「御言葉のみ-正しい聖書解釈の道-」
2009年2月15日
マタイによる福音書 第4章1節~11節
「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」
今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。」
先週に続いて、主イエスの荒れ野の誘惑の物語を学んで、礼拝を捧げます。さて、洗礼を受け、神から「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、究極の祝福を受けられたイエスさまは、その足でまっすぐに荒れ野に向かいます。ご自分で進み行かれたというのではなく、聖霊に、つまり父なる神の霊に導かれてのことです。そもそも、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた場所も、すでに荒れ野でした。しかし、主イエスは今、さらに厳しい荒れ野へと進み行かれるのです。
多くの人々は、そこでまず意外に思うのではないでしょうか。なぜなら、洗礼を受けて、いよいよ新しい公の生涯が始められるのですから、恵みと祝福にあふれた、要するにこれまでより少しは快適な、少しは楽しい暮らしが始まってしかるべきと思うからです。ところが、神は、主イエスを誘惑を受けさせるため、テストするために、過酷な場所に連れて行かれるのです。しかも、そこで40日40夜、断食させるのです。それは、人間の肉体の極限状態に立ち至っせるということだと学びました。ところが試み、誘惑は、そこで、「終了」、とはなりませんでした。むしろ、そこからこそ本当の誘惑が始まったのです。
誘惑する者、悪魔が登場します。悪魔が、主イエスを試します。悪魔はここで何を誘惑して、主イエスを救い主としての働きを阻止させようとするのでしょうか。人となられた御子イエスさまを、どのようにして貶めるのでしょうか。
先週は、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」との誘惑を学びました。本日は、第二の誘惑を学びます。「すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。」この二つの言葉の中で、明らかになったことは、悪魔は、「あなたが神の子なら」と繰り返していることです。神の子であるということを証明しなさいと言うわけです。そこが攻撃のポイントになると認識したのです。ヤコブの手紙第2章で、こう言います。悪霊どもでさへ、神が唯一であると信じています。つまり、主イエスが神の御子であることは、悪魔自身はみじんも疑いません。しかし、人となられた神の子イエスさまを、何としても、罪を犯させよう、父なる神に従う道を、一瞬でも、わずかでも脱線させようと企てるのです。
私どもは、先々週、主イエス・キリストが洗礼をお受け下さったのは、私どもの救いのためであったと学びました。私どもは洗礼によって生ける主イエスと結ばれることができるようになったからです。主イエスと結合する、合体する、交わりを持つということは、主イエスが、天から、神からの「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との宣言を、そっくりそのまま、私どもへの宣言とされるということです。キリスト者とは、神の子、天地の創造者、主権者、歴史の支配者なる全能者を父とする者です。さらには、その聖にして、正義なる神、審判者なる神から、その御心に適う者、試験に例えれば、100点満点の者ということなのです。なぜ、100点満点なのか、それは、イエスさまが100点満点をとってくださり、その100点をそっくりそのまま私どもにあてはめて下さるからです。ですから、当然、決定的に大切なことは、主イエス・キリスト御自身が神の御前に、一人の100点満点の人間であるかどうかが問われるのです。だからこそ、わずか一点でも減点させれば、もはや、罪人の身代りに死ぬことができなくなりますから、総攻撃を開始するのです。その攻撃のポイントが「あなたが神の子なら」という言葉にあります。
実に、畏れ多い想像ではありますが、いったい、主イエス御自身はご自分が神の子であられるというご自覚をどのようにして持たれるのでしょうか。そのことを、これは「敢えて」と申しますが、少しでも考えるとき、ここでも、この誘惑が私どもの救いのためであることが明らかにされるはずと思います。
