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「神の平和をつくる援助者、協力者」

「神の平和をつくる援助者、協力者」
2008年10月5日
聖書朗読 ローマの信徒への手紙 第16章1-16節

「ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します。どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。
キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。また、彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えてください。わたしの愛するエパイネトによろしく。彼はアジア州でキリストに献げられた初穂です。あなたがたのために非常に苦労したマリアによろしく。わたしの同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアスによろしく。この二人は使徒たちの中で目立っており、わたしより前にキリストを信じる者になりました。 主に結ばれている愛するアンプリアトによろしく。 わたしたちの協力者としてキリストに仕えているウルバノ、および、わたしの愛するスタキスによろしく。 真のキリスト信者アペレによろしく。アリストブロ家の人々によろしく。 わたしの同胞ヘロディオンによろしく。ナルキソ家の中で主を信じている人々によろしく。 主のために苦労して働いているトリファイナとトリフォサによろしく。主のために非常に苦労した愛するペルシスによろしく。 主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。 アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、および彼らと一緒にいる兄弟たちによろしく。 フィロロゴとユリアに、ネレウスとその姉妹、またオリンパ、そして彼らと一緒にいる聖なる者たち一同によろしく。 あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストのすべての教会があなたがたによろしくと言っています。」

10月の第一主日を迎えました。聖餐を祝う礼拝式です。いよいよ、秋が深まって参りました。
ローマの信徒への手紙の講解説教も、ついに、最後の章を読みました。長い挨拶の文章が続きます。途中では、区切れないと思いますので、すべて読みました。長い、とても長い挨拶の文章が続きます。皆様は、この箇所をどのように読んで来られたでしょうか。ある意味では、無味乾燥のように読み飛ばして来られたのではないかと思います。そもそも、ここには、大勢の人の名前が記されています。26人もの人名、夫婦、兄弟を合わせると28人分の名前が記されます。ところが、そのほとんどは、無名の人々です。ローマの教会員であることは分かりますが、ほとんどの名前が、ここに初めて登場して、それだけの方々です。

どうしてやがて2000年もの長きに渡って、読み継がれる聖書の中に、収められたのか、少なくともこの箇所は、カットしても良いのではないか、そんな素朴な疑問を抱かれる方も、もしかすると、おられるかもしれません。要するに、ここに記されている人々は、当時の人々、しかも当事者以外は、無味乾燥なことではないか。そのような文章のように読み飛ばされやすいと思います。

 さて、私どもは、この手紙の主題を「神の平和の福音」として捉えてまいりました。そもそも、平和とは、それぞれ違う者がしかし、その違いが対立として仲たがいするのではなく、その違いはそのまま、しかし、一つに固く結ばれている状態、平安な状態のことでありましょう。使徒パウロは、平和の源なる神と、私どもの神を言い表しています。私どもの神は、父と子と聖霊の一人の神にていましたもう、生ける神です。三一の神です。父と子と聖霊は、それぞれ別の人格を持ちながら、しかし、一つに結ばれて離れることがありません。別々になったり、反発しあったりすることはありません。愛の絆で、一つです。平和とは、まさにこの神の愛の交わり、聖なる交わりの中に実現しているものなのであります。そして、神は、まさに御自身の平和にあずからせる為に、私ども人間を創造してくださいました。ところが、人間は、その平和を罪によって破壊し、平和を失ってしまいました。そこで、神は、御子イエス・キリストを、私どもの贖いの代価としてお送り下さり、十字架についてくださることによって、神との関係を正し、平和を実現してくださったのです。さらに、この平和は、具体的な平和であって、神は、御子イエス・キリストの教会をこの地上にお立てくださり、神の平和を具体的に構築するために、神の平和の支配、つまり神の国の地上における拠点としてキリストの教会を建ててくださいました。

その神の平和とその実りである教会は、平和の福音の宣教によって、形成されることを学んで参りました。そして、それが、分かりますと、この何気ない終わりの挨拶の言葉もまた、実に、この神の平和の福音という主題が貫かれていることに驚かされるほどかと思います。

