「父ヨセフのクリスマス」
2008年12月21日 降誕祭主日礼拝式
マタイによる福音書第1章18~25節
「 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。
『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。
ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。 」
クリスマス、おめでとうございます。今朝は、クリスマス、降誕祭を祝う礼拝式を捧げています。私どもは、この一年間も毎週、日曜日の朝、ここに招いて下さり、私どもに礼拝することを許して下さる天の父なる神さまから、「おめでとう!」との挨拶を繰り返して受けてまいりました。父なる神の祝福を受け続けて、今日この日まで地上の旅路を歩み続けてまいることが許されました。この一年も、残すところわずかとなりましたが、一人ひとりには、さまざまな試練や悩みをありましたし、今も続いていると思いますが、しかし私どもは、神の祝福を受け続けることができたこのすばらしい恵みの事実を、今、心から感謝したいと思います。神から「おめでとう!」の祝福を受けることが、日曜日の礼拝式で起こっている出来事であります。しかし、そのような私どもの祝福の出来事のまさに源になる出来事、私どもの祝福の根拠となる出来事を、祝うのが、このクリスマス、主イエス・キリストのご降誕のお祝いであります。このクリスマスが起こらなかったら、私どもは祝福されることはなかったからです。神のおめでとうという挨拶は、そらぞらしく、空虚で、実体のないものでしかありません。偽りの祝福でしかありません。しかし、今から2000年ほど前に、イエスさまはお生まれになられたのです。そしてこのイエスさまこそ、キリストなのです。それなら、いったいキリストのご降誕によって何が私どもにもたらされたのでしょうか。神の祝福とはなんでしょうか。それは、私どもの罪が赦され、私どもが神の民となり、神さまが私どもとずっと一緒にいてくださる祝福、永遠に神と離れることのない祝福にあずかるということです。そのような驚くべき祝福が与えられたその根拠となる出来事が起こったのが、主イエス・キリストの誕生、降誕なのです。
さて、降誕祭の朝、私どもは、マタイによる福音書の第1章18節からお読みしました。著者マタイは、この18節で、「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」と、イエス・キリストの誕生の次第を告げ始めます。つまり、それは、私どもの祝福、救いの恵みの発端、私どもの救いの最初の物語を語り始めるわけです。
本日、世界中の教会で、どれほどクリスマスページェント、降誕劇が演じられるかと思います。私どもの日曜学校でも、何度、演じられてきたことでしょうか。その劇の脚本をつくるために用いられるのは、おそらくルカによる福音書が圧倒的に多いと思います。そこには、母となるマリアが登場します。天使たちが登場します。あるいは羊飼いたち、羊も登場します。何よりも肝心かなめの飼い葉おけの中に眠る赤ちゃんのイエスさまが登場します。
ところが、マタイによる福音書には、そのような劇を作れるシーンがない、この箇所を演じることはなかなかないように思います。私どもの教会でも、おそらくこの場面を演じたことはないと思います。ここに登場するのは、母マリアではなく、夫ヨセフです。マタイによる福音書は、このヨセフに集中するのです。そうであれば、私どもの今年の降誕祭は、このヨセフに集中すべきでありましょう。
さて、物語は、こう展開します。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」こやはりここでも第一に登場するのは、母マリアでありその妊娠の事実であります。しかし、その事実が、誰に激しく、厳しい影響を及ぼすのかと申しますと、それは、夫ヨセフ、その人です。マタイによる福音書では、この婚約者ヨセフこそ、このクリスマスの現実に最初の人として登場するのです。しかも、最も、うろたえる人として、登場するのです。私は今、「うろたえる」と申しました。しかし、聖書の中には、ヨセフがうろたえた、と記されているわけではありません。しかし、この箇所を深く読めば、婚約者ヨセフがどれほど激しく動揺したのか、動揺などという言葉では全く足らない、苦悩のどん底に叩き込まれてしまったのかは、明らかであろうと思います。
