「神の恵みを生きる結婚生活」
2009年8月9日
テキスト マタイによる福音書 第5章27~32節
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。
「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
先週学んだ主イエスのみ言葉は、心の中で、人のことを裁いたら、それは神さまの前には、死刑に相当するほどの罪を犯していることになるというものでした。誰かに向かって、バカと言い、愚か者と口に出したら、地獄に落ちると言われました。先週の説教の中で、極論という表現を用いました。しかし、今朝のみ言葉もまた、一回聞いたら忘れられない深い印象を与えるものではないかと思います。
特に、男性においてはなおさらと思います。とりわけ性的な関心が芽生える思春期、青少年の仲間たちにとっては、おそらく衝撃的な主張、内容だと思います。それだけに、正しくみ言葉を聴きとらなければ、私どもの信仰生活がぎこちのないものとなってしまうと思います。どれほど、大切な箇所でしょうか。今朝の説教、毎回のことですが、それこそ、聴きそこなったり、聴き間違ってしまったら、私どもの地上の生涯において、それこそ決定的な損失となります。
このみ言葉の解釈を間違えるなら、人間の社会にとって危機をもたらすとも言えるでしょう。実際、ロシアの文豪、トルストイという作家は、このみ言葉を字義どおり受け止めて、結婚そのものを否定したと言います。ある書物からの孫引きで恐縮ですが、ある人がトルストイに、「それなら人類は絶滅しますね」と尋ねた時、「それでもかまわない」と答えたそうです。どこでトルストイがそう語ったのか、分かりません。しかし確かに、彼は、キリスト教とは、山上の説教だけがあれば、他はなにもいらないと主張しました。それが、トルストイのキリスト教です。その意味で、トルストイの主張に学ぶべき点、その文学作品の価値はきわめてすぐれたものですが、キリスト教の理解という点では、到底、受け入れることはできません。
さて、主イエスさまがここで語られた教えとは、果たして、トルストイが考えたように、男性と女性との性的な関係、結婚を否定的に見ておられるのでしょうか。結論が申し上げれば、それは、まったくありえないことです。まったくの誤解と言わなければなりません。旧約聖書において、男女の関係を尊いもの、神聖なものとして肯定的に積極的に教えている宗教書は、他にあるでしょうか。私どもの創造者なる唯一の神は、人間の性を祝福し、産めよ、増えよとお命じになられました。そうであれば、男女の関係や、結婚を否定する神を想像することはできないはずです。聖書そのものを全否定することにもなりかねません。
イスラームの教えによって成り立つ国の中で、私たちがよく目にし、時に、不思議に思うことの一つは、女性たちが顔をそっくり隠しているということです。それは、イスラムの掟に基づくのだと言われます。女性が肌をあらわにせず、顔を隠して街を歩いてもらえば、男性は、みだらな思いをわかせずに済むから、ということなのでしょう。男性が神の掟を破るように誘惑させないということなのでしょう。そこには明らかに、男性中心の社会という前提があると思われます。ただしそれで、男性への誘惑は完全に消し去られるということにはならないと思います。
聖書の教え、キリスト教にはそのような考えがありません。主イエスは、そのようなことをまったく考えておられません。この説教においても、女性は、男性を誘惑しないようになどと仰っておられません。むしろ、話は正反対です。ここで問題にされているのは、まず男性なのです。ここでは、不思議なくらいに、女性の責任には直接的には触れられていません。そこにすでに、主イエスの大きなメッセージが隠されているともいえると思います。
先ず、ここで主イエスのみ言葉を正確に聴き取りましょう。まず、「姦淫」とは、何でしょうか。それは、結婚している夫婦、婚姻関係にある男女が、その契約を破って他の異性と関係を持つことです。
