★ 先週の主日に、○○○○氏が神棚を持ってこられました。先々週から、学びの中で、神棚はもはや不要であって、それを処分することがキリスト者としての歩みのなかでふさわしいとご自身で判断されたのです。わたしは、「神棚を持って来て下さったら、わたしが処分(壊します)しますから」と申しました。この話にはなおすばらしい証が続きます。○○氏との学び会のなかで、この事を紹介しました。ちょうど、子どもカテキズムで摂理についての学びをしたのです。そして、「先生、僕も手伝います。」とのお申し出をいただきました。そのようにして、先週の日曜日を迎えました。ところがどうでしょう。中尾さんはすでにご自分できちんと壊して、袋に入れて持ってこられました。これには驚かされました。はっきりと、信仰によってこの偶像崇拝の罪と別離され、たたり(?)の恐れを克服しておられるのです。
☆ 日本人キリスト者が誕生することは、このようなことが伴います。ただ、これを読まれるのは、キリスト者だけではありません(ネットでも公開しています)から、丁寧な叙述が求められます。神棚と仏壇とは、異なります。仏壇というより位牌の問題です。肉親が仏式で葬られておられる方の場合、家族のお気持ちを配慮することは、コリントの信徒への手紙一第13章にあるように、キリスト者としての「礼を失しない」愛の心と態度が求められます。ご自分だけで解決できる問題であれば、○○氏の神棚のように処理できるでしょうし、すべきことです。かつて、そのような事例もありました。一緒に、複数(!)のお寺にご挨拶周りに付き添ったことがあります。何よりも、牧師に相談することが大切です。形式上の偶像礼拝との決別は困難ですが、なお容易でもあります。しかし、急所になることは、ことはそれで終わらないということです。つまり、全生涯に渡って、神を神とする信仰の戦いの最初の一歩に過ぎないということです。しかし、実に大きな一歩です!
★ 先週の読書の中で、明治開教時の日本の教会(公会と称していました)の洗礼入会志願者への試問の内容を改めて読み、深い感慨を覚えさせられました。
『洗礼を領せんと欲する人々に尋ねる個条』 『己(おの)れおよび凡(すべ)て他のものに優りて基督を愛するか』ストレートにキリストへの愛を問うのです。ヨハネによる福音書において、使徒ペトロに、「あなたは私を愛するか」とお尋ねくださった主イエスの問いかけを映しているといっても良いでしょう。
『一、自己の罪を悟り深くこれを悔いて神の子イエス・キリストを頼み、且つ信じて己が救い主と仰ぎ尊むか』
『二、己の身および一切の物よりもキリストを愛し敬い且つ服い 何事によらずその聖意に協ざる事は止め廃(すつ)るの心あるか』 この二、の問いの中で、はっきりと主キリストに救われる以前の神の御言葉(聖意)にかなわない、服さないものは、止めているか。捨てているか。捨てる用意はできているかと、生活そのものを問う問いが出ます。「イエスは主」これこそ、信仰告白の柱であり、聖書におけるもっとも短い信仰告白ですが、この「主イエス」との告白は、生活そのものを問う問いです。
『三、 信仰の箇条をよく会得し又公会の規則、兄弟の約束を固く守りこの公会と争うことなく心を一にして相共に道のためになることを喜び行わんと欲(おも)うか』 信仰の箇条とは教理条項です。聖書の教理と教会の規則(私どもで言えば政治基準)を守り、さらに「道のためになること」おそらく伝道や教会奉仕のことなのでしょう、ディアコニアを喜んで行おうと願っているかどうかをも問います。 『四、イエス・キリストに従いてバプテスマを受ける心あるか』 ここでは、洗礼受領が、キリストへの服従であることが鮮明にされています。さて、先に洗礼を受領した私どもは、日本キリスト改革派教会の七項目を思い起こしながら、降誕祭における洗礼入会式が、受領者の祝福はもとより、私どもへの祝福の礼典となるべく備えましょう。
★ 学校でのいじめ問題が、教育基本法改正案の審議のなかでとりあげられています。個別の「いじめ」への対処が論議されている裏側で、国家規模でのいじめの構造が「改正案」に盛り込まれています。いじめている側がいじめに気づかない(それを悪いとは思わない)状況にあります。さらに深刻なのは、教会がいじめられていることに気づかないことです。そこに現れているのは、教会の語る言葉の問題と、教会の立ち位置の問題です。教会がキリストの主権に服することをすべての人々に招くこと、言い換えれば、神の御前に悔い改めることを叫ぶことがないのであれば、「いじめ」に遭うこともなくなるのです。教会が、日の丸、君が代の強制に戦っている少数者の側に立つことがなければ、教会は、世俗の権力側、支配勢力の側に立っているということになります。今こそ、教会は福音に堅く立つときです。また、日曜学校が、いじめを解決する可能性に満ちている場であることを信じます。教会をあげて、この業に取り組んでまいりましょう。