「敵を愛された主イエス」
2009年9月13日
テキスト マタイによる福音書 第5章43~48節
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
今朝、与えられたテキスト、これは、敵を愛すると書いて、「愛敵」の教えと呼ばれている個所です。ひと言で言えば、驚くべき教えです。とてつもない教えと表現することもできるかもしれません。第一印象としては、「こんなのは、あり得ない」と言う印象を持たれる方も少なくはないと思うのです。まさに衝撃的です。
さて、主イエスは最初に「隣人を愛し、敵を憎め」と仰せになられました。「あなたがたはこのように聞いているだろう。」と仰います。しかし、私どもは、「仰る通りです。」と受け入れるのに、ためらいが生じるのではないでしょうか。「あれ、本当にそうなのか」戸惑うのではないでしょうか。何故なら、旧約聖書のどこを探しても、「敵を憎め」という御言葉は見当たらないからです。その代わり、「隣人を愛しなさい」という御言葉を、聖書の中に探してみますと、レビ記第19章18節にそっくり同じ御言葉を見ることができます。読んでみます。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」とあります。敵を憎めではなく、むしろ、復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。と敵を赦すように呼びかけているように聞こえます。先回学びました、このテキストの直前の主イエスのご命令に即しています。旧約聖書のレビ記は、神の民が、自分じしんで復讐することを禁じていると、そう解釈できると思います。
それなら、主イエスがここで「あなたがたが聞いているとおり」と仰ったのは、実は、旧約聖書の御言葉ではないということが分かります。むしろ、ユダヤ人たちが自分たちでつくり、言い伝えてきたタルムードいわゆる口伝の律法の中で聞いてきた教えであるわけです。主イエスは、その意味で、ユダヤ人たちに対して、自分たちの教えにしか過ぎない口伝律法に基づく宗教を打ち破るようにお求めになられたと理解することもできるでしょう。ユダヤ教とは、私どものように旧約聖書を新約聖書によって解釈するのではなく、律法学者たちの教えの集積であるタルムードによって解釈するのです。結局、自分たちの信仰と生活の権威をタルムードの上に置いているわけです。わたしは残念ながら、タルムードは、基本的に翻訳されないものですから、直接に確かめてはおりません。「敵を憎め」という明白な教えがあるのか、はっきりとしたことは言えません。しかしタルムードの部分訳、抜粋などを読んでみますと、敵とは、異邦人のことなのですが、異邦人を徹底して敵視する言葉があふれているのは事実です。
いずれにしろ当時のユダヤ人は、主イエスが「隣人を愛し、敵を憎め」と語られたとき、違和感なく聞いたのだと思います。「そうそう、自分を愛してくれる人のことは、自分自身もまた愛したい。そのように自分を大切にしてくれる人なら、好意をもって、優しくしてくれる人なら、愛するのは当然。」そう思ったと思います。反対に、「自分の方に非はないと思えるのに一方的に攻撃し、迫害する人、つまり敵ならそんなひどい奴は、愛する必要などない」とそう考えたと思います。しかしそれは、ただユダヤ人だけの感想ではないと思います。わたしじしん、私どもも同じではないかと思うのです。敵を愛し、迫害する者のために祈るだなんて、およそ非現実的な教えではないか、そんなことは、できるはずはないではないかと、反発する思いすら湧き出すかもしれません。
しかし、主イエスは、このような私どものあれこれ思い乱れる心に向かって、高らかに福音の真理を宣言されます。「しかし、わたしは言う」「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。」主イエスは、これまでのようにここでも、何もまったく新しいことを語られたわけではありません。ただ、旧約聖書の正しい教えを、さらに鮮明にして見せて下さるだけです。
ただし、旧約聖書の教えが、ここでまったく新しい響きをたてて私どもに迫ってくるのも事実であります。それは大切な点です。そこに、新約聖書の存在価値、存在の重みがあります。この古い教え、旧約聖書が、新しい響きをたてて私どもに迫ってくるのは、この教えを実際に一人の人間が、実現されたからなのです。それが他ならない私どもの救い主でいらっしゃるイエスさまです。このように旧約聖書の正しい教えを解き明かされた主イエス・キリストごじしんが、実際に、この教えを実践なさったのです。実行なさったのです。そこに、この教えが絵に描いた餅ではなく、単なる理想でもなく、まさに神からの人間の真実の要求であり、同時にそれは、イエスさまという一人の人間によって完全に、言葉の正しい意味で、完全に、完璧に実現されたのです。