ここに招かれている私どもは、すでに洗礼を受けたキリスト者が多いわけであります。それなら自分がキリスト者であることをどこでどのようにして確かめるのでしょうか。言うまでもなく、洗礼を受けたという事実こそ、その客観的な根拠です。そこに、主イエス・キリストが私どものために、お定めくださった礼典の力、威力、恵みがあります。ただしかし、事柄はそう簡単なものではないと思います。何故なら、これまでどれだけ多くの人たちがひとたび洗礼を受けながら、教会生活から遠ざかり、そのようにして信仰の道から脱線して行ったことでしょうか。ある統計では、半分余りの人たちがそのようになったとも言います。洗礼という客観的なしるしを受けているはずなのに、そこから離れることが事実起こるのです。
何故でしょうか。私は、ここで関連するひとつの原因として、キリスト者となったら、神の子とされたのだったら、これからは安定した、祝福された歩みを送れるようになるという根拠のない理解のもとに、踏み出したからではないかと思います。むしろキリスト教信仰は、ご利益信仰、新興宗教のような家内安全、商売繁盛を約束するものではなく、むしろそのような人間の求めこそ、人間の罪そのものであると見抜き、その人間中心を退け、悔い改めを求めるものです。神を求めるのではなく、神が与えて下さるプレゼント、善きもの、幸福を求めることは、聖書の信仰とは無縁のものであるはずです。先週の、石をパンに変えるという誘惑は、まさに、信仰の力によって、自分の生活を願うままに変化できることを求めることでもあります。信仰とはこの世の目に見える祝福を手に入れる方法なのでは、ないのです。そのようなあり方を、きっぱりとここで打ち壊されるのが、主イエスであるのです。
主イエス御自身にとって、石をパンに変えることによって、自らが神の子であることを確かめたいという誘惑は、厳しい誘惑であったかと思います。私は、韓国の一部の牧師たちが、40日40夜断食することを重んじるということを聞いたことがあります。詳しいコメントは控えますが、しかし、危険な考えがないかと心配します。そのような英雄的行為であっても、41日目には、重湯を頂ける保証があるのです。すでに、皆が、準備して待っているわけです。しかし、ここで主イエスは、もうギリギリの段階でまでしたので、ついに重湯を口にできるという保証はありません。そこでこそ、誘惑を受けていてくださるのです。まさに命の危険にさらされているのです。人となられたイエスさまである故に、餓死する危険性に、ぎりぎり、言わば断崖絶壁に追いやられているということです。神に愛されているはずの、神の御子であられるはずのご自分が、しかし神の愛の、言わば、目に見える証拠は、何一つない状況に落とされているわけです。まさに荒れ野の真ん中です。だとすれば、石をパンに変えることも許されているし、そうでもしなければ、そもそも人類の、私ども人間の救いは、ここでストップさせられると言う危険性を覚えても仕方ないのではないでしょうか。何よりもおそらくここで、主イエス御自身にとって、本当にご自身が神の子であることを、石をパンに変えることによって、確かめることも、まさに誘惑ではなかったかと思います。なぜなら、そこでこそ、主イエス御自身もまた、父なる神を、ただ信仰によってのみ、信じ従うことにおいて敗北させられるからです。
「星の王子さま」という書物の中に、大変有名な言葉として、「大切な物は目に見えない」という句があります。どうして、この一言が、我々の胸を打ち、深い問いを投げかけるのでしょうか。信仰者であってもなくても、まさに、地上に生きる人間は、目に見える物によって支配されていまい、それで本当に大切なものを見失い、失くしてしまうからでしょう。
たとえば、わたしは、皆様がまことに神の子たちであると、信じています。この教会は、神の子たちの集いであると信じています。それなら、私がそう信じる根拠はどこに、何にあるのでしょうか。言うまでもなくわたしは、皆様の生活のすべてを知ることはできません。家庭訪問、職場訪問をして、「ここに神の子としてのはっきりとした証拠がありますね」と、指摘することもできません。何よりも牧師の目ではなく、皆様がご自分のどこに、神の子であり、神の御心に適う点を見いだせるのでしょうか。