さて、「夫ヨセフは、正しい人であった」と記されています。ユダヤ人のヨセフにとって、正しい人とは、神の御前で、正しく生きていたということを意味します。神の律法、神の掟を心から喜び、また神の御前で畏れ敬う心で生きていた人であるということです。そのような人だからこそ、ヨセフは、苦しんだのです。恐ろしいばかりに苦しんだはずです。
何よりもマリアの妊娠は、自分のせいではありません。婚約中のヨセフが、彼女と性的な関係を持つことはありえません。それなのに、マリアが妊娠している。そのことを知ったときのショックは、どれほどのものであったことでしょう。愛するマリアに裏切られたのです。結婚を誓いあった相手です。結婚するまで、神の御前で清く正しい関係を保つことをお互いに誓いあっていた二人です。ところが、マリアのお腹は、事実、ふくれている。いったい、何が起こったのか。おそらく、ヨセフは自分からは、切り出せない。心の中で、何度も呻くように叫んだのではないでしょうか。
「マリアよ、いったいどうしたのだ。何が起こったのだ。」
いいなずけのマリアの方は、ルカによる福音書を読みますと、既に天使から聖霊によって身ごもったと告げられていました。そして彼女は、それを受け入れたのです。ですから、マリア自身には、分かっているのです。自分の身に何が起こったのかすでに、わきまえているのです。しかし、ヨセフには、分かりません。いったい、マリアは、いいなずけのヨセフにこの神さまの出来事を説明したのでしょうか。聖書は、記していません。ですから、わたしの想像は、あえてここで断念したいと思います。
しかし、なお考えます。もし、彼女の口からそのようなことを打ち明けられて、「ああ、そうなのですか」と信じる男性がいるでしょうか。決して考えられないのではないでしょうか。マリアが、説明すればするほど、それは、ヨセフの苦しみを増すことになるのではないでしょうか。そうであれば、マリアは、もはや説明することもできず、ただ、ヨセフに自分の将来、自分の全存在、そうです自分の命をも、ヨセフに委ねる以外になかったのです。
さて、今朝も、皆さんと唱えました十戒の中の第七戒に「姦淫してはならない」とあります。つまりもしも、マリアの妊娠の事実が明らかになれば、それは、律法の定めによって、死刑に処せられなければなりません。石打ちの刑です。極刑です。それ以外にないのです。つまり、マリアの命も、それは同時におなかの中に与えられた神の御子の命も意味しますが、マリアは、自分の全存在をこのヨセフに、このヨセフの判断に委ねられているのです。つまりマリアは、自分の全存在ばかりか、全世界の人類の将来そのものをも、ヨセフに委ねる以外にないのです。
それはまた、神の御心でもありました。神が、ご自身の救いの将来を、全人類の救いのご計画を、この一人の男性、アブラハムの子孫、ダビデの子孫のヨセフ、しかも王の系統に属する結党ではあっても、今では、大工をして生計を立てるヨセフにお任せになられたのです。そこに神の選びがありました。
さてそれなら、正しい人ヨセフはどうするのでしょうか。彼は、信仰によって生きる正しい人でした。だからこそ、苦しみます。そして苦渋の決断をします。彼女を律法違反として告発するのではなく、むしろ、ひそかに離縁しようとするのです。何よりも、彼女を殺したくないからです。ひそかに離縁して、マリアを去らせてしまえば、世間の人たちは、お腹の子は、ヨセフの子として見るでしょう。つまり、ヨセフはだらしなく結婚前に、マリアを妊娠させて、しかも離縁したことにするのです。ヨセフ一人が泥をかぶる気です。そうして、彼女とお腹の子の命を助ける道を選択したのです。