さて、改めて読んでまいりましょう。「ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します。どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。」ケンクレアイの教会の奉仕者、これまでの翻訳では、執事となっていましたが、フェべという婦人のことが記されます。

ケンクレアイという場所は、第二回目のパウロの世界伝道旅行の際に、立ち寄った場所です。コリントの港町の南東にある町、隣町です。この手紙を書いているのは、おそらくコリント教会でしょうから、おそらくケンクレアイからコリントに向かったのだと思います。そこで、ケンクレアイ教会の女性執事、フェべとの出会いがあったようです。この女性執事フェべは、パウロに先立って、ローマ教会を訪ねようとしているわけです。ある学者は、このフェべこそは、他ならないこのパウロ先生の手紙を、送り届ける人であったであろうと申します。それは、まったくありえることです。そうであればこそ、このフェベを、ローマ教会がどれほど歓迎したことであっただろうかと思います。彼女が、使徒パウロの手紙を持ち運び、おそらく主の日の礼拝式に、ローマの都に散在するキリスト者たちが、一同に集ったことでしょう。そこで、いつもの教会の指導者、長老が、この手紙を大きな声で朗読していったでしょう。その横には、おそらく、フェベも座っていたのではないでしょうか。そして、この手紙で、自分のことが読み上げられるのを聴いて、フェベはどんな思いになったことでしょう。

ここにも、使徒パウロの牧者としての配慮、優しさがあります。ここで女性が用いられること、これは、今日の私どもにとって、あまり関心が払われないのでしたら、それは、むしろ、喜ばしいことなのかもしれませ。なぜなら、これほどまでに、重要な務めを、女性の執事が担っていることを、それも当たり前であると思うのなら、それは、私どもが、2000年の教会の歩みを経ているからでしょう。2000年前、女性が大切な仕事を担う、あるいは、男性を押しのけるように仕事を担うなどということは、考えられませんでした。教会の歴史のなかでは、女性が軽んじられてきたことは、明らかな事実であると思います。これほど、恥ずべき事はないと思うほど、もしかするとどの社会よりも、キリスト教の中で、実は、女性の存在は、長く軽んじられてきたのです。それに対しては、むしろ、この世の人権感覚の方が、敏感であったとの批判を、私どもは真実に受けなければならないと思います。ただし、それは、教会の歴史のなかでの過ち、弱さであって、聖書の中にそれを読み込むことは、これは行き過ぎです。神は、人間を男と女とに創造されました。女性は、男性の助け手として創造されました。聖書によれば、女性なしに男性なしです。その逆もまたしかりです。お互いを必要とし、二人で一体。男と女とで、神の形なのです。パートナーということばは、それに近いと思います。主イエスのそばには、女性の弟子たちがおりました。主イエスがどれほど、女性を重んじておられたかは、福音書を読めば、明らかであります。それは、女性を劣るものと考えていたユダヤ教や当時の世界観のなかで、まさに画期的なことでした。

最初の教会のなかで、教会の役員として女性がおりました。この執事フェベの存在は、大きなことであります。いったい、パウロの手紙を持ち運ぶにふさわしい人ということは、何を意味するのでしょうか。このフェベは、ローマに友人、知人がいて、行きなれているのでしょうか。これは、考えられません。そうであれば、わざわざ「あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。」とは書かないと思います。あるいは、彼女は、世の中のもろもろのことに長けていて、女手一つで、ローマまで旅行できるような人物として認められていたのでしょうか。教会の執事的奉仕を担うだけに、このことは、十分に考えられます。