このことを問うときに、私どもはまさにそこで、うっかりすると目に見えるもので判定しようと心が動き始めたことに気づくのではないでしょうか。自分が神の子であり、神に愛されている証拠を、自分の生活の、目に見える何かで値踏みをするのです。もしそこで、生活が「荒れ野」であるとき、試練と苦難の場であれば、うろたえるのではないでしょうか。教会に行っても、主イエスを信じても、こんなに厳しい現実が目の前にある。いや、信じて従ったからこそ、こんなに困難な生活がある、そこで、私どもは、罪を犯すことが少なくないのです。かつて、私が高校生のとき、聖書を投げ捨てたことは、皆様に何度も申したことがあります。自分の考えているとおりに、事柄が進まなかったからです。そのとき、わたしは、これがこうなったら、はっきりとイエスさまを信じ、神のために生きて行こうと心に誓っていました。それだけに、そうならなかったとき、憤ったわけです。もう、神も聖書もインチキだと確信したわけです。これは、洗礼を受けず、教会にも行っていなかった頃の経験です。一人で、聖書を読んでいた高校生のときの経験です。しかし、私どもなお、この愚かな一人の高校生を笑えないのではないでしょうか。
自分の生活の中に、神の愛の証拠を発見し、それを頼りにして生きようとすることは、信仰にならないのです。信仰とは、目に見えない神を信じることだからです。しかしそれなら、信仰の唯一の決定的な根拠とは何でしょうか。どこにあるのでしょうか。それは、神の御言葉にあります。
先週はこの悪魔の誘惑を学ぶ上で、もっとも大切なメッセージは、勝利者イエスであられると申しました。信仰の勝利者、人生の勝利者、罪と死を打ち破られたイエスさまのおかげで、主イエスを信じる者も、人生の勝利者、つまり罪と死の力に勝利する者とされているのだ、と申しました。
今朝は、悪魔の誘惑との戦いにおけるもう一つの基本的メッセージを学びたいとおもいます。主イエスさまがなさった共通の戦いの「武器」とはなんであったのかについて確認したいと思います。マタイによる福音書がここで伝えるメッセージをきちんと受け止めたいのです。主イエスは、悪魔からの誘惑に、どのように立ち向かったのでしょうか。それは「書いてある」という言葉の繰り返しに明らかにされています。「聖書」に書いているということです。その聖書とは、私どもから申しますと、「旧約聖書」に他なりません。書かれた、記された、文書化された神の言葉である旧約聖書が、どれほど、というよりも決定的に重要であることがここで明らかにされたのです。
私どもの信仰とは、どこに基礎を据えるものなのでしょうか。それは、聖書、神のみ言葉においてです。それ以外のなにものでもありません。これは、私どもの先輩たちにとって、あまりにも自明なことであったのです。ところが、教会の歴史の中で、しだいにこの基本中の基本が見失われて行きました。書かれた聖書の言葉よりも、それを解釈する教会の方が権威がある。しかもその解釈は、教会の教師、指導者たちであるという主張が、主流になって行くのです。遂には、聖書の誤りのない解釈者は、教皇、ローマ法王であるという教えが作られるようになってしまいました。そこで、16世紀、私どもの教会の改革者たちは、否を唱えました。信仰の真理、教会の教え、教理は、聖書に記されている御言葉にのみあること、教会の権威はただ文書としての聖書にのみあるのだと、教会の基本へと立ち戻ろうとしたのです。そこに、私どもの教会の大きな存在理由、歴史的意義があるのです。ところが、そこでメデタシメデタシで終わりません。聖書のみと言いながら、結局、解釈するのは、教皇でないだけで、まったく好き勝手に、個人個人が解釈しはじめ、牧師さんたちが自分の主観にもとづいて解釈する道をも、開いていしまったからです。
そこに、私どもの改革教会が、信仰告白を制定し、聖書解釈の基準を公にしたことの意味、意義があります。さらには、長老主義政治をもって、きちんと聖書を解き明かす教師を立てることに、こだわりました。なぜなら、自由気ままに教師、牧師になることはできないことにしなければ、小さな教皇が何人も何千人も起きてしまうからです。今、私どもはあらためて祈祷会で、このことをおさらいしているわけです。