恋愛関係、夫婦の関係。それは、本当にすばらしく、美しいものでしょう。深い愛へと至ります。しかし他方で、そのような麗しい関係が、一挙に反転し、憎しみや怒り、絶望や恐怖へと転落することもしばしばあります。ヨセフは、どれほど、マリアを疑い、憎み、自分の人生を呪ったことでしょうか。よりによって、マリアのような信仰にあふれた女性が、自分の知らないところで、自分を裏切る、信頼を仇で返す。結婚までは、性的な関係を持たずに、彼女に誠実と真実を貫こうとしていた自分を、ものの見事に裏切るマリア。愛情が憎しみに変わる瞬間があるとすれば、まさに、身ごもったことを知った瞬間ではないでしょうか。ところが、彼は、正しい男なのです。神の前に生きたのです。しかもそれは、単に、律法を文字通り守って生きるという生き方ではありません。単に正しいというのなら、律法を破った罪で、告発することは、正当な権利なのです。誰も非難する人はありません。しかし、彼はそれをしなかった。むしろ、自分が泥を浴びることを選択したのです。ここにヨセフという人が、どのように偉大なキリスト者であったか、信仰者であったかを思います。
さて、物語は続きます。彼の苦悩、憎しみや殺意すら思いながら、他方で、マリアを守ってあげたい、その赤ちゃんの将来を助けてあげたいという愛は、彼の愛の勝利で終わろうとします。しかし、神は、そこで終わらせられません。なぜなら、もし、マリアが一人で、イエスさまを出産するなら、マタイによる福音書の冒頭で、ユダヤ人の救いにとって最重要な系図が成り立たないのです。単に系図が成り立たないというより、旧約聖書の預言の言葉、予告が完成しないことになってしまうのです。つまり、救い主キリストは、アブラハムの子孫から、しかもダビデの子孫から誕生するという約束です。そうなれば、神の完璧な救いの歴史が、ここで断絶されるのです。神のご計画は、ここで破綻してしまうのです。
神は、苦悩するヨセフ、寝ても覚めても苦しみ続けていた彼に、夢の中で、天使の働きによって、神の御心を告げるのです。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』ヨセフは実に、この夢の中で告げられた天使の言葉、これを信じるのです。眠りから覚めると、これまでの決心を翻して、マリアと婚約から結婚へと、直ちに進むのです。そのようにして、ヨセフは、マリアの夫となります。つまり、イエスさまの父親となる決断を下すのです。そのようにして、旧約聖書の預言の成就へ、神の全人類を救うご計画の実現へと、用いられるのです。
教会は、降誕祭をとても大切にします。それは2000年の歴史のなかで、もはや世界中の文化になり、世俗的な伝統、世俗の慣習として定着しています。私ども教会から申しますと、そのようなクリスマスには、批判的です。しかし同時に、それだけの影響を及ぼしたクリスマス、降誕の出来事の巨大さを思わされます。降誕の歴史的事実、クリスマスの出来事にこそ、神の全人類を救う唯一の方法があるからなのだと、思います。
神は、ご自身の民を救う方法として、どうしても御子イエスの父としてヨセフが必要でした。しかし、彼とマリアの肉体関係によって出産した子どもでは、救いを実現することなど決してできません。ただの人間、それがどんなに優れた、清く正しい人であっても、人間ですから神の前には、罪人でしかありません。ですから、ヨセフのいいなずけの処女マリアが選ばれ、この処女を通して、聖霊によって神の独り子が宿らせられるのです。
それは、神が、罪人である人間とまさに連帯しながら、しかし同時に、人間の罪の連鎖、罪の系譜、罪の遺伝、罪の関係は、ここで完全に遮断する方法なのです。そうでなければ、私どもの救いは絵に描いたモチです。ここに、私どもの救いにとって最も重要な聖書の教え、主イエス・キリストは、真の神であり同時に真の人間であるという真理が成り立つわけです。神のひとり子としてのイエスさまであり、処女マリアより肉体を受けたイエスさまです。真の神であり、同時に真の人であられるキリスト、イエスさまです。このぎりぎりの神の驚くべき奇跡のために、実に、このヨセフの苦しみが必要だったのです。ヨセフの、恐るべき葛藤が必要だったのです。