わたしは、この愛敵の教えを、読みながら、一人の有名な牧師の入信の証を思い起こします。その青年は、戦争が終わり、大学生として生活に戻られました。しかし精神的な空しさを抱えて、さまよっていたそうです。しかしあるとき、「敵を愛しなさい。」という主イエスの御言葉、聖書のこの言葉を読んだのです。まさに、圧倒されたと仰いました。この青年にとっての敵とは、アメリカでした。そればかりではなく、彼は周りの人間たちすべてを敵と考えていたと言います。キリスト教についても、そんなものはアメリカの宗教で、今は、ちやほやされているけれど、ぜったいになびくものかと考えていたのです。しかし、この御言葉を聞いて、求道が始まってしまったというのです。「キリストという男は、こんなことを命じているのか。もしかするとここに本物があるかもしれない。」こうして、聖書を学び、イエスさまに出会って、ついには神学校に入り、牧師になる。
敵を愛すること、それは、誰でも真剣になれば、とんでもない命令であると思います。自分の存在を揺るがすようなものすごい命令です。もしも真剣に、この御言葉を生きよう、実践してみようと考えれば、ただちにとてつもない高い壁にぶち当たるような思いに打ちのめされると思います。
さて、この命令の直後に、こう語られた御言葉に集中しましょう。45節、「あなたがたの天の父の子となるためである。」この御言葉を読むと、まさに茫然とさせられると思います。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈るなら、神さまの子どもとされる。そう読めるからです。言わば、自分を愛してくれる人だけ愛し、自分の兄弟だけに挨拶するのではなく、敵を愛さなければ、救われない、天国に入れないのだと、そう読む、聞きとってしまいかねないと思います。それは、48節「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」この結論の命令によって、敵を愛するという行為が、神の子としてのふさわしさ、その条件なのだというような解釈へと強く導くものとなると思うのです。
しかしそれは、誤解です。間違いです。もしも、そうであれば、いったい誰が天国に入りうるのでしょうか。いったい誰が神の子、父なる神さまの子どもになれるのでしょうか。ここにいる誰が、いへ、歴史においていったい誰と誰とが天国に入れるのか、そういう議論になるはずです。先ほどの詩編を歌ってダビデはどうなるのでしょうか。旧約聖書の偉大な信仰者たちの中でも、誰がこの掟を完全に実践しえたのでしょうか。そう考えて参りますと、歴史上の人物を探すより、旧約聖書の人物を一人ひとり検証する方が簡単ですし、大切でしょう。そして、結論は、ただちに下せるはずです。誰もいない。誰一人として、この掟、天の父の完全さを備えた人間はいないのです。いるはずがありません。罪人になってしまった人間、アダムが罪を犯して以来、もはやこの点で誰一人として罪の力と罪の失敗から自由になった人はいないのです。それは、聖書が淡々と、しかし厳しく描き出しているはずです。
また、ローマの信徒への手紙第3章にこうあります。「正しい人はいない、一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。」使徒パウロが描き出した私どものあるがままの姿です。真実の姿、本性です。罪人とは、まさにこれほどまでに罪に染まっているのです。口は、呪いと苦みで満ちている。自分の痛いところに、弱いところに塩を塗るような人は、咄嗟に憎しみ、憎悪を抱き、呪いの思いを抱くのです。このように記したパウロじしん、自分を外に置いていません。自分の棚に上げて言っているのではありません。自分こそ、その罪人の中の罪人、罪人の頭であると言いました。
それなら、なぜ、イエスさまは、このような恐るべきことをお命じになられるのでしょうか。それは、ご自身が、この神の要求、神の完全さを実現なさったからです。神の独り子であって、人間となられたイエスさまただお一人が、ご自分を呪い、憎しみ、殺す敵対者を赦し、愛されたのです。
まことにイエスさまはとんでもないお方です。その敵を愛する愛が十字架の死において明らかにされました。十字架は、イエスさまがご自分を殺す憎しみ、呪い、迫害に勝利する方法でした。十字架から降りてこないこと、彼らに反撃しないことによって、彼らの罪をご自分が受け止め、彼らの罪を担われたのです。
敵を愛すること、それは、人間の業ではありません。人間の自然ではない。もしもそれが起こるなら、それは超自然的な力が働くときだけです。しかし、イエスさまは、人間にとってはそうだけれども、敵を愛することは、神さまの方では、実は、とても自然なことなのだと、ここで教えてくださいます。それが、45節の後半です。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」
天の父なる神さまは、悪人にも正しくない者にも、太陽を昇らせて、雨を降らせて命を守り、育まれるのです。この恵みは、そんなことは当たり前だと思うかもしれません。太陽は昇れば、すべての人を照らして、えこひいきはできない。自然の摂理だと思うわけです。雨が降るのも、傘でも立てない限り、選べない、雨が意思をもって恵もうとするひとだけに降り注ぐことはありえないのです。
