「神の子たちの誕生日」
2006年12月24日
テキスト ローマの信徒への手紙 第8章18節~25節①
「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」
本日は、降誕祭を祝う主日礼拝式を捧げています。その中で、三名の成人洗礼入会式、お二人の幼児洗礼入会式を挙行することができましたことを、改めて心から神に感謝いたします。説教の後に、三名の新しい会員とともに聖餐の礼典を祝います。遂に、この聖餐の食卓にこの三名の方々を迎え入れることができます。
洗礼入会式を挙行する恵みにあずかりました私どもですから、あらためて洗礼の礼典の恵みとはいかなるものであるかを簡単に確認しておきたいと思います。洗礼とは、主イエス・キリスト御自身が教会にお定め下さった恵みの手段です。教会の信仰をアーメンと告白し、誓約した志願者にわたしが水を注ぐのです。この水という目に見えるしるしを用いて、父なる神は、すでに聖霊によって主イエス・キリストと受洗者とが一つに結びあわせられていること、救いの御業を目に見える形で明らかに現し、しるしづけ、保証するものです。洗礼によって、主イエス・キリストと一つに結ばれるのですから、受洗者は、イエスさまの弟になります。神の御子の兄弟としていただいたのですから、その人は神さまの子ども、神の子とされるのです。聖霊を受けた彼らは、神を心からの愛と信頼と感謝、喜びを込めてアバ!お父さまとお呼びできる人たちです。主イエス・キリストの十字架の恵みによって罪を赦されました。十字架はキリストの死なれた場所です。ですから、洗礼を施された者たちは、これまでの古い生き方、これまでの人生は葬られてしまったことを意味します。つまり、葬式です。しかし、同時に、主イエス・キリストは三日目に死人のうちよりお甦りになられました。神と永遠に生き、支配する王の王であられ、救い主であられることを証明してくださったのです。ですから、洗礼を施された者たちは、この復活されたキリストとともに新しい人間とされたことを意味します。つまり、誕生日なのです。そのようにして聖霊なる神が、洗礼を用いて主イエス・キリストと一つに結んでくださるのです。そして、主イエス・キリストと一つに結ばれるということは、この地上においてはキリストの体なる教会と結ばれること、つまり、教会員になることです。今朝、5名の方々は正式に、教会員にうわえられたのです。この恵みの計り知れない重さを思います。あらためて、おめでとうと祝福します。
さて、このような喜びの日、そして降誕祭に与えられているテキストは、いつものようにローマの信徒への手紙であります。今日は、その第8章18節から25節を読みました。本日は、特に、19節を中心にして学び、礼拝を捧げてまいります。
19節をあらためて聴きましょう。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」これは、実に驚くべきことばではないでしょうか。あるいは、異常な言葉であると言っても言い過ぎではないように思います。被造物、それは世界のことです。神によって造られたすべてのもののことです。果てしも知れない宇宙と我々が住んでいる地球、その天と地と、その中に生きとし生けるすべてのもの、空の鳥、地上の生物、海の生き物、ありとあらゆる存在が、「神の子たちの現れ」その出現を、切望している。切に待ち望んでいるのだというのです。いったいこのように自然界を見るということは、我々には考えも及ばなかったことではないでしょうか。
そうであれば、今日のこの礼拝式の出来事は、この小さな礼拝堂の、小さな出来事で済ますことはできないはずです。被造物が今日のこの日を、切実に待ちわび、恋焦がれるように待っていたのだと使徒パウロは言うのです。
「神の子たち」それは、神の御子によって誕生させていただいたキリスト者たちのことであります。キリスト者が、地上に一人二人と出現することが、彼ら、彼らと言っても人格があるわけではありませんから、パウロの擬人法、表現です。そうであれば、今日のこの小さな礼拝堂の出来事は、キリスト者たちや教会の喜びだけに留まらないということです。まさに世界大のことです。宇宙的な事件であると言ってもよいはずです。
いったいどうして被造された世界、生きとし生けるものは、キリスト者の出現、誕生を待ちわびているのでしょうか。使徒パウロは、説明します。「被造物は虚無に服しています」
虚無というのは、空しいということです。空虚であるということです。満たされていないのです。欠けたるところがあるのです。ですから、満足できないのです。しっくり来ていない。ぴったり来ない。なにか、自分自身に違和感があるのです。
