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「平和をつくり出す、信仰の従順」

「平和をつくり出す、信仰の従順」
2008年11月9日
聖書朗読 ローマの信徒への手紙 第16章17-19節

「兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。
こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。
あなたがたの従順は皆に知られています。だから、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。」

9月からのローマの信徒への手紙の講解説教を振り返りますと、ほとんどの説教題に「平和」がつけられています。今、祈祷会でローマの信徒への手紙の全体像を丁寧におさらいしています。全体の主題を「平和」として学んでおります。
今週の週報にも記しましたが、先週、久しぶりにひとりの兄弟の病床をお訪ねいたしました。「類天疱瘡」という病気にかかられたとのことを伺って、急遽、翌日にお訪ねしました。結果は、快方に向かっておられるとのことで感謝いたしました。どのような病気なのか。詳しくは分かりませんが、何かの原因で、悪い菌ではなく、自分自身の細胞を攻撃して、水膨れを起こしてしまうということのようです。細菌に感染しないように、それに戦う抗体ウイルスを人間は、自分の体のなかで作ったり、摂取するのだと思います。ところが、攻撃すべき敵ではなく、自分自身を攻撃してしまうということが、起こるのです。それが、病気であります。わたしはそこで改めて、平和の問題を思わざるを得ませんでした。つまり、人間の肉体においてもまた、自分自身のなかで平和がないと、病んでしまうということです。自分のなかで、平和、調和がとれていないと大変なのです。
例えば、夜、眠りたいのだけれど眠れない。これは、実につらいことでありましょう。自分のなかに、もうひとりの自分がいて、自分に攻撃をしかけてくる。自分のなかのバランスが崩れる。それは、自分と言う肉体の平和が崩れ、混乱する、破壊される、肉体の死に至る場合もあるわけです。医師とは、その意味で、人間の肉体や精神の平和を構築する助け手でありましょう。
このように人間という存在は、その全存在において、根源的に平和を求めています。根本的に平和を欲しています。徹底的に、平和に恋焦がれるのです。平和なしに生きられないのです。
それなら、その平和の源とはどこにあるのでしょうか。何にあるのでしょうか。聖書こそが、聖書だけが、その所在、在りかを明らかにしています。私どもの本物の救いは、聖書のみ言葉の中にあります。聖書のみ言葉とは、神のみ言葉です。神からの言葉が記されたのです。神のみ声に私どもの救いがあります。つまり、神ご自身に救いがあります。
使徒パウロは、この手紙の最後の箇所で、満を持して、この時を待っていたかのように、第15章の結びの言葉、言わば、この手紙の内容についての最後の言葉、祝福の言葉のなかで用います。「平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。」
使徒パウロは、真の神をこのようにお呼びしました。「平和の源なる神」つまり、この手紙の主題、テーマは、私どもの救いとは、神の平和の中に招き入れられることであり、それは、神の教会の交わりの中に招き入れられることであり、その教会を通して世界に救いがもたらされる、そしてこの平和は、神の国が地上に完成されるとき、究極的に成就することが明らかにされているわけです。そうであれば、旧約聖書と新約聖書の救いの歴史、全聖書の内容そのものです。今朝、私どもは、他のどこでもなく、教会にいます。神様の教会の中にいます。神が共にいてくださり、私どもに神の平和、神さまとの間に平和の関係を与えられ、その結果として、その実りとして私どもの内側に平和を与え、その平和は、私どもお互いの間にも平和を作り出し、与えてくださいます。kの神の平和の中に、深く入ること、あずかることこそが、私どもの救いなのです。神の平和を、今朝、深く、心の中に、いへ、体の中にさへ受け入れたいと願います。今朝、ここにお招きくださったおひとり、一人の上に、神の平和が実現いたしますように。アーメン。