教会のこの命がけの戦いは、キリスト者個人としてもまったく同じように真剣な戦いとしなければなりません。つまり、私どもが神の子であることは、ただ神の御言葉によってのみ確かめられるものだということです。聖霊なる神は、ご自身の言葉を道具として、通路として、私どもに救いの恵みを与え、その確かさを保証し、確信させてくださるのです。それ以外のところで、救いの確かさ、自分の信仰の確信を求めるなら、それは、罠です。誘惑です。ある教会は、御言葉を強調するのではなく、結局は神体験、不思議な神秘的な宗教的体験を求めます。そのような礼拝においては、聖書の朗読とその説き明かしとしての説教ではなく、感情を盛り上げるような讃美歌を繰り返し歌うことや、さまざまな感情の点での高揚感を求めることがあります。それは、うっかりすると神を礼拝し、神に栄光を帰すのではなく、自分の宗教的な感情が満たされ、満ちあふれることを求めることへと転落するのです。
主イエスは、「書いてある」と宣言されます。確かにこれは、最初に読んだ人には、あまりにもあっさりしすぎ、あまりに単純すぎではないか、と批判する人もいるかもしれません。「もしイエスが、知識人であれば、ただ機械的に、聖書にこう書いてあると宣言して、それで終わらせるようなことはしないだろう。少なくとも、教養のある自分としては、もう少し、説得力のある仕方で説明してもらわなければ、納得できない。」そのように考える方もおられるかもしれません。それほどまでに、単純と言えば、単純です。しかし、ここで、私どもは、主イエスに徹底的に教えられたいのです。御言葉の威力、権威についてです。「聖書のみ」と教会の改革者たちから学びたいのです。神の確かさ、私どもの救いの確かさは、神にのみあります。それは、具体的には、み言葉のみにあるのです。それを信じることなしには、結局は、信仰ではないのです。
私どもが神の愛する子であり、御心に適う者であるかどうかの証拠、証明は、私どもの中に探し出すことではありません。私どもの心の内側にも外側の行いにも、根拠はありません。それはただ、私どもの外にのみあるのです。つまり、神にのみ、神の御言葉にのみあるということです。神は、今朝もこの礼拝式で、このマタイによる福音書を通して、「あなたは、わたしの御子の故に、わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と宣言してくださるのです。私どもは、これを心から感謝して受け入れ、信じるのです。悪魔は、つついて来るでしょう。「あなたの実生活を見て、家族は、あなたを神の子とみているか。職場の仲間たちは、あなたをそんなに尊敬のまなざしでみていないではないか。」こう私どもの心に囁くでしょう。しかし、どんなに厳しい荒れ野に立たされても、いへ、そのときこそ、わたしどもは外を見るのです。私どもの外を見上げる。つまり、心を高く挙げて天を見上げるのです。勝利者イエスさまを仰ぎ見るのです。そこからの宣言を聴くのです。それが、この礼拝式にほかなりません。
最後に、それなら、御言葉に書いてあるということで勝利することは、単純であるかと申しますとそうではないことが、今朝の第二の誘惑で明らかにされます。つまり、悪魔もまた聖書のみ言葉を引用することがここに明らかにされているからです。「すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」」これは、詩篇第91編11節と12節の引用です。この詩は、天の神、全能の神に身を寄せる信仰者には、神が敵の手、禍から守られることを讃美する詩です。こう記されています。「主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。」
悪魔とは、信仰者の敵です。しかも詩篇第91編は、その敵から神が守られることが約束されているのです。悪魔は、厚かましくも、自分の敗北には目を留めず、信仰者は必ず守られると書いてあるのだから、神の子のはずのイエスさまよ、エルサレム神殿から飛び降りてごらんなさいと勧めます。そうすれば、一気に、あなたが救い主であり、神の子であることを、大勢の人々に証明してみせられるではないか。この一つを実行するだけで、あなたは、イスラエルの歴史の中で、人類の歴史の中で、一瞬にして、スーパースターのように受け入れられるはずだ」と、誘惑したのです。