使徒パウロは、丁寧に言います。「虚無に服している。」つまり、もともとは虚無ではなかったわけです。あるときから、そうさせられてしまった、ということです。そこにこのテキストの急所があります。この不思議な御言葉を紐解く鍵があります。
そのためには、聖書の第一ページに戻る必要があります。ただし時間の関係で丁寧に読むことはできません。思い出して下さい。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の表にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ』」聖書の最初の言葉であります。さらに、天地の創造の物語りは続き、草や木を創造された神は、それらをご覧になり、良しとされます。その後、順々に創造の御業が進められ、そのたびごとに神は御自身の作品をご覧になられて良しと宣言されるのです。極めつけは、人間の創造であって、その最後の作品を仕上げられた後には、御言葉は告げます。「見よ、それは極めて良かった。」
神の創造された物はすべて良いのです。良いものであれば、虚無になるはずがありません。空しいはずがありません。それなら、いったいこの良い物、自らのうちに満足があり、満ちている存在がどうして空しいものとなってしまったというのでしょうか。
それを明らかにするのが、創世記第3章であります。これも、読む暇がありません。そこには、アダムとエバが、神が決して食べてはいけないとただ一つだけ与えられた戒めである善悪の知識を知る木の実を食べてしまった出来事が記されています。たった一つだけ、神が人間に守るように命じられた契約、約束を彼らは無視したのです。背いたのです。破ったのです。それを罪と申します。神との関係を破壊すること、神とのふさわしい関係を切断することです。彼らが心を合わせて罪を犯したとき、神はアダムに仰せになられました。第3章17節「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。」ここに被造物が虚無に服すことになってしまった原因があります。
さらに進んで、第4章には、アベルとカインの物語りがあります。カインは弟アベルを殺します。ねたみによって殺します。アベルはおそらく石か鉄かで殴りつけられたのでしょう。血が流れ落ちました。大地はその人間の血を吸ったのです。「今お前は呪われるものとなった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。」アダムとエバの罪は、結局、彼らだけでおさまらなかったわけです。ますます、大地は汚されて行くのです。それは同時に、自分たちをも汚してしまうことでした。
つまり、ここで明らかになっているのは、被造物が虚無に服すことになったのは、その原因は、我々にあるということです。人間にあるのです。人間の責任です。
「美しい国日本」これは、今の総理大臣のキャッチフレーズです。実に危ない言葉であると思います。今国会で成立させられました、新しい教育基本法には、わが国の伝統と文化、郷土を愛する心と態度とを養うことがうたわれています。さかんに美しい郷土ということが言われます。確かに、日本の国には、美しい自然があります。わたしは、ほとんど外国に行ったことがありませんから、比較してどうなのか分かりません。外国にはさらに美しい自然があり、風土があるのではないでしょうか。ところが我々はしばしば、日本の四季色とりどりにかざる自然は、世界に誇る美しさがあるといいます。また日本の自然は、穏やかなものであるなどと言います。特に、旧約聖書の背景にあるイスラエルの風土などに比べて言うのです。しかし、いかがでしょうか。客観的に見れば、日本の四季は実に極端なまでに変化が激しいのではないでしょうか。亜熱帯のような夏と冬になれば雪が積もるのです。この差は実に激しいのではないでしょうか。何よりも、夏の台風。冬の大雪。いや何より、我々が心ひそかにおびえているのは、地震ではないでしょうか。これほどまでに過酷な、自然の猛威にさらされている国土もまた珍しいのではないか。ところが、先ほどもあげましたように、日本の自然は、日本人を穏やかなものにしているなどと、まったく根拠のないことを主張する哲学者がいるわけです。
