「アジアの、全世界の救い主の降誕」
2009年1月11日
マタイによる福音書 第2章1節~11節
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
本日の物語、キリストのご降誕のエピソードです。ここで、マタイによる福音書は、まさに驚くべきことを告げます。いったい、自分自身ユダヤ人であるマタイは、どんな思いでこの物語を書いたのか、想像を絶する思いが致します。何故でしょうか。なんと、聖書の中に、しかも新約聖書の冒頭に、占星術の学者たちを登場させるのです。
占星術とは、当時の天体観測の方法です。彼らはその学者、専門家です。しかし、ユダヤ人にしてみれば、要するに占いをしている人々です。星占いです。いったい何ということでしょう。確かに旧約聖書の中にも、ユダヤ人たちが、そのような偶像の宗教に翻弄された姿が描き出されています。しかし、当然のことながら、それは、徹底的に神に糾弾され、神の審判の対象となりました。なぜならそれこそは、不信仰であり、悪であり、罪の中の罪だからです。
私どもも今朝もまた、喜んで、十戒を唱えました。心の底から神に感謝しました。十戒にとって、その基本は、真の神のみを神とするということです。偶像を拝まず、偶像になびかないことです。生ける唯一の神だけを神と信じて従うことが、十戒の基本線です。
確かに、掟であることも大切ですが、何よりも、はっきりと申しますと、神さまを信じる者は、どんなことがあっても占いなどには頼らないのです。頼らないで済むのです。天地の創造者にして、時間、歴史を支配しておられる世界の主権者なる神さまを信じているのなら、もはや、自分の明日がどうなるのか、不安に駆られることはないからです。占いが気にかかる、百歩譲っても占いに頼るなどということは、私どもの信仰を自ら否定する行為に他なりません。逆に申しますと、昔も今も、東も西も、まったく関係なく、我々は、占い師を求めてきたし、占い頼っている現実があります。特に日本はそうです。最近は見かけなくなりましたが、いっときテレビ番組に、一人の女性の占い師が何度も登場していました。その占い女性がテレビで飽きられることはあっても、占いそのものは飽きないのです。
何よりも日本の悲劇は、このような占いと宗教とが、ほとんど区別できないほどに繋がっているというまさに嘆かわしい現実があることです。それは、宗教の死であると言っても過言ではありません。神社の御神籤一つとってもそうです。もとより神社を宗教として考え、とらえるかどうかは、学者によってまた異なるでしょう。深い人生の悩みや世界の諸問題を解明する力がない宗教は、本来、宗教の名にふさわしくないと、わたしは考えます。しかし、我々の周りには、そのようなお手軽な宗教、新興宗教は力を持っているようです。御神籤のような、呪術や迷信のような宗教がたくさんあるのです。宗教は怖いなという認識が、そのようなものをひっくるめて考える人には、まさにその通りです。宗教は、怖いものです。しかし、怖いはずなのに、テレビの番組でも、雑誌でも、今日の運勢占いが盛んなのです。
しかし、単に批判して済ますことはできません。むしろ、そこで改めて我々は、天地創造の神、歴史を、この現実の世界を支配し、生きておられる神を知らないなら、人生のさまざまな不安、矛盾、不条理の前にほっぽり出されて、不安に押しつぶされるような小さな、あまりにも小さな存在であることを、忘れてはなりません。キリスト者である私どもは、ですから、占いなんてばかばかしい、そんな愚かな宗教、宗教の名にも当てはまらないようなものにとらわれている人々を、軽々しく批判し、軽んじて終わるわけには、決してまいりません。口で言うのは簡単ですが、本当に難しいですが、そのような方々への同情なしに、福音を証することはできないと思います。何よりも、嫌がられても福音を紹介する責任があります。