今朝、世界中の教会で、「主イエスは聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ」と告白されます。私どももニカヤ信条で、「主はわれら人類のため、われらの救いのために天より降り、処女マリアより肉体を受けて人となり」と唱えました。わたしもかつてそうでしたが、多くの人が、処女マリアから赤ちゃんが生まれたなどという非科学的なことを信じるなんて、どうかしていると言います。そのことは、まさに非科学的、非自然的です。ありえないことです。しかし、神が、そうお望みで、それ以外に人類の救いの実現がなされないのであれば、神がそれをなさることは自然、当然です。科学的であり論理的のはずです。しかし、私どもは今、そのようなのんきな議論をしている暇がありません。
今、しっかりと見つめたい、考えたいのは、最も信じられないはずの当事者ヨセフが、これを受け入れたという事実についてであります。「キリスト教は、現代でもそんな迷信を信じるのか」と、批判する人々がおられますが、この時のヨセフは、のんきな場所に立っていません。彼自身、激しく自分の人生、自分の心が揺れ動かされるところでこの現実に対面させられるのです。そして、ヨセフは、その苦悩、憎しみ、怒り、絶望、その心の暗闇の、心のどん底の底において、この受け入れがたい事実を受け入れたのです。信じたのです。
いったい、神様を信じるということは、どういうことなのでしょうか。それは、自分が正しい人間で、良い人間で、世間一般的に言って、後ろ指を指されないような自分であり、生活をしているという立場に立つところで、なされることではないのです。キリスト教は、歴史的に最も信者も多く、世界の文明によき影響を及ぼして、書かれていることもとても倫理的で、人生の導き手、人格的な養い、教養としても、学んでいた方が得であろう、とそのような立場に立ったところで、本当の意味で、神さまの前に出ることはできません。むしろ、このときのヨセフのように、本当に、自分の人生、自分の正体、自分の罪深さ、自己中心性、自分の醜さ、自分の汚れ、自分のいやらしさを突き付けられるところで、神さまは出会ってくださるのです。言わば、自分がぺしゃんこになって、凹まされるところでこそ、神は、出会ってくださるのです。ヨセフの経験とは、そのような経験なのです。
ヨセフは男性です。クリスマスは、神の御子がマリアからお生まれになられた、私どもへの救いの神秘です。クリスマスはしかし、処女マリアが体験するのです。マリアのものです。ヨセフは、出る幕がないと言わねばなりません。しかし、ここまで学んでまいりまして、はたしてそうなのか、確かに、妊娠、出産ということでは、まったく手も足もでません。しかし、ヨセフなしに、ヨセフの信仰の決断と従順なしには、どうしてキリスト、救い主であられるイエスさまがお生まれになられることができたでしょうか。さらに申しますと、この後、ヨセフはマリアの出産に立ち会います。イエスさまを取り上げた、産婆さんは、他ならない父ヨセフなのです。さらに申しますと、この後、イエスさまは、ヘロデ王に命を狙われます。そこでイエスさまとマリアを、エジプトへ避難する旅を伴うのも、このヨセフなのです。
クリスマスは、女性に、処女マリアにこそスポットライトが浴びせられます。それで構いません。そのとおりです。ニカヤ信条や使徒信条に登場するのは、母マリアだけです。それでよいのです。しかし、ここでクリスマスの恵みは、マリアひとりのものではないことはもとより女性のものだけでもありません。さらには、何よりも2000年前の出来事で終わるものでもありません。
信仰とは、このような人間のすさまじい試練の中で、深められます。そして、神との出会いとは、神のみ言葉を自分の人生のど真ん中で聴きとることなのです。ここには、すでに洗礼を受けてキリスト者になった者たちが多いのです。その意味では、すでに信仰者です。すでに信仰によって正しい人と認められ、正しい人としての歩みを、試行錯誤しながらでも、よちよち歩きでも始めている方々のはずです。しかし、今朝もう一度、信仰の原点に立ち戻らされる思いです。それは、私どもの生活の真ん中で、神の言葉を聴きとるということです。天使を通して、つまり今では、説教者を通して神は、私どもに神のみ言葉を伝えておられます。あなたは、そのみ言葉を信じ、従うのかという問いです。いかがでしょうか。私どもの心にも、愛や優しさがあるでしょう。しかし同時に、憤り、憎しみがあるでしょう。それは、具体的なことでしょう。しかし、そこで、み言葉を受け入れる。それが、私どもにとってのまさに今ここで起こる、クリスマスの小さな出来事なのです。御言葉を聴いて、理解して、従う。そこに私どものクリスマスの体験があります。それを深めることが、信仰の旅路に他なりません。