人間が罪を犯さなければ、自然が人間を襲い掛かることもなかったはずです。見事な大自然と、その実りを楽しめたはずのエデンの園は、失われました。私どもがもはや、その場所を追い出され、危険な場所に住むことになったのです。誰の責任なのでしょうか。それは、我々の責任なのです。しばしば、「天災」「自然災害」ということが言われます。しかし、聖書によれば、それらは根本的、究極的には、すべて人災になると言うわけです。人間の罪に責任があるからです。20世紀末、21世紀、全地球規模で環境汚染、環境破壊の問題が議論されています。我々はそれを肌身で感じているのです。なぜ、冬がこんなに暖かくなったのか。夏が以上に暑くなったのか。温暖化現象です。この現象の背後にエルニーニョ現象があるといわれます。これらは二酸化炭素の量が増えたからです。オゾン層の破壊があります。加速度をあげて、人間は自然環境を壊し続けているわけです。
わたしは大学生のとき、キリスト者になりました。信仰が与えられ救いの恵みにあずかりました。大学生のとき、自分たちの主催した聖書研究会で、伊豆の大島にキャンプに行ったことがあります。まだ洗礼を受けたばかりのときです。大島には小さな動物園がありました。久しぶりに動物園に行って、これまで、まったく考えなかったことを、わたしは考えていました。動物園の檻の中にいた動物、それはトラであったかライオンであったか、うろ覚えなのですが、その動物がいかにも空しそうに、やるせなさそうにうつぶしている姿を見て、パウロのこの御言葉を思い出したのです。檻の中の動物たちは、うつろな目でわたしを見ていました。そのとき、胸に迫ってきました。ああ、この動物たちもまた、虚無に服している。空しくなってしまった。人間の罪のせいなのだ。そして同時に、思いました。「そうだ、このわたしはすでに洗礼を受けている、そうであれば、彼らは、わたしを待っていてくれたのか。」忘れがたい、とても不思議な経験でした。
動物も待っているのです。神の子たちの出現することをです。人間に責任があるからです。人間が、被造物の虚無、使徒パウロはそれを「滅びへの隷属」とも言います。彼らもまた、救われること、完成されること、元通りの自由へと取り戻されることを願い、求めているからです。しかし、いったい人間に、それができるでしょうか。まったくできません。人間は、自分自身をすら救うことができません。いへ、自分こそが滅びの大元なのです。死の奴隷なのです。虚無へと隷属させられています。人間こそが、滅びるべき定めを受けて、神なく望みなく生きる以外にないのです。
それなら、神はそのような人間に何をなさるのでしょうか。罪とは人間が神に犯したことです。罪の刑罰は神が執行なさるのです。神だけがそれをなさる権威がある、神だけがそれをなさる資格があるのです。ところが、神は、この滅びと言う裁き、刑罰を人間に執行なさらなかったのです。
今日は、降誕祭を祝う主の日であります。何故、私どもは降誕をこのように祝うのでしょうか。それは、神の救いの御業が決行されたからです。神は、罪を犯した人間を罰する代わりに、ご自身の独り子なる神を、人間とする道をとられました。永遠の神が、2000年前の夕べ、マリアから人間となってお生まれ下さったのです。永遠の神は、そのまま永遠の人間となってくださったのです。この人となられた神、その名をイエスと名づけられたお方が、時至り、そのお生まれになられた最大のご目的、この地上に来られた最大の使命を果たすために十字架についてくださったのです。そして、私どもの身代わりになって神の刑罰を受けてくださいました。それゆえに死んでくださったのです。滅びへの隷属を、実に、神のみ子御自身が受けてくださったのです。そのようにして私どもは誰一人として滅びることがないようにしてくださったのです。その御子が人としてお生まれくださったことを祝うのが降誕の祭りです。実に、神の御子御自身が出現してくださったのです。それは、罪人に成り下がってしまった人間、自分で自分を救うことができない人間を救うための御業です。
私どもは先日、牧師不在の説教において、生まれながら目の見えない人を主イエスが癒される物語を学びました。あのとき、主イエスは、地面にしゃがみこみ、土につばを吐きかけ泥をつくられました。その泥を盲人の目にお塗りになられたのです。何故、あのような不思議な行動をなさったのでしょうか。それは、もともと土のちりで創造された人間を、新しく造り直すというご意思を表明される行為であります。創造者なる神が、人間を新しくするというご意志を行動で示されたのです。そしてあの盲人は、本当に、新しい人間になりました。ただ単に目が見えるようになったというのではなくて、神を仰ぎ見る人間として生まれたのです。彼は、新しい人間、神の子のいわばモデルなのです。あるいは、こういうこともできます。主イエスが土につばを吐きかけられた行為のなかで、土自体を回復させる、被造物のすべてを回復させる神の再創造の御業の先触れの行為でもあったといえます。ですから、被造物には希望があります。