ここにユダヤ人が最も軽蔑し、もっとも憎むべき東方の占い師が登場します。先回も学びましたが、生粋のユダヤ人なら、最初の系図の中に、女性が入り込んでいるのを見ただけでほっぽり投げるかもしれません。なおそれでも我慢して読めば、今度は処女マリアから神の御子が生まれ、その子イエスが約束の救い主だと言われます。それでも我慢して読み続けて、ついに東方の占い師が登場するのです。もはや、忍耐も限度かもしれません。バカバカしいどころか、許せないような神への冒涜と感じるかもしれません。しかも、ユダヤの東方とは、どこを指すのでしょうか。聖書は明らかにしていませんが、おそらくそれは、ペルシャであり、バビロンであり、アッシリアであろうと思います。そしてそれらの国々は、他ならないユダヤを滅ぼした敵国なのです。預言者イザヤの言葉が成就したと、直前の物語で告げているのですが、そのイザヤの生きた時代、この東方の諸国が、ユダヤ人を捕虜にして連れ去ったのです。そのような、神とその民に敵対する外国人、彼らの呼び方では異邦人と申しますが、異邦人のしかも占い師たちがやってくるのです。
何のために、やってくるのか。ユダヤ人の王としてお生まれになった方、赤ちゃんを拝みに来たというのです。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」頭が混乱してまいります。いったいなぜ、ユダヤ人でもない、星占いの専門家たちがはるばる、800キロもの遠い道のりを旅して来たのでしょうか。反対に、エルサレムからなら高々80キロの道のりです。しかし祭司長や律法学者たちは、そしてエルサレムの人々もまた、自分たちの王さまが生まれたという東方の学者からの報せを、無視したのです。無視したということは、無関心であったということも含みますが、この学者たちを軽蔑し、信じなかったのです。信じたなら、まさに自分たちの王の誕生ですから、彼らに先んじてでも、探しだすはずでしょう。しかし、動きません。わくわくして、楽しみにするのではなく、むしろ、不安を抱いたのです。
確かに、ヘロデ王が不安になったのはよく分かります。自分がユダヤの王になっているからです。そもそも彼は、信仰の人でも何でもありません。政治闘争、権力闘争の中で、ローマ皇帝から王との地位に任命を受けたから王になっているのです。王と言えども、自分の地位は、皇帝の考え、命令一つで立ちもし倒れもします。ですから、ユダヤ人の王が生まれたと言われて、動揺するのです。何とかしなければと考えます。次の時に学びますが、彼は、その幼子をすでに殺してしまおうと考えています。
何よりもここで問わなければならないのは、エルサレムの人々の態度であります。彼らも同じように不安のを抱いたのです。エルサレムは、神殿がある都、都会です。都心に住む中心的な人々もまた、ヘロデのような不信仰な外国人の王と同じ考えを持っているということであります。彼らには、そこそこの安定があります。ローマ帝国の支配の中に、甘んじていれば、ローマの平和、安全保障の傘の中で、自分たちの既得権益を守りながら、そこそこ豊かな暮らしが可能なのです。心の中では、本音のところでは、新しい王が生まれるということを、有難迷惑と考えているということです。つまり、ヘロデのような王に対抗すると、とんでもない目に遭うと考えたのです。そして、これもまた後で学びますが、確かに恐ろしい、おぞましいことが起きてしまいます。こうして、彼らエルサレムの住民たちは、東方の旅人、しかも占い師のことを無視します。
実は、ここにマタイによる福音書の著者、ユダヤ人キリスト者マタイの読者への、我々への告発があります。鋭く、厳しく告発するのです。ユダヤ人たちは、救い主を待ち望んでいた、待ち望んでいると上辺では、示しながら、しかし結局、真実の意味では待ち望んでいなかったということです。結局、神さまのことより、生活第一なのです。神によって立てられているイスラエル、神の民も深いところで、自分たちの政治的な安定、経済的な安定を第一に求めていたのです。そして、それは、私どもキリスト者をも鋭く告発しているのではないでしょうか。私どももまた、自分の生活第一、この安定を壊すのなら、それが、神さまであっても、喜べない。そのような思いが潜んでいるのではないでしょうか。
