「神の御前でこそ、人は人となれる」
2010年2月14日
招 詞 詩編 第32篇1節-5節
テキスト マタイによる福音書第6章21‐22節
「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。
偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。
はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。
それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。
そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
さて、今朝は、主の祈りの学びを終えて、改めて、主イエスが山の上でなされた説教に戻っています。主イエスは、今朝の説教に先立って、善い行いについて教えられました。こう仰いました。「人に見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。次に、お祈りについても教えられ、こう仰いました。「人に見てもらおうとして、お祈りをしてはならない。」そして、その締めくくり、三番目が、今朝の御言葉なのです。主イエスはお命じになられました。「人に見てもらおうとして、断食をしないように。」
さて、この三つの説教に共通しているのは、何でしょうか。もとより、献金、祈り、断食という大切な宗教的行いそのものが、否定されているわけではありません。実に素朴なことと言ってもよいかと思いますが、それを行う理由とは何かについて、問いなおしておられるのです。一体、あなたたちの宗教的活動、行い、善行は、誰の方に向かっているのか、それを問いただしてくださるのです。つまり主イエスは、ご自分の周りにいる宗教熱心なユダヤ人の、しかし根本的な、決定的な過ちをこのように見抜いておられるのです。その決定的な過ちとは何でしょうか。三つに共通して、語られた言葉がそれを明らかに示しています。「人に見てもらおうとして」です。そして、その三つを貫く鍵となる御言葉は、これです。「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」「信仰の行いは、神さまに対してなすべきだ、神さまは隠れたところを見ておられるのだ、その神さまに対して、それを捧げるなら、あなたがたの父なる神さまがお報いくださるのだ。」
主イエスは、断食など意味がないと仰ったのではありません。ただ、間違った断食を厳しく批判されたのです。それは、偽善者の断食です。偽善者の断食とは、何でしょうか。それは、神さまの御前に、自分の罪を認め、嘆き、悔い改めるのではなく、人前で、「自分はこれだけ、敬虔な信者なのだ」と、言わば見せびらかそうとして行うものです。そしてまさに、ここからはっきりと分かることがあります。人間は、放っておくと、どんどん、他人の目、世間体を気にして、行きがちだということです。今、人間と申しましたが、ここでは、信仰者こそ、その罠に陥りやすいのだということが、主イエスによって、公然と明らかにされたのです。まさに、キリスト者である私どもこそ、この誘惑に陥らないように、神に祈り求めることが必要であることは、明らか過ぎることだと言えます。
そこで今朝、皆さまに質問させて頂きたいと思います。「あなたは今、ご自分の人生を、自信と確信とをもって自分らしく生きていらっしゃいますか。」自分らしく生きるということは、少し抽象的、分かりにくい言葉かもしれません。自分じしんの人生を、自分じしんの人生とすると言い換えてみます。こう言い換えたところで見えてくるのは、もしかすると、私どもは、自分の人生を、自分の心の深い願い、自分の心の最も深い、底の底からの願いに基づいて生きているのではないのではないか、という問いをもたらすのです。つまり、私どもは、もしかすると、自分の人生にもかかわらず、実は、他人の目、世間体を気にするあまり、時代の価値観にとらえられ、その風に吹かれ、煽られて、結局、本当の自分を失う危機にあるのではないかという問いかけであります。自分の人生は、実は、自分の薄っぺらな、表面的な欲望、欲求に動かされて、いるだけなのではないかという問いかけです。ご一緒に、しばらく考えてみましょう。
人間のことをラテン語でペルソナと申します。このペルソナと言う名詞は、もともとは、ペルソナーレ、響き合うという動詞から派生したのだそうです。漢字で、「人間」は、人と人との間と書きます。そこでも人と人とは、お互いに向き合い、心を通わせ、響き合わせる関係に西洋の知恵も東洋の知恵も、人間とは、心と心で響き合う関係において、人間になるのだということを教えているだと思います。人間が人間らしく成長するためには、誰かと心を通わせ合い、その人と心と心で対話することが必要不可欠なのだというわけです。まさしくその通りだと思います。