御子なる神が人となられました、それは罪に落ちて、滅びと死への隷属におとしめられた人間を、神の子とするためです。主イエスは2000年前にあの生まれながらの盲人を神の子にするだけではなくて、ここにいる私どもをも神の子としてくださったのです。そのようにして、地上に神の子たちを出現せしめ、そのようにして被造物の切に待ち望んでいる救いのときを実現し始め、その完成を早めておられるのです。ですから、被造物には希望があります。希望をもって生きることができるのです。その希望の根拠、その根拠のまことに重要な根拠は、何か。それが、キリスト者なのです。それがキリストの教会なのです。教会があるから、世界はなお希望を抱くことができるし、希望をもたなくてはならないのです。世界の希望は、教会にある。そう言えるのです。なんと尊くありがたいことでしょうか。
「神の子どもたちの栄光に輝く自由」このことは、また次回に丁寧に学びたいと思います。キリスト者自身のなかに、なお、呻きがあることを既に私どもは知っておりますし、そのこともまた次回に学ぶことができるでしょう。しかし、今朝、私どもは新に悟るのです。救いは近づいていることをです。使徒パウロは「産みの苦しみ」と言いました。産みの苦しみを被造物は味わっている。それは、どれほどの苦しみでしょうか。パウロは男性ですから、実際のことは分からないでしょう。しかしパウロは、そのような出産の例話を用いて、私どもに訴えるのです。産みの苦しみは、その後に命が与えられる保証なのです。世界は、神の子たちの出現を待ち焦がれています。そうであれば、教会はどうするのでしょうか。伝道するのです。伝道こそ、私どもが果たすべき使命です。
すでに神のみ子は人となられました。決定的な神の子は既に出現したのです。そして、この唯一の神の御子によって、滅びの中から救い出されたものがキリスト者であって神の子たちです。あの檻の中の動物のようなうつろな目で、自分を生き切ることがなかった私どもは、檻から解き放たれたのです。滅びの縄目から解放されました。それによって、世界の完成は近づくのです。神の御国はいよいよ到来を早めるのです。これが私どもの希望の根拠です。この根拠に基づいて、私どもは約束を待ちます。この約束こそ、待降節、アドベントの4週間の主題でした。主イエス・キリストが再びこの地上に来られるときを待つのです。そのときこそ、産みの苦しみが終わる日です。その日はいよいよ近づいています。神の子たちが、出現しているからです。それが証拠です。私どもの教会が、この世の終わりのしるしなのです。そしてこの世が完成される、完全に救われることの最高のしるしなのです。
私どもは、この一年、それぞれに自分の務めに励んできたと思います。主の豊かな支えがありました。しかしどんな職業に従事しても、あるいは職業を持たなくても、教会生活に励むこと以上に、この世界への貢献ということはありえないことが、今日の御言葉からもあらためて分かるでしょう。ですから、来年もまた、私どもは励むのです。今日、洗礼を施された一人ひとりは、教会に生きるために洗礼を施され、キリストの十字架の死によって古い自分に死に、キリストの復活によって新しい人間、神の子とされたのです。惜しみなく、主なる神と教会に仕えてまいりましょう。先輩である者たちは、良い先輩でありたいのです。キリスト者とはその程度のものなのか、などという空気が支配してはならないでしょう。天国を目指した私どもの行軍はいよいよ続きます。そして私どもの天国を目指したこの旅こそが、世界の救いとなるのです。世界の希望となるのです。そのことをいよいよ確信して、今、新しい仲間たちと共に聖餐を祝いましょう。
祈祷
あなたはこの世界を創造されました。しかし、その世界を私どもが破壊しました。しかしながらなお、あなたはこの世界と私どもをお見捨てにならず、あなたの御子を人間にならせることによって、お救いくださいます。この世界を新しくしてくださいます。主イエス・キリストの再臨によってこの世界は完成されます。その証拠に、すでにこの地上に神の子たち、教会が出現しています。どうぞ、私どもの戦い、伝道の戦いを支えてくださいませ。神の国の進展に、その到来を早める伝道になお献身し、いそしませてください。私どもの教会を用いてください。日本の諸教会を。そして、滅びと死の檻の中に閉じ込められ、自ら閉じこもっている大勢の人々に、出てきなさいと、悔い改めて救われよと呼びかける愛と勇気を与えてください。 アーメン