次に、「みだらな思いで」とはどのようなことでしょうか。これは、ここでは結婚している女性に対して、その女性を、結婚の関係を破り、破壊して、自分のものとしたいという思いです。行動に移さずとも、そのような思いが姦淫だと指摘されたのです。そうなると、男性が、女性をきれいだとか、素敵だという憧れる思いで見ることが、「みだらな思い」と言われていることではないことが分かると思います。
そして、そのような説教を通して、主イエスが語り、明らかにされる人間の現実とはどのようなものなのでしょうか。それは、2000年の昔も、今も変わらない問題です。いへ、おそらくはるかにひどくなっていると思います。現代の世界は、女性をまるでモノ、商品として売買することが起こっています。売春、援助交際などの問題はその典型でしょう。そこでは、人間と人間とが真実に出会うことはありません。お互いを利用する。モノとして利用するだけでしょう。お金で買う。それは、人間をまさに買うのです。人間は、モノではありませんが、モノにするのです。特に、日本人の男性が世界で、アジアでどのように見られているか、それは、まさに恥ずべきことです。
主イエスが、この説教でえぐり出す現実とは、それです。人間の罪、人間の尊厳を軽んじる罪をえぐり出すのです。男性と女性とが、お互いを人間として見る、出会うことができない、この現実です。先週は、「腹を立ててはならない、」という説教をききました。それは、人殺であること、十戒の第6番目の戒めを破ることでした。今朝は、「姦淫してはならない」です。これは、十戒の第7番目の戒めです。実は、姦淫することもまた、殺人と同じ次元の問題を明らかにしているのです。この二つとも人間のいのち、その命の重さを問題にしているのです。実に、姦淫してはならないということは、人間の全存在を重んじなさい、生かしなさい、姦淫によって殺してはならないと説かれているのです。姦淫の問題は、人間の命そのものを問う、地上における命の尊厳そのものを問うことなのです。現代社会は、いよいよ人間を、人間そのものとして重んじることができない社会となっています。戦争はその典型です。しかしおそらく、現代の日本人にもっとも身近で、もっとも深刻な問題は、むしろ、この性の問題であろうと思います。
次に主イエスが語られたのは、離婚の問題でした。2000年前の昔、ユダヤ人男性は、自分の一存で、一方的に妻に離縁状を出すことによって離婚を成立させることができたと言います。実に、乱暴、横暴なことです。当時、女性は、まったく弱い立場に置かれていたわけです。主イエスは、まさにそのような女性をここできちんと守られます。そのような横暴なふるまいは、妻に姦淫を行わせること。それは、むしろその男性の責任であるということです。そうであれば、離縁状を出した夫自身が死刑にされる、石打ちの刑にされなければならないのだとお語りになられるのです。ここに、社会的に弱い人たち、女性へのいたわりの視点を主イエスが、ここで鮮やかにお示しになられたことが分かります。
私は、先週から、一冊の書物を読み始めています。ローマ教皇庁、正義と平和評議会が出した最新刊、「教会の社会教説綱要」という500ページにわたる書物です。これは、ローマ・カトリック教会として、キリスト者が社会に関して、社会のなかでどのように生きるべきか、この100年余りの教会が公にした宣言や文書を要約し、整理したものです。信徒に社会生活における指針を示す書物です。ローマ教会の信徒の方々にとっては、決定的に重要な書物だと思います。その中で、確認させられた一つのことは、ローマ教会にとって結婚また離婚ということが、今も大きな主題となっているということです。それは、逆に言えば、ローマ教会が、結婚の倫理をどれほど重んじているかということです。端的に申しますと、ローマ・カトリック教会は、理由のいかんによらず、離婚を認めないのです。そのことは、すでに30年前に知っておりました。しかし、この最新刊の社会教説の中に何かしらの変化があるのかと思い読みました。ところが、ありませんでした。その意味では、ローマ教会のこの点での教え、宣言にまったく変化はありません。ブレがありません。ただし、離婚した人々への配慮の必要性が細かく記されたことは、昔とはずいぶん異なっていました。注目すべきことと思います。