さてしかし、実は、そこにとてつもなく大きな危険があることに、私どもは深く気づいていなければなりません。いったい、どういうことでしょうか。それは、人間だけと対話していると、結局、自分を見失うという落とし穴にはまるということです。他人の視線、他人の評価を気にするあまり、本当の自分の心の声を聴かないまま、心の奥底にある深い憧れ、求めを掘り起こさないまま、「周りの人」に調子を合わせてしまうのです。
今、圧倒的に多くの人たちは、子どもたち、青少年たち、そればかりか大人をも含めて、本当の自分の心の底の底にある声を聴こうとしません。それを知ろうともしません。自分の心の深い叫びには、耳を傾けず、自分の心の上辺、心の表面のような叫びだけが、自分自身の本当の叫びのように思い違いをしています。その心の表面、上辺にあるものは、実は、周りの大人たち、周りの人たちのものの考え方、見方、流行に影響された部分、薄っぺらい表面のことだけなのです。
今朝も、改めて、サンテグジュペリの「星の王子さま」を例に挙げながら、ここでの主イエスのメッセージをひもときたいと思います。物語の語り手である飛行士は、6歳まで、絵描きになる夢がありました。彼は、大きな蛇が象を飲みこんでいる恐ろしい絵をたった一枚描きました。その絵を、大人たちに見せると、彼らは帽子がどうして怖いの?と訊き返しました。皆、帽子にしか見てくれません。仕方なく、彼は、蛇の外側だけでは理解してくれない大人たちのために、お腹の中に飲み込まれている象そのものを描き直して見せてあげます。すると、大人たちは口を揃えて、こう言うのです。「そんな蛇の絵なんか放っておいて、それよりも地理と歴史と算数と文法に興味を持つように」こうして、彼は、仕方なく、別の職業を選んで、今、飛行士になっているというわけです。飛行士、パイロットは、当時の科学技術の最先端の飛行士です。
大人になった飛行士は、いくらか聡明そうな人に会うと、あの蛇の絵を持ち出して、そっと見せました。ところが、その人もまたそれは帽子でしょうと言います。こうして、彼は、その人に調子を合わせて、ブリッジやゴルフや政治やネクタイについて話し始めるのです。そうすると、相手は、もののよく分る人だと思って、満足するのです。こうして、彼は、心から話し合える相手が無く、過ごして行くのです。
いかがでしょうか、これは、少し私たちも共感できるかもしれません。たとえば、小さな頃を思い出して下さい。「大きくなったらこうなりたいな」と、素朴な夢があったかもしれません。ところが、6歳になります。それは、ちょうど小学校に上がる頃です。小学校に入れば、急速に大人の世界の別の評価があることを知らされます。偉い大人、立派な大人になるためには、どれだけお金を儲け、どれだけ羨ましいと思われる職業に就くかにかかっているのだと教えられるわけです。そうすると、本当に自分がしたい事は、消し去られてしまって、周りの人の評価、流行、時代の価値観に吹かれて、あちらこちらへと、さまようようになってしまいます。
飛行士は、やがて、サハラ砂漠に墜落してしまいます。それは、まるで、科学技術の限界を暗示するかのようです。彼は、水筒に残された、一週間分の飲み水を頼りに、エンジンの修復を試みます。しかし、本当に修復すべき、決定的に修復すべき課題は、彼自身にはまだ分かっていません。気づいていません。彼は今や、パイロットという皆から憧れられる仕事に就いて、立派な大人になっています。しかし、彼は、王子さまからは、「人間ではない、キノコだ!」と激しく非難されるような、まさに悪い大人、偽物の大人になってしまっていたのです。
どうしてそうなってしまったのでしょうか。それは、彼が6歳からこれまで、本当の「対話」の相手を求めながら得られなかったからです。あきらめたからです。
「対話」とは、何でしょうか。心と心とを触れ合わせ、響き合わせることです。「ブリッジやゴルフや政治やネクタイ」についてではなく、心について、精神について語り合うことが、人間が人間として生きる上で、必要不可欠なのです。いへ、そこで止まってはなりません。もっと深めなければなりません。それは、魂についてまでです。魂と魂とを響き合わせることが必要なのです。そうでなければ、人間は、人間としてついに墜落してしまいます。墜落することが悪いことではありません。本当に悪いのは、墜落していることに気づかないことです。墜落して、まさに死んでしまう危機のなかに落とされているのに、それでもまだ、「ブリッジやゴルフや政治やネクタイ」で人生を全うできるかのように、考えていること、それが本当の危機なのです。
しかし、そこでこそ、私どもキリスト者こそ、鋭く自らに問わなければなりません。今朝、私どもは、他のどこに行くのでもなく、ここにおります。礼拝式の場に出席しています。おそらく、「ブリッジやゴルフや政治やネクタイ」ではなく、まさに精神的な、霊的な、魂に関わる、本当の意味で「心」について、それを深めることを、まさに今していると自負しているかもしれません。
