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「進め、命の光の方へ」親子合同礼拝式

「進め、命の光の方へ」
2007年7月15日 親子合同礼拝式
テキスト ヨハネによる福音書 第8章12-20節

イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」
イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」
彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」
イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。

 今日は、本当なら礼拝式の後、すぐにキャンプに出発する予定でした。台風第4号が直撃していますので、どうすることもできません。皆さんも、そしてキャンプのためにいろいろと準備をしてくださった先生たちもとても残念に思っています。しかし、台風が吹くと、キャンプは中止になりますが、主の日の礼拝式、日曜学校は中止にはなりません。先生たちがここにいる限り、たとえわずかの人しか集らなくても、礼拝式をやめることは致しません。それは、この礼拝式を本当に開いてくださるのは、神さまだからです。父なる神さま、イエスさま、聖霊なる神さまがこの礼拝式を神さまのために、そして僕たち私たちのために開いてくださるからです。この大雨の日にも、礼拝式を捧げるために来ることができたことを、神さまに心から感謝します。そして、今、ここに集っている僕たち私たちを神さまが心から喜んでいてくださることを、心から感謝いたします。そしてそれが、僕たち私たちの一番の喜びです。神さまに喜んで頂いていることより、嬉しいことはありません。

 外は雨です。雨の日は暗いですね。でも、どんなに暗くても、真っ暗ではありませんね。真っ暗闇だったら、何にも見えません。もちろん、教会に来ることもできません。ここに誰が座っているのかも、声を出さなければ決して分かりません。それが、暗闇ということです。皆さんは、そのような本当の暗闇を経験したことは、おそらくないのではないかと思います。先生も同じです。ただ、一昨年のことです。三日間ほどだったかと思いますが、ゆっくりと勉強に集中したいなと思って、泊りがけで神戸の神学校に行ったのです。一人で、図書館で本を読んでいました。もうお終いの時間になっていることに気づいて、大急ぎで、電気を消して、部屋に戻ろうとしました。長い廊下渡って、階段を降りなければなりません。ところが、電気を消すと、まったく前が見えないのです。けれども大人ですから、慌てません。そんなときはしばらくすれば、すこしずつ、目が慣れてきて、見えてくるものだとわかっているからです。ところが、どれほど待っても、真っ暗のままです。一寸先も見えません。目の前に誰かが立っていたとしても分からないほどです。先生は、壁に手を当てながら、ゆっくりゆっくり恐る恐る歩いて廊下を渡りました。本当に、怖いときでした。もしもあのとき、携帯電話を持っていたら、画面のわずかな明りだけでも十分すぎるくらいに、すたすたと廊下を歩いて渡れたと思うのです。先生の今つけている腕時計は、ボタンをおすとほんのちょっとだけ、明るくなります。ほんのちょっとです。でも、真っ暗闇の廊下だったら、そのほんのちょっとの明りだけでも、どれほど助かっただろうかと思うのです。

 今日の暗唱聖句で、イエスさまは、こう仰います。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」イエスさまの時代には、もちろん電気はありません。夜になれば、暗いでしょう。特に、部屋の中であったら、本当に真っ暗闇になってしまう部屋も少なくなかったのだと思います。ですから、イエスさまの言葉を聞いた人たちも、「暗闇ってやだなぁ。怖いなぁ」と、誰でも思ったことでしょう。イエスさまも、暗闇の中を歩くことがどれほど危なく、怖いことなのかご存知なのだと思います。

でも、イエスさまは、「わたしに従う者は暗闇の中を歩かない」と仰いました。イエスさまについて行く人は、暗闇の中を歩かないというのです。ということは、反対に、イエスさまに従わない人、イエスさまの方に向かって行き、イエスさまの後ろをついて行かない人は、真っ暗闇の中にいるということです。真っ暗闇は、本当に怖いです。恐ろしいです。危ないのです。実に、イエスさまは、僕たち私たちが生きているこの世界のことを、そんな恐ろしい場所なんだと見ておられるのです。

 今日は、キャンプに行く日でした。初めての場所です。実は、先生も道はよく知っていません。でも、準備をされた先生が、しっかりと先に調べてくださったので、地図もあり、だいたい分かります。旭高原少年自然の家と言うところです。僕たち私たちはそこへ行くはずでした。目的地がしっかり分かっているわけですね。キャンプに行こうとしても、もしも、どこに行けばよいのか、その行く道が分からなければ、キャンプを楽しむことはできませんね。

 イエスさまは仰いました。「わたしは世の光である。」このイエスさまの光を注がれないままの人は、自分がどこにいるのか分かりません。真っ暗闇のなかでは、自分の体だって見えないのです。友達の顔も見えません。すべて見えません。どこに行くと安全なのかも分かりません。生きている意味が分かりません。イエスさまはこのようなことも仰いました。「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。」

イエスさまは、ご自分が父なる神さまのところから来て、父なる神さまの天国に行かれることを知っておられます。ご自分のことをよくご存知です。ところが、イエスさまを信じていない人は、イエスさまが神さまの御子で、何のために地上に来られて、そしてまた天国へと戻ってゆかれるのかが分かりません。イエスさまの命の光を浴びないと、分かりません。そして、これが大切ですが、イエスさまの光を浴びないと、その人自身も、自分がどこから来て、どこへ行くのか分かりません。何のために生まれてきて、何をすることがこの人生で大切なのか、生まれてきた意味、生きがいが分かりません。そのように生きる意味や目的が分からないままの人は、暗闇の中にいるということです。命の光をもっていないということなのです。