さて、今朝、与えられているテキストは、17節以下です。これまで、使徒パウロがひとり一人の名前を、心を込めて呼んで、神の祝福を告げました。どうしてそうしているのか、そうする必要があるのか、その一つの、しかも現実的な理由がここに明らかにされている、そのように読むことができると思います。「兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。」
使徒パウロは、教会にいくつも手紙を書きました。もともと、自分の手紙が聖書になること、新約聖書という書物の中に収められることなどまったく予想していなかったはずです。最近も、わたしはある方に手紙を書き送りました。あるキリスト者に向けて書き送りました。それは、具体的な目標を持つ手紙です。言わば、牧会の手紙です。
先週、寸暇を惜しんで、大会の機関誌リジョイスの聖書日課のために、ガラテヤの信徒への手紙の日課の執筆にも取り組みました。このガラテヤの信徒への手紙は、まさに戦いの手紙です。初めの挨拶が済むやいなや、目も覚めるような激しい言葉が繰り出されます。「しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。」「呪われるがよい。」と、神の最終的な、究極の刑罰の宣告を告げているのです。
私どもはローマの信徒への手紙において、「よろしく」「よろしく」「神の平和があるように」「神の祝福があなたにあるように」と心を込めて、神の祝福を告げるパウロを見てまいりました。それだけに、この厳しい言葉に目もくらむような思いがいたします。
そもそもガラテヤの教会は、使徒パウロが開拓伝道して建て上げられた教会です。ところがパウロが立ち去った後、すぐに、偽の伝道者、ユダヤ主義伝道者がやってきて、パウロの福音を覆す教えを語り始めました。異邦人からキリスト者になった兄弟姉妹たちに、割礼を受けることを勧めたのです。割礼を受けてユダヤ人になって、それからイエスさまの洗礼を受けて、神の民になることができると言ったのです。割礼は大切である。割礼は、これまでどおり受けなければならない、まあ、言わばただそれだけのことです。しかし、パウロにとっては、それは、福音の全体を壊してしまうことなのです。恵みのみによって救われる。ただ信仰によってのみ救われる、これが聖書の教え、福音です。そこに1パーセントでも、人間の行いが必要とされるなら、そのときは、福音ではなくなるのです。それくらいのことで「呪われなさい」などと、愛のないことは言わない方がよいと考える人は、まさに神の恵みを無駄にする。無視する人なのです。使徒パウロにとって、つまり、聖書にとってそれは、絶対に許してはならない、見逃してはならない、偽り、偽物なのです。
どうして、-あえてここでは小さなと申しておきますが-、割礼を受けるかどうかという小さなことに対して、まなじりをあげて、それこそ、その人の永遠を決定する最後の言葉、断罪の言葉を宣言するのでしょうか。宣告しなければならないのでしょうか。それは例えば、巨大な船であっても、船底に小さな穴が開いていれば、浸水してしまうのと同じです。巨大な旅客機でも胴体か翼かに、小さな傷があれば、墜落してしまうことと同じです。
教会にとって、いったい何が生命線になるのでしょうか。それほどまでに、気をつけなければならないこととは何でしょうか。それは、教会の教え、教理の純粋さです。それがあいまいになるとき、教会は、命を失うのです。教会の命を失うとは、どういうことなのでしょうか。それは、いくつも具体的な例を挙げることができるでしょうが、ここでは、ただ一つのことだけを申します。それこそが、平和です。平和を失うのです。神の教会でありながら、平和を失うのです。そうなるとやがて沈没、墜落、つまり教会でなくなってしまうのです。
ローマの教会には、おそらくは、まだなかったのではないかと思います。しかし、使徒パウロが訪問したら、違ってくるはずと思います。なぜなら、偽りの伝道者たちは、実に、パウロの後を追いかけるからです。パウロの伝道の後に、やってきて、パウロの福音を覆すことが彼らの企て、企みだからです。ですからここでパウロは、それらを見越すようにして、前もって、警戒を呼びかけているとも読めます。
「あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。」学んだ教え、聖書の教え、教会の教え、教理に反することを教える指導者がいる。その教えを拒絶する人と、その教えにだまされて、彼らの仲間に加わる者も起こるのです。福音の内容によって、平和が構築されるか、平和が破壊されるか、決してしまう。そこに、私ども教会の耐えざる緊張があります。だからこそ、私どもの教会は、そのような偽りに右往左往させられないように、制度としての教会の形成を徹底して重んじているわけです。これを軽く考えるとき、それは、実は、霊的な教会であろうとすること、教会の生命そのものを、実際は軽んじているのです。
彼ら偽りの伝道者たちは、不和や躓きをあたえるために、偽りの教えを語っているのではないかもしれません。むしろ、彼らは、彼らの信じる信念に誠実に、あるいは、自分たちの割礼を受けることこそが、旧約聖書以来の、神の民の当然守るべきことであって、ユダヤ人パウロという伝道者は極端に過ぎる、極端なことを言って、人々の注目を集めていても、それは、神の御心ではない、聖書の教えを覆す、パウロこそ、異邦人に気に入られるように、神さまをないがしろにしている、不届きなやからであると、心から考えていたのかもしれません。しかし、福音の真理に反することを、教会で教えるなら、結局は、神の教会は形成されないのです。人間の宗教的な共同体、宗教団体は立ち上がるかもしれませんが、それと神の教会、キリストの教会とは、似てはいても、異質なものとなるはずです。たとえば、エホバの証人と私どもとは、聖書を用いているから同じキリスト教の一派かと、傍目に見られるかもしれませんが、その中身はまったく違います。そしてその将来は、決定的に違います。まったく重なりません。神との平和、神との交わりが成り立っていないからです。
パウロは、「彼らから遠ざかりなさい。」と勧めます。交わりをもってはならないというのです。例えば、この教会宛に告げられた言葉が、しかし、エホバの証人の方がたも、自分たちの立場を擁護するために、まさにこのみ言葉を利用します。
エホバの証人になれば、決して、キリスト教会の文書を読んではならないとするのです。その情報を完全に遮断するのです。彼らにとって、例えば、私どもの発行する文書を読んだら、それを霊的な姦淫として、処分、処罰されます。ですから一度、エホバの証人になれば、私どもの伝道が届かなくなります。そして彼らは、キリストの教会を徹底的に攻撃し、批判し、教会は悪魔の会堂、サタンの集会であると、その文書で批判し続けます。
私どもは、遠ざかるということを、一切の情報を遮断するというようには捉えません。皆さんは、これまで、教会で一度も、禁書というようなことを聞いたことがないはずです。読んではいけない本のリストなど、掲げたことはありません。むしろ、余裕があれば、エホバの証人の教えを私どもは知るべきです。伝道のためにです。ただし、彼らの話を、この場所で語らせるわけにはまいりません。それが、遠ざかるということの意味なのです。当たり前のことでしょう。この説教卓で語ることは、ありえないのです。

さて、もとより、このときには、エホバの証人と宗教団体はありません。しかし、キリストは神ではないという異端は、既にありました。使徒パウロは、今ここで「学んだ教えに反する」教えとはいかなる教えであるのかについては、語りません。しかし、その本質について明らかにします。
「こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。」
先週は、世界史的な事件がありました。次期第四十四代、アメリカ大統領に黒人として初めて選出されました。勝利の決定的要因の一つは、素人目にもオバマ氏の、人々の心を動かす演説にあるのは明らかであろうと思います。ある新聞は、まるで伝道師のようだと紹介しました。公民権運動を指導したマルチン・ルサー・キング牧師の演説は、その演説だけで20世紀の歴史に刻まれるものでした。その演説のプラスの積み重ねが、オバマ氏を大統領へと持ち上げる力になったのではないかと、わたしは考えます。
さて、何もここで社会時評をするつもりはありません。パウロは、「うまい言葉、へつらいの言葉」なめらかな言葉、甘い言葉と訳します。美辞麗句という言葉がありますが、そのようなことでしょう。日本では、すべての世帯に、給付金を支給するという、これは、美辞麗句のパフォーマンスのように思えます。これを見破ることは、難しくはないでしょう。しかし、言葉の力は、簡単ではありません。もし、人に涙を流させることができたら、人を動かすことは、簡単だと思います。政治の演説、あるいはビジネスでのトーク、歴史のなかで、それらが、犯罪を犯し、騙すために利用され、大きな災いをもたらしたことは、枚挙に暇がありません。またそれは、説教においても同じでしょう。