わたしは、しかし、もしも、ローマ教会が自分たちの教会の掟と定めた離婚は認めないという掟の聖書の典拠として、今聴きました、主イエスの説教を挙げるなら、それは、厳密に言えば、ここでの説教の意図を正しく受け止めていないと思います。
また、それは、私ども福音主義教会の離婚についても同じだとおもいます。プロテスタントの立場は、離婚を限定的にみとめます。その限定とは、主イエスがここで明らかにされた「不品行」にあります。相手が姦淫を犯した、不倫をしたというのであれば、離婚を認めるのです。私どもで申しますと、ウェストミンスター信仰告白第24章に、さらに丁寧に記されています。不品行という条件に加えてもう一つ、遺棄です。つまり、夫か妻か、どちらかが自分勝手に、一方的に結婚の生活を放棄し、配偶者から離れてしまう、棄て去る場合です。この遺棄の問題は、現代社会においては、さまざまな側面から解釈する必用が生じています。「信徒の手引き」の改訂の作業のなかで、ある教師は、そのところで、離婚が成立する条件として、家庭内暴力、アルコールとかギャンブルとかの依存症なども挙げておられます。
私どもであれローマ・カトリック教会であれ、ここでの主イエスの説教を、離婚が許される条件、基準を提示するもの、あるいは、離婚は絶対認められないという、その判定基準を示していると解釈するなら、少なくともここで主イエスが仰ったこと、この説教のメッセージを聴きそこなっていると言わなければなりません。
この説教の意図、メッセージは、どこまでも、お互いの性をまるでモノであるかのように見なし、人間の尊厳、いのちの尊厳を破壊する考えと行動を徹底的に批判するものです。そして第二の説教では、当時の圧倒的に社会的、宗教的に弱い立場に置かれていた女性たちのいのち、今日の言葉で言えば、人権、人格を徹底的に重んじるべきであるという、2000年前の社会ではほとんど革命的な考えを、明らかにされたということです。
それは、まさに2000年後の今日の私どもの課題に他なりません。性を商品とし、産業とし、人間をまさにモノとして売っています。それは、男性だけではなく、女性自身の問題にも広がっていると思います。その意味で、女性が男性を捨てるということもあるかもしれません。どちらもの問題でしょう。そこで人間が何をしているのでしょうか。人間の尊厳を自分たちで破壊しているということです。動物以下のことをしているわけです。動物どうしが、本能のままに行動することは、まったく罪でもなんでもないことです。しかし、人間は、そこで動物以下になるのです。それは、神に似せて造られた人間が、人間の尊厳をお互いに破壊しあっているからです。
結婚は、一人の男性と女性との間の全人格的な関係です。二人は一つと結ばれるそのような、神のいのちの神秘にあずかることです。それは、主イエスのこのみ言葉によってこそ、まさに明らかにされたと言うべきです。まさに、「わたしは言う」と主イエスが仰るのはそういう意味です。旧約聖書の父祖アブラハムは、一人の妻だけではなく、多くの妻を持ちました。しかし、主イエスによって、もはや、そのような一夫多妻は、克服されました。アダムが堕落する前の状態へ、もともとの神のご計画へと、取り戻されるのです。その意味で、この一夫一婦制を破壊する姦淫は、人間の命を殺すことであり、同時に神への反抗となるのです。主イエスが、結婚の制度を、まさにいのちがけで守るようにと呼びかけらた、そのすごみ、その真剣さが分かるのではないでしょうか。
ヨハネによる福音書第8章の中で、姦淫の現場で逮捕された女性と主イエスとの出会いの物語が記されています。律法学者たちの企てで、彼女が、律法の規定に従って、石打ちの刑に処せられようとする場面で、主イエスは仰いました。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」ところが、これを聞いていた者たちは、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って行きます。残ったのは、姦淫を犯した本人と、イエスさまの二人だけです。彼女は、このイエスだけは、わたしに石を投げる権利、権威をお持ちなのだと覚悟したでしょう。まさに、イエスさまは神の御子ですから、姦淫の罪をどのような基準で判定してもおかしたことはないのです。まさに、主イエスだけは、姦淫を犯す人間を裁くことができるお方なのです。