先週の朝の祈祷会では、週報にも記しました「教会の言葉」を読み合わせました。その後で、私どもの教会が祈り、学び、考え続けている教会のディアコニアの課題について話された方がおられました。三年前に私どもの教会の研修会の講師としてお招きした東京告白教会の小塩長老から、愛知県にある教会として、「トヨティズム」に抗うあり方を示すべきではないかと示されました。トヨティズムとは、トヨタに代表される、まさに今日の経済至上主義、グローバル経済体制のことと思います。あのとき、小塩長老は別として、少なくとも私どもの中に、今日のような「トヨタショック」が起こることも、また私どもの教会の課題とすべきであるという発想も持ち合わせていなかったように思います。これは夜の祈祷会でも、申しました。まさに今、神からの挑戦として、私どもがどのように神の民教会として、キリストに仕える僕としてのキリスト者が、どのような行動へと呼び出されているのか、なお、祈り、求めるべきでありましょう。しかし、そこで私どもは、あの時のエルサレムの表面的には信仰的に生きている都会のユダヤ人のように、不安を覚えるだけで、動こうとしないのなら、マタイによる福音書の告発、批判は、まったく他人事ではなく、現代のキリスト教会をも鋭く問うメッセージなのです。もとより私どもがそのままヘロデのような極悪な権力者、支配者であるのではありません。しかし結局、自分の今の生き方を揺るがすような新しい何かについて、不安に思う。じっとしていて今の生活を変えようとしない。動こうとしない、無視してしまう、そこに私どもの罪があります。それは、キリスト者も、またまだ信仰が与えられていない方にとっても同じ問題なのです。
自分のこれまでの生き方、生活のプラスになる、助けになる、利益になるそれが知的なことであれ、心のことであれ、何らかの支えになるような神さま、キリスト教の教えを求めている、求めようとする態度のままなら、私どもは、この東方から来た不思議な学者たちとすれ違うでしょう。出会えないのです。
さて、東方の学者たちは、はるばるやってきます。マタイは、なぜ、彼らがそうした行動に出たのか、丁寧な説明はしません。ユダヤ人の王が生まれることを告げる星が現れ、それを彼らは見た。実に不思議です。これを巡っては、聖書の学者たちの議論は、興味深いものがあります。しばしばそこで天文学者の学説が引用されます。現代人であれば、「彗星」ハレー彗星のような星の動きについて説明されると、説得されるかもしれません。
しかし、著者マタイは、そのような天文学的な関心を呼び覚ますためにでも、この出来事の確かさ、歴史的事実についての説明をしようとして記すのでも全くありません。天地創造の神、聖書の神、唯一の歴史を支配される神は、真の神を知らないでいる人々にも、そのようなところで星占いをしている人にも、彼らを憐み、彼らに御自身をあらわすことをよしとされるということです。
わたしはここで、彼らの名誉を守るために、なお補足の説明をすべきかとも思いす。彼らは、現代の単なる占い師と同じではありません。彼らは、人間の不安につけこむようにして、自信ありげなふるまいで自分の占いの確かさを人々に告げ、そのようにて人々を自分の支配下に置く、コントロールする、そしてお金儲けの集団にするのではないでしょうか。しかしこの学者たちは、そのような魔術のような占いではなく、言わば、政治学者、経済学者に近いのです。あるいは真面目な宗教家に近いのです。彼らは世界の諸問題をどのように克服すべきかを、2000年前の仕方で、研究していた人なのです。その方法が天体観測であり、それで農耕に勤しむ人々に知恵を与えていたようです。また、政治的指導者たちの顧問、ブレーンとして様々な政策を提言していたようです。その意味では、とても真面目で、誠実な真理を探究する求道者と言えるかと思います。
しかし、残念ながら、未だ真の神、創造者なる唯一の神を知りません。ところが神は、彼らをご存知なのです。東方の、アジアの人々が、どのユダヤより熱心に、真剣にユダヤ人の王の誕生を、世界の歴史において重大な事件となると察知した。すでに、そこに神の導きは鮮やかにあります。神は、彼らを顧みていて下さるのです。