 子どもカテキズムの問い一をもう一度見てください。私たちが生きるのは、わたしたちの神さまを知り、神さまを喜び、神さまの栄光をあらわすためです。
このことが分からないのは、イエスさまを知らないからです。イエスさまを信じていないからです。イエスさまを信じると、従ってゆくと、イエスさまの命の光を浴びて分かるのです。だんだん分かってきます。子どもは子どもなりに、少しずつ分かってきます。

 イエスさまがどこから来て、どこへ行くのかが分かった人は、そのとき一緒に分かるのです。それは、あなたがどこから来て、どこへ行くのかということです。あなたも、神さまから命を与えられて、天国へと行くのです。イエスさまについて行く人、命の方へ行く人は、イエスさまと一緒に天国までついて行けるのです。それが、イエスさまが仰った「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」という御言葉の意味です。命の光を持っている人は、安心してください。暗闇の中を歩かないのです。イエスさまは仰いました。「わたしも後ろをついて来れば、絶対大丈夫です。明るい光に照らされて、明るいところへ行くのです。喜びの場所に行けます。神さまの命を持って、天国へ行けます。」イエスさまを信じている僕たち私たちは、どれほど幸せな人間でしょうか。

 皆も知っていることと思いますが、動物の命は、心臓が動いているかどうかが最後のぎりぎりの部分です。心臓の動きが止まってしまったら、死んでしまいます。動かなくなります。体の死です。でも、人間の命には、体の命、心臓が動くかどうかだけが大切なのではありません。もっと大切な命があるのです。

 イエスさまが暗闇と見られる世界は、どんな世界なのでしょうか。それは、神さまを信じない世界のことです。神さまを認めない世界のことです。神さまを認めないで、生きるとき、人間には、一番大切な命、神さまの命を失っているのです。

 本当の命とは、神さまのものです。命を持っているのは、命をおつくりになられる神さまだけです。それを与えたり、奪ったりすることができるのは神さまだけなのです。その命は、神さまの命です。
その命を、人間に取り戻す為に、イエスさまがこの地上に来てくださいました。初めの人間のアダムさんは、この神さまの命を持っていました。ところが、悪魔に誘惑され、神さまに従わず、神さまに罪を犯したので、この命を失ってしまったのです。神さまの光の外に自分で出てしまって、暗闇へと従って行ってしまったのです。

 でも、天の父なる神さまは、そのような人間を、仕方がないと諦めて、お捨てになってしまったのではありません。わたしたちをもう一度、命の光を与えようと、この世界に命の光を与えてくださったのです。それが、イエスさまです。イエスさまによって、イエスさまを信じることによって、僕たち私たちには、本物の命、たとえ心臓が止まっても、なくならない神さまの命が与えられるのです。

 「人生一寸先は闇」と言う言葉があります。先週のお祈り会のとき、教会の仲間からこんな楽しいお話を聞いて、大笑いしてしまいました。先週の週報に、先生は、「人生一寸先は闇」と言う言葉を書きました。それは、先々週に、教会のお仕事で車に乗っていたとき、赤信号で待っている先生の車に、ブレーキもかけずに追突されてしまったのです。まさか、停まっている車に、ぶつけられてしまうなどとは、考えもしませんでした。そこで、わたしたちの人生は、何か起こるかわからないということになって、多くの人たちは、その何が起こるかわからない未来のことを闇と、不安に思うわけです。けれども、先生は、こう書きました。イエスさまを信じている人の人生は、最後は、かならず明るい。それは、天国がゴールだからということを書いたのです。その文章を、家族で読んだのだそうです。すると、教会にまだ来ていないお父さんが、「何が書いてあるのか。よく分からない」と、そう仰ったそうです。そのとき、小学生のお友達が、「素人には分からないんだよ」と答えたそうです。声をあげて笑ってしまいました。素人という言葉が面白く感じたのです。何よりも、本当に心の底から嬉しく思いました。どうしてか。それは、そのお友達が、イエスさまをしっかり信じているからです。そして小学生のお友達は、素人ではありません。素人の反対の言葉は専門家です。プロです。お友達は、イエスさまの専門家なのです。そして、ここにいる僕たち私たちも、同じなのです。小さな子どもでも、イエスさまを信じている人は、天国の学者さんなのです。

 イエスさまを信じている人は、イエスさまがどこから来て、どこへ行くのか、行かれたのか知っています。そして、自分もどこへ行くのか知っています。イエスさまのおられる天国がゴールで、そこに必ず行けるのです。そして、今は、こうして礼拝式の真ん中で、イエスさまの命の光を浴びながら、神さまの子どもとして、ここにいる教会の皆さんと一緒に、仲間たちと一緒に、そしてイエスさまと一緒に、イエスさまのおられるところ、父なる神さまのおられるところ、天国を目指して歩んでいるのです。

 そのことを教えてもらった僕たち私たちはなんと幸せなのでしょう。イエスさまが世の光、人間の命の光です。その命の光を信じている僕たち私たちは、命の光を持っているのです。その光を自分だけ持っているわけには行きません。学者の人、専門家の人は、自分のためだけに生きていてはいけないのです。それを多くの人たちにわけてあげるべきです。イエスさまを信じている人たちは、どうしたら、自分に与えられた命の光を、多くの人たちに分けてあげられるか考える人です。そしてそれを実行する人です。

 キャンプには行けませんでしたが、お友達を誘ってキャンプに行けることを楽しみにしていたお友達も、また来週の日曜学校に誘ってください。そして、これからも、イエスさまの命の光を、この教会で、礼拝式で一緒に浴びましょう。

祈祷
天のお父さま、僕たち私たちに命の光を与えてくださいましたことを感謝します。僕たち私たちは、イエスさまを信じイエスさまに従って、イエスさまとともに天国の道を歩みます。そのために、来週も、日曜学校に来させてください。毎日、お祈りできるように助けてください。夏休みが始まろうとしています。楽しい夏休みとしてください。