ところが、その御子が、石を投げませんでした。そうなると、まさにこの出来事は、この世の中で、裁判を否定するかのような誤解を生じます。それゆえに、教会は、この物語をヨハネによる福音書の中に入れることに対して、実に議論を重ねて900年ほどかかったといわれています。いや、今でも、この箇所は、私どもの聖書のなかで、亀甲のカギカッコのなかに括られて、収められています。
もとより教会はこの世の裁判を否定しません。むしろ教会には、教会独自の法廷を整えています。私どもの教会の憲法の一つ、訓練規定には、その裁判執行の手続きが詳細に記されているわけです。改革派、長老派教会は、その意味ではローマ・カトリック教会どうよう、教会にとっての裁判、法がどれほど大切なことであるか、弁えていると言えます。
それなら、なぜ、罪を犯したこの女性を、「もう罪をおかしてはならない」と戒めるだけで、去らせなさったのでしょうか。主イエスは、この女性の罪を決して、軽く見られたわけでも、放置なさったわけではありません。厳しく二度と罪を犯してはならないといさめられました。そして、この後、すぐ、御自身が、彼女の罪を償われることを、主イエスはご存じなのです。十字架の上で、主イエスは、彼女の罪の身代りに神の呪いを受け、神との交わりが絶たれるという永遠の死、究極の死をもって処罰されます。それほどまでに、主イエス御自身が、姦淫の罪と、ひとりで戦われ、人間を、神の御前に生きるようにと取り戻されるのです。
主イエスは、性的な思い、性欲を失くしてしまえなどと、一切語っておられません。魂は清く、肉体は汚れている、だから肉体の支配を脱して、精神の世界を重んじる。これは、ギリシャの哲学の伝統です。また、仏教の教えのなかにもあります。確かに、肉体の欲望は、精神の生活、活動によってコントロールされなければならないものです。しかしそれは、肉体が汚れたものだからではないのです。
私どもにとって、わたしがここに生きている、わたしであるということは、この肉体あってのことです。肉体のないわたしなどは存在しえないのです。今ちょうど、私たちの教会が発行している聖書日課「リジョイス」で、使徒言行録の第17章が取り上げられています。ギリシャの哲学者たち、市民は、パウロが体の復活を、福音として語ったとき、その話はまた後日と言って、聞こうとしませんでした。それは、一度死んだ人間が復活するなどありえるわけがないという素朴な反発だけではありません。むしろ、パウロが、体、肉体の復活を説いたとき、まさにそこで、キリスト教を程度の低い教え、哲学だと考えたからです。彼らにとって肉体とは、魂の牢獄であると考えていたからです。魂と肉体とは相互いに挑み合って、しばしば魂の世界、すぐれた永遠の世界のすばらしさを破壊するものであると考えられていました。ですから彼らにとって肉体の欲望から解放されて、精神の生活、魂の生活を、人間として最も重んじ、それを追求したわけです。それこそ、人間としてすぐれた者となる道であり、人間の幸いはそこにあると考えたのです。
ところが、聖書は、まったく違います。聖書の教えは、人間にとって精神と魂と体とは、それぞれ別別に分けることはできません。不可分なのです。統一した一つの存在です。神さまは、人間の体を創造し、神の命を吹きいれられました。それが人間なのです。それゆえに、体の復活なしには、天国における永遠の生活も成り立たないのです。その体を大切にすること、それが、信仰の生活、信仰の世界です。その意味で、キリスト教において肉体の欲望を切り捨てることが優れたことだとは決して言いません。もし、ここでの主イエスさまの説教をそのように考えるなら、それは、大きな誤解と言わざるを得ません。