しかし、わたしはこのように考え、想像するのです。わたしはこの教会でも何度か、このような説教をしました。「わたしたちは愛の手紙」というものです。愛の手紙とは、古より、聖書そのものを意味しました。新約聖書は、特に、三分の二は、手紙ですが、すべての書物は、神からの愛の手紙なのです。福音とは、神からの愛の言葉です。その福音が記されている故に、27の各書物は、すべて愛の手紙です。そして、その手紙を読んだ者たち、この手紙を聴き取った者たちは、福音を信じ、主イエス・キリストを信じて、救われます。そして救われた者たちは、今度は、その全存在が、隣人に対して愛の手紙とされていると学びました。教会そのものが、天国からの愛の手紙そのもので、読まれることを期待し、読めるように整えるべき共同体です。教会を構成しているキリスト者一人ひとりが手紙です。つまり、フェベという一人の姉妹は、パウロの助け手、援助者となりました。ケンクレヤの教会の代表者、使徒パウロが語った福音によって、福音の奉仕者に変えられた人です。そして、何よりも彼女こそは、使徒パウロによって送り出された愛の手紙そのものでもあったのではないでしょうか。彼女が、福音の生き証人なのです。存在が手紙なのです。そのような姉妹が、使徒パウロの手紙を、身をもって送り届けてくれたのです。ですから、パウロにとって彼女を受け入れることは、自分を受け入れてくれることと、一つのことであったでしょう。「どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ」

先週の全体研修会で、一人の委員が発題をされました。かつては、他教会で生活をなさっておられたのでした。しかし、時いたり、私どもの教会に加入することを志願されました。そのために、学びのときを何度か重ねました。私どもは、同じ日本キリスト改革派教会からの転入志願者と言えども、ただ、機械的に受け入れるのではなく、私どもの教会の歩みや志について、確認を求めて参りました。何よりも洗礼入会志願者とは、長ければ1年にも及んで、準備のときを持ちます。教会に受け入れる、この交わりに受け入れるということは、キリストにある平和の絆で結び合わされることです。そして、信仰と志を一つにして、ここで教会生活をし、教会形成に参与するのです。教会の平和の交わりへと招きいれられたということです。

フィリピの信徒への手紙第4章3節以下にこうあります。「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」主は一人、信仰は一つ、洗礼も一つということばは、明らかに当時の教会の信仰告白が反映しています。今、ローマの教会がフェベを受け入れるなら、それは、ケンクレアイの教会とローマの教会とが、キリストにあって一つの体であることを受け入れることになります。そうなりますと、これは、地方にある教会と教会とが、平和の絆で結ばれることに他なりません。一人の姉妹を受け入れることは、この場合は、さらに大きな意味を持ちました。中部中会が高神派の東釜山老会との交わりを始めていますが、相互の訪問がなされていることも、教会の平和の交わりを具体的に進めることであります。ここでも、使徒パウロは、平和の福音が、教会の交わりを育み、平和を拡大することに結実することを信じ、それを、具体的にこのような仕方で成し遂げているわけであります。

次に、3節です。ここでは、キリスト者夫妻が登場します。大変有名な信徒夫妻です。この人たちの名前は、使徒たちの次くらいに、当時の諸教会に知れ渡っていたのかもしれません。しかし、彼らは、信徒であります。この二人のことについて語り始められば、少なくとも一回の説教では足らないくらいです。使徒パウロとこの二人との出会いは、使徒言行録第18章に記されています。「ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。」

この二人は、その後、パウロの伝道旅行に伴って行きます。一つの忘れがたいエピソードについては、どうしてもご紹介しておきたいと思います。「さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。」

このユダヤ人キリスト者アキラたちは、アポロという大変雄弁な伝道者を家庭に招いて、もっと性格に神の道を、つまり教理を教えたのです。すると、このアポロは、これを受け入れ、いよいよ豊かな福音の伝道者になります。一言で申しますと、このアキラとプリスキラ夫妻は、キリスト者夫妻の鑑です。クリスチャンホームの模範、モデルです。どれほど、この二人の存在で、伝道者たちが助けられたことでしょうか。詳しい事は、分かりませんが、パウロはここでこう申します。「命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。」命がけで守ってくれた人です。命の恩人なのです。