パウロは、ここで、言います。彼らは、「わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。」自分の腹とは欲望のことです。自分を実現すること、自分の考えを達成させること、自分をリーダーにする。自分の願望を主にしているのです。主キリストに仕えるのではありません。しかし、当然、それをあからさまにしているわけではありません。キリストを、神さまを前面に押し出しながら、しかし、その内側では、神様を利用しながら、自分の腹に、自分の欲望に、自分を主として仕えているわけです。パウロはそのように見破っているのです。

そこでパウロは、言います。「純朴な人々の心を欺いている」「純朴」ということは、悪いことなのでしょうか。これは、一概に、悪いとは言えないと思いますが、いかがでしょうか。むしろ、子どもであれば、純朴であって欲しいと思います。しかし、そのまま成人して行くなら、これは、親としては、逆に心配になるかと思います。それは、騙される可能性があるからでしょう。高校生になっても、サンタの存在を信じていた子どももおります。しかし、それは悪くはないでしょう。なぜなら、サンタクロースは善意だからです。プレゼントを配る人だからです。サンタに憧れれば、やがて、自分が誰かのサンタクロースにならなければならないと考える、そのような可能性があるのではないでしょうか。しかし、子どもの頃から、人々から奪ってでも自分の欲望を満たすこと、満たす人に憧れるのなら、将来、そのような人になってしまう可能性は極めて高いと思います。その子の勉強も努力も、決して、よいものとは言えません。
「善にさとく、悪には疎く」あるべきなのです。しかし、「純朴な人々」が、悪賢い人間に、偽りを言う人間に、騙されることになれば、その純朴さは、ほめられないと思います。我々は、さとくなければ、賢くなければならないのです。
先週、練達のアペレを学びました。真のキリスト信者アペレです。このアペレは、苦難と経験しました。苦難が忍耐を生んだのです。主イエス・キリストに仕える上での苦難です。主のために非常に苦労したのです。しかし、その苦労が、忍耐を生み出し、忍耐を重ねて行くなかで、練達、熟練、成熟、真のキリスト者へと育てて行くのです。そのためには一朝一夕ではない。キリスト者になるのは、ただ主イエス・キリストに救われ、ただ主イエス・キリストの恵みのみで一瞬にして、直ちにキリスト者になるのです。救われるのです。しかし、そこから真へと進む。練達を目指すのです。その練達は、何のための練達かと言えば、平和を構築する練達でしょう。教会の交わりが混乱する。誤解が生じる、相互に不信や、不満が入り込む。そのような所で、そこから逃げださないで、むしろ、矢面に立ってそれを修復させ、関係を新しく、より深く結ばせるために奉仕する、それこそが練達です。まさにここで伝道者、また牧師であるパウロがしていることに他なりません。
長老や執事、そして伝道所委員とは、まさに、そのような人たちのことでしょう。教会の中で、教会の平和のために、奉仕するのです。教会がまさに教理に根ざし、純粋な、正しい福音の真理に生きているかどうかを、いつも関心を注ぎ、そして何よりも自分自身が、その真理に生きること、真理によって生かされている見本となることを願うのです。これまでは批判したり評論することができたかもしれませんが、委員になれば、これは逆転して、批判されたり、誤解されたりする立場に立つことになるわけです。
しかし、そこでこそ大切なことは純朴さであると思います。どの兄弟姉妹にも、純粋に、真実に、優しく、善意をもって向き合うことが、基本的に求められると思います。ただし、それらは、子どものような純朴さでは務まりません。コリントの信徒への手紙一第14章で、パウロはこう書き送りました。「兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。」