しかし、主イエスは、荒れ野の主なのです。私どもの人生のどん底を経験する救い主です。私どもを救うために、誰も味わったことのない苦しみを経験してくださるのです。しかし何よりもここで、この時のイエスさまにとっても、この戦いをすぐに勝利させ、終わらせ、自らが神の子であることを証明したいという誘惑は、強いものであったはずです。しかし、主イエスは、宣言されます。「イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」主イエスはここで、神の御言葉を信じることは、どのようなことであるか、御言葉を正しく解釈する道はどこにあるのかを、単純明快に示されました。それは、神の栄光を表し、神を愛する行為、神を神として正しく崇めたいという動機において聴き取り、従う、信じるということです。
悪魔は、神の栄光を表したいと願って、引用していません。もとより、自分は従いません。しかし、主イエスは、神の栄光を現わそうと、み言葉を引用し、お従いするです。
確かに、私どもは、信仰の生涯が、み言葉を聴いて従う生涯である限り、そこに一種の冒険があると考えます。あの東方の博士たちは、イスラエルの父祖であるアブラハムのように行き先を知らないままに、自分の故郷を出発した人たちであると学びました。私どもの人生は、石橋をたたいて渡る用心深さが必要ではありますし、主イエス御自身も公の生涯を開始なさるときに、荒れ野での準備期間を持ったということもできないわけではないと思います。周到な計画と準備がなければ、その働きを継続させ、成功させることは難しいことは、一般常識でありましょう。しかし、信仰は、時に、そのような余裕など許さない仕方で、出発させられることもあります。私どもの教会の開拓伝道はその典型であると思います。しかし、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」との教会の頭なる主イエス・キリストのお約束、この御言葉があったのです。準備も何もないのに、開拓伝道をする、非常識です。あるいは、教会学校教案誌の発行の経緯も似たところがあります。
しかし、それは神を試みて始めたのではありません。つまり、自分の利益を求めてしているのではないのです。そのために、神を利用しようとしているわけではありません。神を試みる。それは、神を利用することでしょう。確かに、最初は、「神が神であるなら、わたしを願ったように祝福して、幸福にしてくれるでしょう。だから、信じます。」と考えるものです。自分の病気、自分の家族の悩み、自分のあれこれをよくしてもらいたいと、それを信仰やキリスト教に求めるということはないわけではありません。しかし、そこで、このようなみ言葉に出会うのです。そうやって、信仰においてこそ、自己中心、自分の深い欲望の成就を神に求める自分の姿を知らされ、悔い改めへと導かれるのです。真実の神、赦しの神に出会うことができたからです。
思えば、主イエスさまこそは、実は、自分の願いどおりに、思うどおりに世界を動かせる神です。しかし、主は、命をかけて、命をはって、そのような道を斥けられました。主なる神を試みない。利用しないのです。かえって、主イエス・キリストは、ご自身のいのちを犠牲にして、私どもの滅びるべき命をお救いくださったのです。ここでの恐ろしいばかりの誘惑に、勝利してくださったのです。そして、十字架に死んでくださったのです。このイエスさまの愛と真実に触れるとき、私どももまた、これからの信仰の生涯の中で、主なる神を試みないこと、自分の幸福の道具として使用しないこと、心に誓えるのです。私どもは、神の愛する子とされています。もはや、私どもの幸福、私どもの将来は間違いない、明るいのです。いへ、すでにこの礼拝式の中で、私どもの究極の幸福を味わわせていただいているのです。
祈祷
命の御言葉をもって養って下さる主イエス・キリストの父なる御神、あなたの口からでる一つ一つのみ言葉によって今、人間として健やかに生きることがゆるされています。しかし、悪魔は、この御言葉を用いても、キリスト者や教会を破壊させようと今なお、たくらみます。どうぞ、主イエス・キリストの勝利にあずかる者らしく、キリストの勝利の道を歩ませて下さい。今、日本の諸教会、世界の諸教会が、御言葉を聴くことの飢饉に陥っています。聖書やキリスト教を語りながら、実際には、神を神とせず、自分の願い、欲望を神にしてしまう危険の中にあります。他人事ではありません。私どもも、福音の真理によって生きるのではなく、人間の知恵、能力、がんばり、それによって自分の信仰と生活を計ってしまうことがあります。どうぞ、目に見えない神を信じる信仰を、御言葉に真実に、そして堅く立つ信仰を、いよいよ深めて下さい。