しかもこれは、おそらく一人使徒パウロだけのために、していたのではなく、神がその福音のために立てられた器であれば、福音のためとあらば、誰彼となく、助けたのでしょう。「異邦人のすべての教会が感謝しています。」
これは、お世辞でもなんでもない。ユダヤ人キリスト者アキラが、異邦人伝道の推進者となっているのです。すでに、そこに、福音にあって、ユダヤ人とギリシア人の隔ての壁が見事に崩されている姿を見ることができます。まさにこの夫妻は、その存在と行為自体が、平和の福音の体現者たちなのです。平和の福音モデルです。見本です。作品です。

私は、このようなクリスチャンホームが増えることを、心から祈り求めます。伝道者が献身することは当たり前と言えば当たり前です。しかし、キリスト者の家庭、夫婦が献身する、教会のために、福音伝道音ためにその生活を集中しているのです。
わたしもまた、そのようなキリスト者夫妻を知っております。平和の福音の伝道の為に、集中するのです。私どもの教会もその方々の祈りと支援を受けて、今日まで歩んでまいりました。個人の名前は控えますが、私どもの教会からもそのようなカップルが一組、二組と育つこと、これが、名古屋岩の上伝道所の堅固な礎となることは、明らかです。パウロは喜びをかみ締めて、彼らをこのように紹介しています。「キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者」実に光栄な、誇らしい紹介ではないでしょうか。この手紙をもちろん、彼らも、会衆の中の一人として聴き続けたと思います。すると、その最後のところで、突然、自分たちの名前が名指して紹介されるのです。ローマの教会で、どの程度、生活していたのかは分かりませんが、彼らは、キリスト・イエスに結ばれた人、フェベと同じように、主に結ばれているのです。要するにキリスト者です。洗礼を受けた人です。しかもここでは、使徒パウロの「協力者」です。

フェベは、援助者と紹介されました。ここでは、とりわけ女性の賜物が際立つように思います。援助者とは、助ける人です。今、パウロ先生に何が必要なのか、また教会員の中に、助けを必要としている人は誰か。そしてそれは、具体的に、どのような助けなのか。まさに、執事の務めです。ですから、他の二つの翻訳では、単にケンクレアイ教会の奉仕者とするのではなく、執事と訳したのは、間違いではないと思うのです。助け人、援助者です。

それなら、協力者とは、どのような人でしょうか。これも他の翻訳では、「同労者」でした。パウロは、世界的な伝道者、使徒です。しかし、プリスカとアキラとは、信徒です。しかし、ここでパウロは、職務の違いはありながら、彼らのことを、同労者、共に福音のために働く者と認識しています。

先週も学びましたテサロニケの信徒への手紙一は、パウロ、シルワノ、テモテの三人の連署による手紙でした。シルワノもテモテも同じ伝道者です。伝道チームです。しかし、プリスカとアキラとは、信徒です。しかし、同じ働き人として理解するのです。そこにもまた、平和の福音があります。職務の違いはありますが、働きの質の違い、差別はないのです。信徒として献身しているなら、伝道者として献身している者と、神の御前に、同じように、尊い使命を担っている、共同の働き人、同労者、協力者なのです。

さて、余計なことかもしれませんが、使徒パウロは、ここで、プリスカとアキラと申しました。すぐにお気づきと思います。奥さま、ご夫人の方を先に記しているのです。これは、兄弟たちにお尋ねしますが、今日の私どもであっても、このように手紙に記されたら、どんな気持ちがするでしょうか。わたしも、自分の手紙で、あえてこのように書いた記憶がありません。一度もないのではないかと思うのです。先ず、夫の名前を書いて、その右か、下にご婦人のお名前を記す、これは、常識ではないか、つまり、礼儀ではないかと思います。男女平等だとか、共同参画をうたっている時代であっても、であります。