主イエスがここで明らかにされるのは、そんなことは当たり前と、そう思うように、神が、敵を愛されるお方であられることは当たり前なのだとそう仰るのです。しかし、この主イエスの説教の一つの急所はここにあります。神が、あの人この人のことではありません。この私を愛して下さる。それは、当たり前のことなのでしょうか。違うのではないでしょうか。
これが分かるか分からないか、それがキリスト者になるかならないか、信じられるか信じられないかの分かれ道です。まさに岐路に立たされるのです。
あなたの上に今朝も太陽が昇ります。それは、あなたが善人だからですか。この問いにどうこたえるのか、これが救いの分水嶺になります。自分のことを、善人とは、言わないが、少なくとも悪人ではないと思う。だから、太陽を昇らせ、雨を降らせていただくことは、特別のことではない。当たり前のこと。もしも、あなたがそうご自分のことを認識なさるのなら、それは、神の驚くべき愛と恵みに気付かずに終わってしまうのではないでしょうか。
しかしもしも、ああ、こんな悪人のこんな正しくない私にも神が命を与え、守りを与えて下さるのは、神の恵みなのだと気づけば、まさに、神の敵である私を愛する神の驚くべき愛を知るのです。
主イエスは、ご自身の父なる神を、丁寧にこうお呼び下さり、私どもにご紹介してくださいました。「あなたがたの天の父の子となるためである。」「あなたがたの天の父が完全であられるように」
天の父なる神。それは、先ず、何よりも御子なる神イエスさま、主イエスにとってそうお呼びする権利があるのです。イエスさまだけしか、神を父と呼ぶことはできないはずです。イエスさまだけが神の子、独り子、御子だからです。そして、イエスさまは、御子でいらっしゃるゆえに、完全なお方でした。完全に愛と赦しに生き抜かれたお方でした。
そのイエスさまが、私どもに向かって、心からこう仰います。「あなた方の天の父。」それは、悪人であって、正しくない者であるわたし。罪人である私、愛に生きることにおいて、常に敗北する私。こんな私、あるがままのこの私のことを、もうがっちりと方を抱いて、わたしの父は、あなたの父でもいてくださるのだ、と宣言されるのです。あなたが、愛に生きるから、赦しに生きるから、生きているからではなく、そのようなことは一つも条件に入っておりません。まったく入っておりません。一方的に、主イエスが、紹介なさるのです。わたしの父はあなたがたの父。それは、太陽と雨があなたに登り、降り注ぐように確かなことではないか。信じる人だけに、恵みを注いでいるわけではないのだ。そう主イエスが教えて下さったのです。
わたしはかつて、神さまの愛は、キリスト者にだけ、信じる人にだけ及ぶのだと勘違いして、神に怒り、憎しみや反発を覚えました。しかし、そうではなかったのです。聖書に鼻をかんで、捨ててしまったのは、そのせいです。しかし、神は、そのような人間にも恵みと憐れみを、愛を豊かに示し、注いで下さいました。
私どもは、今、このあるがままで神に赦され、愛されているのです。おそろしいまでに真の愛です。キリスト者だから、赦しに生きている立派な信仰者だから神の愛が昇り、注がれているわけでは、決して、まったくありません。あるがまま、神が愛でいらっしゃり、御子イエスさまが私どもを愛して下さるから、理由はそれだけです。
この神の完全な愛、愛の完全のなかに、私どもは招かれています。主イエスは、この愛の中で生きなさいと招かれたのです。私どもが今、神に大切にされ、あるがままで赦され、愛されていること、ここに私どもの幸い、神の恵みがあります。
確かに私どもは、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」との御言葉を読むと、すぐにたじろいで、主イエスがこの説教に込められた、神の愛の完全さ、限りなさを見失ってしまうかもしれません。しかし主イエスは、ここでいの一番に、このように告げようとされたのです。「神の計り知れない愛が、無限にこんな罪深いあなたにも差別なく与えられているではないか。それは、あなたが神の恵みを注がれるにふさわしいからではなく、むしろ、神の敵であったときから、神を認めず、神に従って、神のために生きようとしなかったときからすでに、この愛の中で、あなたは守られて来たのではないか。」
しかも主イエスは、弟子たちに、ご自身の父なる御神を、「あなた方の父なる神」と指し示してくださいました。つまり、主イエスは、私どものお兄さんになってくださったということです。私どもの兄弟の一人となって、私どもの家族となってくださったからこそ、イエスさまの父は、わたしの、私どもの父となっていてくださるわけです。このような神の恵みと愛に、弟子たちはあずかっているからこそ、主イエスは、上から目線ではなく、「あなたがたも完全な者となりなさい。」と、神の愛に応えて生きて行きなさいと招かれたのです。肩に力を入れるような生き方へと押しやるのではありません。この命令は、招きです。神の愛への招きなのです。神の愛に応えて生きる特権、神に感謝しながら生きる人生への招きです。
