★ 本日は、浜松伝道所に参ります。代理宣教教師としての重要な責任です。先週の朝の祈祷会での学びでは、久し振りに「中会なくして教会なし」と申しました。わたしは、「中会の教師」でもあるのです。各個教会に仕えるということは、中部中会形成、そして大会形成、そして日本キリスト改革派教会以外への奉仕もその射程に入るわけです。教派主義(自分の所属教会が絶対)ではなく、公同(カトリック)教会の形成こそ、日本キリスト改革派教会の形成の眼目なのです。
★ 「光の春」という素敵な言葉を、最近、知りました。2月の日射しの中に、確かに春の到来を見ることができます。私どもは、礼拝式のたびに、「光よりの光」と、ニカヤ信条によって御子なる神を讃美しています。(礼拝堂正面の丸窓は、ただデザインのためだけではなく、わたしどもにまっすぐに射し込む真の「光」、命の光をイメージさせるものです)私どもの礼拝堂は、ちょうど、朝の光が差し込みます。太陽の光のせいではなく、光なる主イエスのおかげで、私どもの礼拝式こそ、「光の礼拝」となるのです。
☆ 洗礼者ヨハネが施した洗礼には、「暗さ」が伴っていたのではないかと、説教で申しました。ヨハネは、「悔改めの表明、しるし」としての洗礼を施しました。もとより、神の御心に適う洗礼でした。神の預言の成就だからです。しかし、私どもが施されたあの洗礼式とは、まったく違います。確かに、私どもも、罪を告白し、神へと悔い改める洗礼を受けました。しかし、私どもの洗礼(礼典)とは、そこに留まらず、主イエス・キリストとの交わり、結合のしるし、保証です。罪人は、何度、悔い改めを誓い、表明しても、それで済ませることはできません。地上にある限りは、私どもはその全生涯、全過程において悔い改めが求められます。荒れ野での純粋な決心は、エルサレムの町に戻ってもいつも新しくされているわけがありません。しかし、あの洗礼式に、人となられた御子イエスさまが、来られ、自ら洗礼を受けられました。そのようにして、神の御心を実現し、御心に「適った」のです。わたしども罪人と連帯し、その保証人となられたのです。悔い改めの善き実りを結ばない者たちを、切り倒す斧、永遠の火に放り込んで焼きつくす火であられるメシア御自身が、悔改めの洗礼を受けられたのです。洗礼者ヨハネが驚いて、やめさせようとしたことはよく分かります。ヨハネ自身は、洗礼を施せば施すほど、人間の罪の現実の深刻さ、神の怒りの重さへの認識を深めたと思います。しかし、この時から、彼の洗礼にも光が射し込んで来たでしょう。
★ 主イエスの洗礼は、私どもの救いのためでした。主イエスの洗礼は、私どもの洗礼のひな形です。あのとき、主イエス・キリストと結ばれた洗礼を受けた私どもは、主イエスが経験した天からの声を、聴きとることが許されます。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」私どもの全存在を赦す宣言です。神の子として受け入れる宣言。キリスト者として完全な者という宣言なのです。それを、私どもは今朝も、この主日礼拝式で聴きとることができます。それを聴く手段、神が与える手段が「説教」です。そして、そのような救いのみ業が今朝も、この礼拝式で起こるのです。礼拝式の祝福の重さを、いよいよ深くかみしめましょう。この幸いにまさる価値も宝もありません。主の日を重んじ、この祝福へと隣人を招き入れましょう。
☆ 先週の祈祷会では、教会形成にとって終末論的に考えることの重要性を再確認しました。終わりの審判に耐え得る教会です。それを、かつて「歴史の審判、評価に耐え得る教会」と申しました。同じことです。 終わりから見ることが、神学的な思考の基本なのです。それはまた神の見方なのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」これは、洗礼受領者への宣言であると上述しました。一般的に言えば、ありえない評価です。非常識です。しかし、これが、神御自身による終末論的人間理解なのです。つまり、神は、私どもを「最後の時」「最後の審判」からご覧になられるということです。天国に入れる人の条件は、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との宣言を受けた人、その人だけです。洗礼は、キリスト者の生活のスタートラインにつくことを意味します。 ウサギとカメのお話を思い出してください。カメは、その第一歩で、すでに勝利者となっているのです。ウサギを見ないで、ゴールを見る、神を見ているからです。カメの人生は、比較して生きる人生から、自分の人生を真実に生きる人生になっています。同じようにキリスト者も、勝利者とされて始めるのです。「人生、最後まで何があるか分からない・・・。」確かにそうです。しかし、何があっても、私どもの勝利は揺るがないのです。学生であれば、学期の最後に試験が待っています。試験の前に、いへ、授業が始まった瞬間に、あなたは合格です、などという虫の良い、オイシイ話はありません。 ところが、私どもの神は、人間を、私どもを、「キリストの故に!!」最初からそう見て下さるのです。