「神の愛の時間に抱かれ、もはや思い煩う必要はない」
2010年3月14日
テキスト マタイによる福音書 第6章25-34節 ?
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
先週に引き続いて、山上の説教の中の頂点になる有名な説教を学びます。この御言葉は、いったいどれだけ多くの人々を慰め、励ましてきたことか、ある人を信仰に導き、信仰者を鼓舞し続けてきた事でしょうか。あるインターネットのサイトで、マタイによる福音書の中で、最も人気のある御言葉は、この説教の結びの言葉、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」とされています。それは、逆から申しますと、人間はどれだけ、思い悩んでいるか、思い煩っているかということです。
明日のこと、将来の不安に日々、さいなまれている現実があるからこそ、この主イエスの御言葉に心魅かれるのでしょう。年間、3万人が自殺をする日本、その何倍もの数の人が自殺を試みている日本です。まさに、この日本と日本人にこそ、求められている主イエスの御言葉のように思います。
もとより、私ども自身がかつて異邦人、未信者でしたが、日本の社会は今なお、圧倒的に未信者の方々が多い社会です。その方々と共に生きる中で、未信者の方々は、自分の今と明日、自分の肉体の命を支え、守るために、必死になって生きています。必死になって生きる、真剣に生きる、それは、とても素晴らしいことです。決して、非難されるいわれはありません。
ただし、そこにどうしても指摘しなければならない、課題、問題があります。主イエスは、ただまじめに、誠実に、真剣に生きていればそれでよいのだとは仰いません。人それぞれの生き方があるのだから、その人なりに、人に迷惑を掛けない限り、どのようでもよいはずだとは、考えていらっしゃいません。主イエスは、人間には、人間としての生き方があるのだと教えて下さいます。それは、人種や性別を越え、あるいは宗教を越えと言っても良いでしょう。世界共通の道です。人類の道です。人間が、人間らしく幸福に生きるためには、いくつかの道があり、その中でも比較的良い道があるのだというのではありません。
そもそも人間とは、神に造られ、神によって今この一瞬もそのいのちが支えられ、守られています。そもそも、神さまの愛と恵みなしには、本当は、私どもはここに存在していませんでしたし、今一瞬でも存在していられません。これが真理、これこそ現実ですから、人間には、この真理から的外れな生き方があってはならないわけです。
的外れな生き方とは、理にかなわない生き方と言っても良いかと思います。真理、理屈に合わない。真理、道理に合わない。真理その筋道が通ってない、そのような生活であれば、そこでどんなに真剣に悩み、考え、誠実に生きようと努力しても、いへ、むしろ、誠実に、真実に、道徳的に生きようとすればするほど、もしかすると苦しくなってしまうかもしれません。それが、今の日本の社会を覆っている危機的な状況と言っても良いと思います。どす黒い、重たい空気のように思います。その空気を吸い込むと、本当に、心が病んでしまう。その社会の風に吹かれると、大人が自殺し、いへ小さな子でも、生きるのがつらくなってしまう、そのような厳しい時代のように思います。
まじめに生きながら、しかし自分の人生を、自分の生活を喜べない。それは、決定的な問題があるからなのです。理由があるのです。答えは、まったく単純です。これまでも何度も繰り返し主イエスが教えて下さったことです。隠れたことを見ておられる神、隠れたところにいらっしゃって、いついかなるときでも隠れたところにいる私どもを見失わず、いつも愛と恵みをもって顧みてくださる天のお父さまを私どもが見失うからです。神を見失う。神に目を注がず、神に心の窓を向けず、眼差しを向けないと、私どもは、ただちに、思い悩んでしまうのです。
私どもの心の在処が、天にないと、神さまにないと、私どもはただちに不安になるのです。恐れに囚われるのです。空しさにむしばまれるのです。
さて、主イエスがここで異邦人の的外れの急所、課題を、何気に明らかにしておられることに気付きたいと思います。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」主イエスは、寿命を延ばすという企てを決して軽蔑なさっておられるのではありません。病院、お医者さんを軽んじておられるわけでは決してありません。私どもは、体の健康を保つことに努力しますし、信仰者だからこそ、体の大切さに気付かされたのですから、健康に留意すべきでしょう。けれども、神さまを知らない人たちは、生きることが、まさに、その寿命を延ばすことに対する執着にあると見抜いていらっしゃるのだと思います。