先週、求道中の友との学びの中で、子どもカテキズムの第三部の冒頭をおさらいしました。「生活の道」を学び始めています。問い37「神さまが人に求めておられることは何ですか。」答え、「神さまがわたしたちに求めておられることは、感謝することです。」
神の愛と恵みを受けている人間、それを信じている私どもキリスト者は、ただ一つのことをもって、応える以外に道はないのです。そしてそれが神が求めておられることです。そうすると、神さまが私どもに要求されることは、実は、私どもにとって一番うれしいことなのです。難しいこと、嫌なことではありません。そうしたくてたまらないこと。せざるを得ないことです。「神さま、ありがとうございます!」このように申し上げることです。このような気持ちを持つことです。そしてこの気持ちを考え方に変え、あるいは人生の目標に定め、あるいは自分の志にして進むことです。「Soli Deo Gloria!」教会堂にも記したこの言葉の意味は、「ただ神の栄光のために!」です。これは、決して、キリスト者が無理をすること、うんと背伸びをして努力して進む高く険しい理想を示す標語ではありません。そうせざるを得ないことです。そうしたい、それが私どもの本音となる、なったのです。なぜなら、神さまによって、これまでも、そして今も、そしてこれからも、こんな私の頭の上に、神の命の太陽が昇るからです。わたしの人生の上に、神の恵みの雨が降り注ぎ、わたしを生かし、育て、実らせて下さるからです。
恵みを受けるになんらふさわしくないわたし、愛されるには、なんら条件をもっていないこのあるがままのわたし。しかし、イエスさまは、はっきりと教えて下さいました。神さまの愛の常識は、神さまの真の愛は、そのようなあり得ない私を赦し、愛し、ご自身の子どもとして受け入れて下さったのです。
ルカによる福音書の著者、ルカは、イエスさまが十字架の上で、ご自分を殺す人々のために、父なる神の祈られた有名な祈りを、書き記しています。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
マタイは、この十字架の上の主イエスの言葉を知らなかったわけではないと思うのです。しかし、それはあえて書かなくても、もうこの説教の中で、あのイエスさまの愛と赦しの真実は明らかにできるのだと考えていたのではないかと思うのです。
マタイは、主イエスが、山の上で、「完全な人間になりなさい」とニコニコと仰った御顔を忘れなかったと思います。同時に、そんなことはできるはずはないと、うろたえてしまった気持ち、その衝撃をもよく覚えていたと思うのです。そして時が来て、自分が、福音書を書くように導かれたとき、よく分かったと思います。十字架と復活のイエスさまを信じて救われ、新しくされた使徒マタイには、この説教は、まさに福音だったに違いない。喜ばしい、嬉しい、愛と赦しの言葉として聞きとったのだと思います。
主イエスが、十字架で、まさにイエスさまを見捨てて、逃げた私、神の敵となり下がったこの私のためにも愛と真実を貫いてくださったことを、マタイは深く喜び、感謝しながら、この説教を書き留めたのだと思います。
そのマタイであっても、時に人を赦せず、苛立つときもあったかもしれません。主イエスのようには、決して生き切れない自分の不甲斐なさを悲しんだかもしれません。もしかすると、いささか大胆な想像ですが、時には、「あぁ、仕方がないこれが自分でしかないのだ」と開き直るような思いに落ちこむときが、一度や二度はあったかもしれません。しかし、マタイは、その度に、ああ違う。自分は今あるがままで、赦され愛されているのだと、この主イエスの教えで立ち直ったのだと思います。だから、マタイだけは、「完全になりなさい」という御言葉を書き記したのだと思うのです。
私どももまったく同じことです。この御言葉によって、奮い立たされながら、何度でも神を愛し、隣人を愛する愛の戦いをやり直せるのです。何度倒れても、しかし、立ち上がれるからです。人間らしい生き方、信仰者としての生き方に失敗すれば、神の愛からもれてしまうようなことは、決してないことを知っているからです。
祈祷
天のお父さま、あなたの愛と恵みの完全さを感謝いたします。私どもは、あなたの愛を、自分の愛、人間の愛の範疇や類比の中で見積もります。低く見積もるのです。そして今の自分は愛されている、愛されていないと、自分勝手にあなたの完全な愛を否定するのです。どうぞ、信じさせてください。確信させてください。あなたの愛こそまことの愛であることを。あの十字架の赦しの愛こそ、あなたの愛、真の愛であることを。私どもは今あるがままの姿で、あなたに愛されていることを心から感謝いたします。いよいよ、素直に豊かにあなたの愛を受け入れさせてください。その愛で満たして下さい。なぜなら、そこからしか、私どもの応答も感謝も始まらないからです。
今、あなたの御子が獲得された恵みの食卓、天国の命の食卓に与かります。この聖餐の礼典において、あなたの完全な愛を、あらためて深く味わわせ、敵を愛し、祈る者へと整えてください。アーメン。