ユダヤ人は、神に選ばれた民であり、唯一の神を信じる人たちです。当時の彼らは、周りの国民がどれほど偽りの宗教、偶像に傾いても、自分たちは、決して彼らになびかないと、心に決めていました。さらには、熱心に施しや祈り、断食までしているではないか。我々は、人間性豊かに生きているのだ、そのような思いがあったと思います。彼らは、自分たちお互いの間で、自分たちの精神性の豊かさを誇りにしていたのではないでしょうか。その宗教団体の中で、宗教組織の中で、自分の方が、よりよく神に従い、信仰が深く、また人々を指導し、人々の模範となっている、そのようなことが、新しいその人の判定装置になるのです。これは、まったく他人事ではありません。キリストの教会の中にこそ、そのような危険性があることを、主イエスは、ここで鋭く見ておられる。警告しておられるのです。
信仰とは、神とその人との関係、外側からはまったく目には見えない部分において、まさに人間の最も深い、もっとも尊い、もっとも崇高なその世界のことのはずです。ところが、そのような信仰の世界の中にまで、結局、人の評価、世間体、世間の評価を気にすること、そこで、自分の価値、宗教的な価値を値踏みしようとすることがある、起こるのです。そこに、まさに人間の罪、不信仰があります。主イエスは、その偽善を暴かれるのです。それをたしなめるのです。そのようにして私どもを真実の生き方へと取り戻すために、ここで、説教によって戦っておられるのです。
それは、ただ単に偽善的な宗教は止めなさいということではありません。神は、そのような宗教を受け入れられはしないのだ、と批判することに留まらないのです。詩編第51編に、「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。」とあります。犠牲の動物を捧げることは、神ご自身が真実の礼拝の方法として御定めになられたことなのです。しかし、それが形式化する危険性がありました。動物のいけにえを捧げさへすればそれで済むだろうと考える。そこに心、真実がともなわなくなる危険性があるのです。形が整えられていさへすれば、神に通用すると、まったく本質を見失った考えを取ることもあるのです。主イエスが戒められた断食とは、まさにそのような断食なのです。
私は初めに、こう申しました。この説教を通して、今一度、「自分は自分自身の人生を、自信と確信とをもって自分らしく生きているのか、どうか」これを自ら問いましょうと申しました。そのために、もう一度、あの飛行士のことを考えてみましょう。彼は、絵描きという職業を諦めて、飛行機の操縦法を覚えます。おそらくは、学校では、「地理と歴史と算数と文法」を優秀な成績で修めたのだと思います。しかし、墜落しているのです。王子さまから、「あなたは人間ではない。キノコだ」と呼ばれたのです。学校や周りの大人たちと調子を合せながら、大きくなったからです。わたしは、この飛行士とは、本当の自分の人生を始められないままに、そして終わりかかっている人たちの象徴であると思えてなりません。
彼は、自分の心の深いところにある願いを、掘り下げることができなかったのです。このためになら、死んでもよいのだ、このことが分かったのなら、もう命も惜しくはないと、それほどまでに自分の深い深い、とてつもなく深いところにある心の願いを、彼は知らないまま、世界中を飛んでいたのかもしれません。
しかし墜落したのです。自分の限界状況という壁の前にもう進めなくなっているのです。しかし、それは、まさに人生の危機です。しかし同時に、救いのかけがえのないチャンスになりやすいのです。私どもが教会に導かれ、主イエス・キリストを信じて救われるときのことを思い起こします。多くの方が、それと似たような状況を大なり小なり経験されたのではないでしょうか。このままでは、ダメだと、危機を迎えたのです。しかし、まさにそれなしには、教会や聖書や主イエス・キリストとの出会いもなかったのかもしれません。神が、そのようにして出会いの道を備えて下さったのだとしか思えないのです。
自分の人生を始める。ある大人は、何を今更、ばかばかしいと言います。わたしは、もう、40歳です。50歳です。60歳です。もう、自分の人生は後半戦、それも終わりつつある。今更、やり直せない、そう考える人も大勢います。しかし、聖書は告げます。主イエス・キリストは宣言します。遅すぎることはない。自分の人生を始めるとは、0歳からもう一度、やり直すことではありません。今、この瞬間から、始められるのです。始まるのです。それは、自分のことをきちんと見ていて下さるただ一人の存在。自分をこの地上に命あらしめてくださったただお一人を、正しく知ることです。正しく仰ぎ、見ることです。このお方を仰ぎ見ることができたら、その瞬間に、ただちに、自分の人生を始められるのです。主イエスは、それを、新しく生まれることと表現なさいました。(ヨハネによる福音書第3章)
どうしてでしょうか。それは、この神さまだけが、私どもをきちんと、しかも驚くべきことに、愛をもって見つめていらっしゃるからです。愛をもって見つめていて下さる、ここに、私どもが真実の自分を生きる道が、その土台が、その土壌が据えられるのです。
反対に、もしそれがなければ、私どもは、ただ周りの人たちに調子を合わせるしかなくなります。そのときには、まるで根なし草のように、風に吹かれて、そのあたりを右往左往するだけです。さまようだけです。確かに、世界中を自由に、飛び回ることだってできるでしょう。しかし、それが本当の自由な生き方、本当の人間らしい生き方にはつながらないはずです。かえって、息苦しさ、生きるつらさを覚えさせられ、疲れ果てさせ、萎えさせるのです。
