう。
使徒信条
「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。 我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。 アーメン。」