マタイによる福音書は、告げます。主イエス・キリストのご降誕は、ユダヤの王の降誕、誕生である。しかしそれは、単に、小さな自分たちの民族の救いを神が成し遂げられるのではない。神は、このイエス・キリストを通して、全人類を救う、ユダヤ人だけではない、異邦人も救う。異邦人は、白人も黒人も黄色人もないのです。これも余談ですが、この学者たちは、どれだけ絵画に登場してきことでしょうか。聖書には記されてはいませんが、しばしば、彼らは、三人です。そして、良く見ると、肌の色が異なっている、黒人もいるのです。それは、画家たちのメッセージなのでしょう。イエス・キリストは、世界の主なのであらせられるぞというメッセージです。
聖書は、告げます。神がお望みなら、神の選びの民ではない者、彼らから軽蔑されるような者ですら、神の栄光を見ることができるのだということです。神の救いを見ることができるということです。そしてそれは、この東方からの学者たちによって、見事に証明されているのです。
彼らは、謙虚に尋ねます。ユダヤに到着して、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
エルサレムの住民たちは、応答しませんが、ヘロデ王は、すぐに自分の身に危険が及ぶかもしれないと考えて、放置せず、祭司長や律法の専門家、東方の学者たちに比べれば、比較にならないほどの専門家中の専門家に尋ねます。彼らは、イザヤの預言を告げます。「それは、ベツレヘムです。」ベツレヘムから、神の民イスラエルを養う者、神の羊の群れである民を飼う羊飼いが生まれると、的確にこたえます。そして、ヘロデは、学者たちに告げます。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」
ヘロデは、拝む気持ちなどさらさらありません。もしも、本当に言う通りなら、速やかに殺そうと考えています。彼にとって、幼子一人を殺すことなど何でもありません。
こうして学者たちは、ベツレヘムを目指します。マタイによる福音書は、星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。と不思議な表現で、記します。東方の学者たちは星の専門家ですから、彼らの便りは、星なのです。神は、彼らに合せるようにして、星を、間違いなくそれは彗星、流れ星なのでしょう。学者たちは、この星を見て、「喜びにあふれた。」のです。
クリスマスは、御子の降誕を喜ぶお祭りです。マタイは、この喜びにあずかったのは、最初にこの喜び、大きな喜びです。大きな喜びを喜んだという表現です。ものすごく喜んだというのです。その喜びは、異邦人に与えられているのです。
彼らは、今、喜びに溢れて、大急ぎで、赤ちゃんのイエスさまがおられる家に中に入ります。そしていよいよ確信しました。このような不思議な星の出現と軌道を導かれた、大いなる神の導きに感動したのでしょう。そして、この人たちは、赤ちゃんのイエスさまの内に、神の光を見出したのです。この光景もどれほどの画家たちが描いたことでしょう。聖母子の姿です。マリアとイエスさま、そして父ヨセフもいます。その家族の姿です。光の中に描かれます。三人とも頭にはワッカが描かれています。しかし、現実にはワッカはありません。信仰の眼がなければ、そこに暖かな神の光が注がれていることを見ることはできないのです。しかし、彼らは目撃します。単に肉眼で見ているだけではありません。それなら、ただの貧しい家庭に生まれた男の子の姿であっただけでしょう。しかし、彼らは、信仰の眼が与えられ、肉眼が霊的な真理を見る目へと開かれ、心の目、魂の目が開いたのです。彼らは、「ひれ伏します」つまり、礼拝です。
ここでもユダヤ人は、批判するかもしれません。「やっぱり東方の、星占い師だ。人間を礼拝している、我々がもっとも嫌悪する偶像礼拝を何とも思わない輩だ。神への冒涜だ。」確かに、人間を拝むことは、最大の罪です。偶像礼拝こそ罪の根源です。
しかし、目の前に横たわっておられるのが、イエスさまであったら、その時だけは、違います。イエスさまには、イエスさまにだけは、ひれ伏さないとならないのです。このイエスが人となられた神だからです。