同時に、ここには、まだ洗礼をお受けになっておられない方もおられます。洗礼を受けるということ、それが、誰にも知られたくない、心の深いところに隠されている自分の醜さ、汚れ、失敗、罪の数々を正直に、神の前に認め、告白し、しかし、そのど真ん中で、神の恵みと愛を受け入れることです。
イエスという名前は、当時、ありふれた名前でした。ヘブライ語で、エホシュア「ヤハウェは救い」という意味です。日本語の発音では、ヨシュアです。しかしこのエホシュアこそ、やがて十字架について下さることによって、ご自分の民をその罪から救ってくださるのです。このイエスさまを、私どもに与えられたキリスト、つまり救い主として感謝をもって受け入れ、信じることが、私どもの今の生活の真ん中で、そのままの中で、迎え入れることが信仰なのです。救いとなるのです。神は、あなたに宣言されます。招いておられます。
「あなたの罪を赦し、あなたをわたしの民、神の民、神の子とするために、わたしの御子キリスト、救い主が人として誕生した、あなたの罪を背負い十字架でわたしの刑罰を受けた、だから、あなたは、もはや、滅びの子、罪の中に捨てられる子ではない。」どうぞ、この神の宣言を受け入れてください。そのとき、その人の心の深いところに、魂の深淵に、御子なるイエスさまが宿ってくださいます。主イエスが、その人のところに到来し、住まれるのです。それが、その人にとってのクリスマスです。それは、何も12月でなくともかまいません。わたしは9月でした。洗礼を受けたのは12月でした。
どうぞ、あなたも洗礼を受けてください。洗礼を受けることは、主イエスを信じることです。主イエスを心に迎え入れることです。宿すことです。そのとき、旧約聖書のイザヤ書の預言が、マリアにだけではなく、ヨセフにだけでもなく、その人に実現するのです。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」
「我々」とは、主イエス・キリストを信じた人です。信じる時に、実現するのです。正確に申しますと、確かめられるのです。主イエス・キリストの誕生は、歴史的事実です。ただし、主イエスを信じない限り、み言葉を聴いて、心に受け入れない限りは、この歴史的事実は、自分の事実にならないのです。経験できないと言う意味です。ですから、一日も早く、クリスマスの恵み、神からおめでとうと言われる祝福を、ご自分のものとなさっていただきたいのです。
今、すでに洗礼を受けた者たちには、主イエス・キリストが定められた聖餐の礼典にあずかります。ここで、あらためて、私どもの不信仰で、まことに中途半端な生き方で、み言葉の前に真実に応答しない鈍く、自分勝手な信仰の歩みを、今一度、悔い改め、赦しを更新して頂きましょう。そして、聖餐を受けた者らしい生き方、あのヨセフのように眠りから覚めて、迷わないで、この聖餐で受けた恵みを携えて、生活の現場へ、職場へ、家庭へ、何よりも教会生活へと従う歩みを深めてまいりましょう。
祈祷
2000年前のユダヤの民の中に、独り子をマリアを通して、そしてヨセフの信仰と服従を通して、降誕せしめてくださいました、父なる御神、その御子によって私どもは、罪を赦されて、あなたの民となり、あなたの永遠の祝福にあずかる者とされました。心から感謝申し上げます。どうぞ、この感謝と喜びとをもって、あなたに真実に信じて従う者とならせてください。そのようにしてあなたの救いのご計画を妨げる人間ではなく、実現する人間として、私どもも小さなヨセフとならせて下さい。何よりも、み言葉を聴いて、信じて、主イエス・キリストを心に深く宿す幸いに生きる者として、導き、養い続けてくださいませ。アーメン。