もとより使徒パウロがローマの信徒への手紙で厳しく否定した、倒錯した人間の性的な欲望の問題はあります。今日、大手をふるって主張されています。彼らの人格の尊厳が軽んじられ、差別する社会のあり方は、キリスト教として批判することはできますし、そうすべきですが、その主張じしんを支持することは、できません。
神の前に生きる。そこには、当然、霊的な、肉体の欲望と戦う霊的な戦いが伴います。肉体をコントロールする戦いです。それは、決して、ギリシャの哲学者たちに同意しているからではありません。人間の命を重んじるためです。性の問題は、命の問題そのものだからです。人間の地上における存在そのものを問うことだからです。肉体をもった人間として、その肉体の本来の輝き、喜び、すばらしさを生きること、それをこそ、主イエスはここで求めておられるのです。それを、第三者が破壊し、自分で破壊してはならないのだと主イエスは、厳しく問われるのです。
最後の最後に、若い方々に申します。この時代の圧倒的に多くの人たちが、神のみ言葉を知らず、知りながら無視しているさまざまな性的な誘惑、この世の常識とマスコミで宣伝されている考えに抵抗しましょう。とても単純なことです。わたしは、「子どもカテキズム」の第七戒にこう記しました。「第七戒で神さまが願っておられることは、何ですか。 神さまが、私たちに結婚の祝福を与えてくださいました。ですから、男の人と女の人との関係を、清く保たなければいけません。神さまは、結婚によって、赤ちゃんを与えてくださいます。私たちは、そのときまで、性の関係を持ちません。」結婚するまで、男女の関係を持たない。それは、神が私たちを祝福してくださる筋道なのです。異性を、その全人格を尊重する、そこに人間と人間との真実の出会いがある、結婚において、その祝福は、頂点を迎える。だからこそ、主イエスは、語られたのです。それを、愚直でも、守ること、そのようにして自分の全存在を重んじたい。異性を、特に愛する人の存在を守ることが、主イエスがここで示して下さった命の道なのです。具体的に言えば、祈り求めることです。結婚の相手を、神に祈り求めること、出会いを求めるのです。早すぎることはありません。
いずれにしろ、私どもは、この点においても又、実に弱いのです。だからこそ、主の助けと憐みによりすがるのです。
すでに結婚の生活を重ねている私どももまた、今一度、伴侶との関係を見つめ直したいと思います。多くの方が、結婚してからキリスト者になったと思います。「この人とは、洗礼を受けるまえに結婚したのだから、神さまの御心の人ではない、神さまの祝福にあてはまらない結婚である」、もしも心のなかで、心のどこかでそのような思いが湧くなら、それは、歴史の支配者、主権者なる私たちの神、摂理の主なる神を裏切ることになるのです。伴侶を、受け止め直し、地上において与えられた結婚生活、家庭生活を立て直して行きたいと思います。
私どもはひとりひとり、それぞれ異なる課題を持ち、また傷を持ち、そして悩みを抱えながら一生懸命家庭の生活、地上の旅を進んでいると思います。しかし、私どもは、その生活の丸ごとを、主イエスとその御言葉に委ねましょう。委ねることができるし、委ねなければなりません。そのとき、主イエスのみ言葉に導かれ、そして十字架の赦しと救いのなかで、いよいよ心も体も魂も主の愛と恵みに満たされ、健康な歩みとして整えられるからです。
祈祷
どれだけ大勢の人たちが、性の問題で悩み、あなたに罪を犯し、また隣人を傷つけ、その人間性、そのいのちを殺してきたことでしょうか。今もなお、その罪の力が我々に襲いかかります。主イエス・キリストの父なる御神、あなたは弱い立場に置かれた女性を顧みられました。主イエスは、その愛と熱情をもって、その命をかけて人間を健やかな人間に取り戻すべく戦って下さいました。私どもが地上にあって健やかに生きる道を切り開き、示して下さいました。私どももまた、何度も心において罪を重ねる弱い者です。しかし、絶えず、悔い改めながら、地上の人間としての歩みを、人間らしく生き抜くことができますように導き助けて下さい。信仰と聖霊で満たして下さい。アーメン