彼らは、自分たちの持っている「宝の箱」を開けます。ここでも、聖書の学者たちは、さまざまなことを調べて教えてくれます。黄金、乳香、没薬の三つは、何を意味するのかです。黄金は、王の権威、王のしるし。乳香は、礼拝の際に使用するので神の権威、しるし。最後の没薬は、死体に塗るので、イエスさまの葬りのしるし。それぞれになるほどと思います。しかし、私は、この三つの者は、占い師の道具であるという解釈に立ちます。占い道具です。しかし、今、主イエスにお会いした彼らは、自分たちの言わば、商売道具を捧げるのです。一つには、このまさに生計を立てる手段であり、自分たちをここに導いた道具でもあるほど、命の次に大切と思える道具ですが、しかし、彼らは知る、知ったのです。もはや、自分たちにとって、なくてならないのは、この信仰であるということでしょう。彼らは、イエスさまにお会いして、いよいよ星占いの素晴らしさに目覚めた、いいへ、違います。その反対です。神は、このような自分たちの探究、研究をも用いてくださった。けれども、それが主、それが神ではないのだ。本当に、自分の人生が確実になる道は、このイエスの内にあるのだ。だから、もうこれまでの生き方をしない、そのような喜びの決意があると思います。彼らは、捨てるべきものをきっぱりと捨てたのです。いやいや、仕方がなくではありません。大いなる喜びの中で、握りしめていた手の力が緩んで、滑り落ちるようなものでしょう。おかしな力が抜けたと言うべきでしょう。楽になったと言うべきでしょう。
そうなれば、ここでも単なる昔話ではありません。私どもキリスト者が問われます。主イエスにお会いして、永遠の命の救い、罪の赦しを受けて、私どもの生き方がどのように変わるのかということです。彼らは、ヘロデのところに戻りません。神の導きが夢の中であったからだとマタイによる福音書は言います。ヘロデに教えてはならないからです。こうして、彼らは「別の道」を通って、自分たちの国へ帰って行ったのです。これには、深い意味が込められています。「別の道」とは何でしょうか。それは、イエスさまにお会いしたら、これまでの生き方が変わるということの象徴です。
もはや占いに頼らない人生が始まるのです。自分の人生を本当に支え、導き、光となるのは、星ではない。主イエス・キリストこそが星だからです。確かな人生へと再出発するのです。私どもも、すでに、この経験に招き入れられています。キリスト者は、皆そうです。しかし、それは、一回限り、昔のことであったら、意味がありません。今のことです。今朝のことです。
しかしそれは、こういうことではないです。「今朝は、このような説教を聴いたのだから家に戻るとき、別の道を通ってみようか」私どもは今まさに、教会の一年の歩みを作ろうとしています。今朝は、奉仕アンケートの締め切り日です。伝道所委員たちは、昨年末から新しい一年の歩みの準備のために忙しくしています。なお続きます。それは、私どもの教会が、昨年のように生きるからではなく、新しくなること、常にみ言葉を聴いてそれに応答して、改革されるためです。「別の道」とは、新しい道のことです。その意味で、信仰の道は、いつでも冒険の道、新しい道でしょう。それを一人一人が進み行きます。教会全体として進み行くのです。主イエスを礼拝できた大いなる喜びを胸に抱きながら、志を新たにして、自分の生活を新たに整え直して、進み行くのです。
祈祷
私どもの日本の教会は、厳しい伝道の戦いのただ中にあります。元気を失って、望みを失っている教会やキリスト者、牧師も少なくありません。しかし、あなたは、東方の学者たちをも、救いだし、あなたの栄光の道具とされました。私どもは極東にいます。どうぞ、私どもの国に生きる人々の中から、このような方々を、なお起こしてください。まだまだ主イエスの知識を知らずに、しかし真剣に生きている人々もおられます。天の父よ、先にこの大きな喜び、主イエスのお会いし、救われた大いなる喜びにあずかった私どもを用いてください。そして、私どもこそ、あの学者たちのように、自分を捨て、自分の考えを第一にする歩みから解き放たれて、真実の信仰の道、常に新しくされる道を歩み抜くことができますように。今朝、み言葉を聞いた私どもが、真実にみ言葉に応答できるために、私どもを祈りへと導いて下さい。黙想へと導いて下さい。そして、そこから確かな歩みへと押し出してください。アーメン。