日本キリスト改革派教会の政治基準のなかで、治会長老の務めとして、八つ掲げられています。第55条であります。その第一は、こうです。「ゆだねられた群れの中に、教理と道徳の腐敗が生じないように見守ること。」第六と深く共鳴します。「説教の結ぶ実を、注意深く見守ること。」説教が教会の教理、教えからそれるなら、腐敗します。平和が壊れます。ですから、その結実を見守るのです。説教者、牧師に対して、また教会員に対して、そのような見守りが求められます。それは、教会の形成、平和の構築のためです。
純朴さは尊いことですが、しかし、そこで、騙されてはならないのです。主にあっては「純朴」のままでいたいし、いるべきなのです。主イエスさまは、宣言されました。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
たとえばもしも、主に従うとき、そこに計算が入るならどうでしょうか。つまり、従うか従わないかを、自分にとって、自分の今と将来にとって役立つか、自分の願いと計画の妨げにならないか、それを計算して決定するのなら、それは、従ったとしても、自分の腹に仕えていることにしかならないはずです。たとい、牧師になったとしても、同じでしょう。ですから、牧師は、いつも自分が本物かどうかそれを問い続ける必要があるのではないでしょうか。そして、ただ、「憐れんでください。助けてください」と祈ることです。
ローマの信徒への手紙第14章にこうあります。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」私どもキリスト者は、十字架のキリストのみ業で神のもの、キリストに買い戻された者なのです。そこに私どもの人生の主権のありかが定まりました。私どもは今や、信仰の従順によって、キリストの御前に純朴に生きることが、自分の新しい生き方になりました。キリストを主と告白しながら生きることです。神に従って生きることです。神さまから離れない生き方です。神を、生活の中心にすえる生き方です。そしてそこにのみ、神の平和が心の奥底に、さらには体にまで及ぶ道があるのです。ローマの信徒たちは、これまで従順に生きることによって、すでに深く味わっているのです。彼らの信仰の従順さは、他の教会にまで伝えられるほどなのです。ですからパウロはそれを、心から喜んでいます。彼らの信仰が従順であるから、ローマの教会は祝福されているのです。

そもそものおさらいとなりますが、この手紙の冒頭で、その挨拶での自己紹介を思い出してください。「わたしたちはこの方(主イエス・キリスト)により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。」使徒パウロの使命とは、異邦人を信仰の従順へと導き、主イエス・キリストのものとし、そして、彼らに恵みと平和をもたらすことなのです。そして、他ならない私どもは、この主イエス・キリストのものとしていただいたのです。
私どもも、この町にあって、いよいよ主の御前に、純朴に生きたいと願います。つまり、信仰の従順によって生きることへといよいよ進んでまいりたいのです。それは、純朴な幼子のようであってはなりません。この世界には、悪の働きがあり、福音を破壊する悪賢さがあり、キリストに仕えるふりをしながら、自分の欲望を満たそうとする偽りの存在があることを知り、注意を払って生きることです。「善にさとく、悪には疎く」であります。そのように励むことによって、神が打ち建てられた教会の平和をいよいよ堅固なものとし、この教会を通して、この町にも、神の平和が拡大するように励むのであります。ここに、私どもの信仰の従順、神への純朴さによって平和を構築する道があるのです。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、私どもに平和の砦である教会を、この岩の上教会を与えてくださいましたこと、その中に、今、私どもが招き入れられていますこと、そのようにして神の平和にあずからせていただいていますことを、心から感謝いたします。どうぞ、この与えられた平和を壊す者から守ってください。何よりも、あなたから離れたなら、信仰の従順を失ったときには、私ども自身がそれを壊す者に転落することを思います。どうぞ、皆で、励ましあって、福音の真理に堅く踏みとどまり、平和を構築する奉仕者として、教会を建てあげる奉仕者として用いてください。アーメン。