神が私どもに望んでおられること、願っておられることとは何でしょうか。それは、あの人この人、父や母、学校の先生や有名な人、そのような人が指し示す偉い人間、立派な大人になることと、イコールではないのです。むしろ、神が願っていらっしゃることは、ただ一つです。それは、わたしがわたしであること、あなたがあなたであることです。ひとり一人が自分の人生を生きることです。そのために、主イエスはここで、まるで止めをさすかのように、このようにご指摘してくださったのです。
「人に見てもらおうとして、善い行いをしないように。」「人に見てもらおうとして、お祈りをしないように。」そして、最後に、「人に見てもらおうとして、断食をしないように。」です。主イエスは、確信をもって、私どもを説得して下さいます。「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」まさに、私どもも、イエスさまに見倣って、確信を持つべきなのです。持って良いのです。天のお父さまは、隠れたところを見ておられるのだ。天のお父さまは、報いて下さるのだと。神を、この生ける神を信じ切ることが出来ないから、私どもはそれ以外の評価、確かさを、世間の評価に見るのです。人が高く評価してくれると安心できるのです。ああ、自分の人生は、成功だ。それは、人がそう評価してくれるからそう思うのです。逆に、自分の人生は失敗だらけ、ダメだ。そう思うのも、自分が思うより、世間の尺度で自分をはかっているからではないでしょうか。しかし、主イエスは、決して、譲られません。
「あなたの価値、あなたの尊さは、そんなところにあるのではない!あなたは、神の前で生きるなら、あるがままで輝いているではないか。神の栄光を燦然と放っているではないか。何を、勘違いするのか、何をまわりに騙されているのか」神は、あなたのことを誰かと比べて、点数をつけたことが一度でもあったでしょうか。決して、ありません。ところが、我々は、自分で自分に点数をつけて安心しようとするのです。そうして自分を失うのです。自分の人生を生きることができないのです。
現実の世界には、王子さまはどこにもいません。しかし、生けるまことの神がいらっしゃいます。この神は、私どもに語りかけて下さいます。聖書を通し、説教を通して語りかけて下さいます。そのようにして神が、生ける、今ここにいます神、今ここで、これほどまでに雄弁に事柄を明らかにしたもう神が、私どもの真実のかけがえのない対話の相手でいらっしゃるのです。このお方を見ること、このお方を仰ぎ見ること、これが、私どもを偽善者から守る道となるのです。神の前で本当の自分と出会い、本当の自分の人生を生きることができるからです。「良心が対話できる相手は神しかいない」のです。
神さまは、愛と慈しみとを持って、しっかりとあなたを見つめていて下さっています。神さまは、わたしたちを、他の誰とも比較してはいらっしゃいません。私がわたしであることを、そして、あなたがあなたであることをこそ願い、望んでいらっしゃいます。私たちは、かけがえのない自分の人生を、他の人の価値観や、ましてやお国のためにと生きる必要もないし、そうしてはならないのです。自分じしんを生きることこそ、最も尊く、最も大切で、神さまが願っていらっしゃることなのです。
そのために、イエスさまは、人間は、神さまと心と通わせること、対話することによってこそ、人間らしく、自分らしく生きれるようになるのだ、と燃えるような愛をもって、語り込んで下さいました。私どもが、自分に自信が持てないのは、人の目を気にしているからです。実に、私たちは、隠れたことを見て下さる神さまの前で生きるとき、自分の人生を本当の意味で始めることができるのです。それは、まさに真実の自分の人生です。罪深く、愚かしいまでに弱い自分です。けれども、それを隠すことはもう必要ない。隠さなくても良いのです。私どもを見つめておられるのは、主イエス・キリストの父なる神、それゆえに私どもの天のお父さまだからです。
こうして、あらためて今、主の祈りを祈りましょう。隠れたところを見ておられる主イエス・キリストの父なる神に祈りましょう。天にましますわれらの父よと、祈るのです。そこに私どもが偽善から解放される道、救いの道、私どものまさにざっくばらんな信仰に生きる道が開かれるのです。
祈祷
天の父なる御神、あなたに愛と慈しみとをもって知られている、見られていることを知らないとき、わたしどもは人の目を気にし、人と比較して、自分の存在を確かめようとして生きていました。まことに惨めな生き方でした。そのような私どもをあなたの御顔の前に立たせて下さり、自分の本当の願いを掘り下げ、深めることができるようにして頂きました。偽善の道から、解放されたのです。しかし、もしも再び、教会生活のなかで、あなたとの対話、あなたの御眼の前に生きることを怠るなら、もっともひどい偽善を犯します。どうぞ、その罪、過ちから守って下さい。常に、あなたと共に、あなたの前に生きる喜び、自由を味あわせ、自分自身を深める生涯へと導き返して下さい。アーメン