想像してみてください、今から2000年前です。あらゆる領域で、それはローマ帝国であってもユダヤの社会であっても、女性と子どもの人権などは、考えられない時代です。ガラテヤの信徒への手紙第3章において使徒パウロはこう言いました。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」

ここにもキリストの福音の実りがあります。ユダヤ人とギリシア人の別なく、誰でも主イエス・キリストによって、彼に結び合わされたなら、信仰によって、洗礼を受けることによって、一つとされるのです。つまり、平和の交わりが実現するのです。男性も女性も、その差別は撤廃されています。このように心底から信じ、考えるから、パウロは、あえてプリスカさん。プリスカ姉妹を最初に呼んだのではないでしょうか。そして、この夫婦もまた、特に、ここでは、ご主人は、妻プリスカの名前を最初に記したパウロ先生に、躓くのではなく、むしろ誇らしく思ったのではないでしょうか。

さて、この夫妻は、パウロに先立って、ローマの教会におります。先ほども読みましたが彼らは、「クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから(コリントに)来た」わけです。コリントの教会で、使徒パウロと出会い、コリント教会の開拓伝道を共に担ったのです。その彼は、もともといたローマに戻ります。すでにそこにも、命をかけてパウロを守った彼らの信仰を見ます。自分たちもまた、クラウディウス皇帝の政策に、対抗して、戻っているのです。これは、パウロの先回りをしたと見ることも許されるかもしれません。彼らに子どもたちがいなかったのか、いてもすでに成人していたのか。テント造りと言う技術者ですから、腕一本で生活の基盤を整えられたからでもありましょう。しかし、彼らは、身軽に、福音宣教のために、旅をします。天国を目指した旅人です。そこにも、私どもキリスト者の模範を見ます。

そしてまた、フェベも同じでしょう。彼女は、ケンクレアイの教会の務め人、執事です。しかし、旅をするのです。はるかローマを目指して、この重大な、どれほど重大であるか、キリスト教の歴史を考えれば、直ちに分かりますが、この手紙を確実に持ち運んだ旅人です。

私どもは、この町を生活基盤にして、この教会を堅固なキリストの教会とすべく、励んでいます。しかし、この町に骨を埋める覚悟も、あるいは外に出て行くことも、いずれにしろ、私どもの志は、ただ神の栄光のために、福音のためです。この夫婦も、フェベも、召されて、世界を旅しながら、使徒パウロの同労者となって、天国を目指し、それゆえに、天国の地上における現われとしての教会を世界中に開拓しながら、平和の福音の証しに励んでいるのです。他ならないパウロこそは、このような援助者、協力者に囲まれ、彼らに励まされ、命をかけて、旅をした人であります。
私どもの先輩たちのこの心燃やされる生き方を、私どもの教会の中にも主が植えつけてくださいますように。

祈祷
父と子と聖霊の交わりにおいて今生きておられる唯一の神よ、三つにいましてただお一人の神よ、あなたの聖なる交わり、愛の交わりこそは、私どもの平和の根拠であります。そこにこそ、真の、永遠の平和があります。あなたは、その平和の中に、私どもを招いてくださいました。今や、御子、主イエス・キリストに結ばれ、私どもも、あなたの平和、まさに平和の源なる神の祝福にあふれるほどあずかっています。そして、あなたは、そのような私どもが、地上にあって、主はお一人、信仰は一つ、洗礼も一つと、信仰の告白において一つとされる教会の交わりの中に、私どもは招き入れてくださいました。あなたの教会こそは、地上におけるあなたの平和の拠点に他なりません。その平和が、いよいよ教会において実現いたしますように。一人ひとりのさまざまな賜物と奉仕が、教会の交わりを作ります。私どももまた、あのフェベのように、あのキリスト者夫妻のように、教会に生き、教会の交わりを建てあげる奉仕者、援助者としてくださいませ。今、分れ分れになり、かつてのような一つの教会になることができずにいる世界中の教会が、常に、最初の教会、聖書の教会の姿に学び、地上において、平和を構築する力を発揮できますように。アーメン