仏教の祖、釈迦もまた、人間の苦しみは、「生老病死」生きること、老いること、病む事、死ぬ事にあると言ったこと、見抜いたことと同じだと思います。要するに寿命の問題でしょう。釈迦は、生きることに執着することにこそ、すべての悩みの根源があると言いました。だから、まさに、すべてのものに執着しないように悟りの境地に至るべきことを説いたのだと思います。しかし、ある人が言ったことで忘れ難いのですが、「仏教のお坊さんは、すべてのことに執着しないように、悩まないように、そればかりに執着し、悩んでいる」と言いました。
寿命とは何でしょうか。それは、私どものこの肉体のいのち、生命のことだと思います。平均寿命とか余命とか言われます。それは、長さではかれるものです。その生命は、計測が可能なものです。重さや血圧、尿酸値、血中濃度、病院で検査して頂ければ、私どもの生命をきちんと計測して、表にして見せて頂けます。ありがたいことです。
しかし、主イエスは、仰います。その寿命に縛られ、何を飲もう、食べよう、着ようと思い悩んでしまう。学校のこと、就職のこと、結婚のこと、すべてが結局、寿命の問題、そこに関わってくるのです。寿命を延ばしたいからこそ、食べたり飲んだりするのに困らない安定した生活を目指して必死にがんばっているのです。しかし、主イエスはここでもユーモアをもってなのでしょう、それで寿命が延ばせるのかと問うて下さるのです。答えは明らかです。むしろ、悩み、ストレスは、寿命を縮めてしまうかもしれません。
星野富広さんという詩と絵を描く芸術家がいらっしゃいます。世界的に有名になっています。星野さんは、中学校の体育の教師になりました。しかし、赴任してすぐ、あろうことか、授業中の事故、自分のミスによって手足の自由を完全に失われてしまいます。自暴自棄になる病床の生活を続ける中で、信仰に導かれます。やがて口に筆を加えて詩画を描くようになります。そして今、日本だけではなく、世界中で注目を集める詩人となって活躍しておられます。その方の詩の中で、このテキストを読むにあたり、特にわたしの心によみがえる詩があります。詩のタイトルは分からないのですが、このような詩です。
「いのちが 一番大切だと 思っていたころ 生きるのが 苦しかった
いのちより大切なものが あると知った日 生きているのが 嬉しかった」
一命は取り留めたものの、体が動かなくなってしまう。体育教師として1年目、自分の存在意義である健康な肉体、しなやかな肉体、たくましい体育教師の体、それを完全に失ったとき、まさに、生きるのが苦しかったはずです。真っ暗やみのどん底のような入院生活を送っておられたのです。星野さんは、体育の教師ですから、健康な肉体、しかも身体能力が高かったはずです。そのような健康な肉体のいのちが一番大切だと思っていたわけです。
それなら、そこでのいのちとは、何でしょうか。それこそが、寿命です。つまり、肉体の生命です。ギリシャ語で、それをビオスと言います。英語では、バイオ、心臓が動いていることによるいのちです。人間の寿命こそが、それを延ばすことこそが、最も大切と思っていたとき、生きるのが苦しくなってしまう、思い悩みの底に落ち込んでしまうのです。それは、理にかなった生き方になっていないからです。
しかし、少なくない人たちがこう言います。「このような教えは、確かにすばらしい。しかし、それは、その人が食べるものにも着る者にも困っていないからだ。衣食足りて礼節を知るというではないか。今食べ飲むこともままならない人には、そんな教えより、ご飯を食べさせてくれる方がはるかに重要だ。」しかし、私どもはそのような一見、もっともな説得力ある議論に負けてはなりません。私どもが、これまで、主の祈りの説教を通して学び続けたのはまさに、この点でした。
つまり、人はパンのみによって生きるのではなく、神の言葉によって生きることを主イエスがお教え下さったのです。人間にとって、必要なものは多くない。いやただ一つだけなのだとも学びました。そのただ一つ、それこそが、人間を人間にする本物の食べ物、まことの飲み物なのです。あの星の王子さまの物語の最大のメッセージであった、エンジンの故障によって砂漠の真ん中に墜落してしまったパイロットですら、エンジンを修理することより、はるかに大切で、何よりも緊急な課題があることを私どもは学びました。目に見えない真理、心にもおいしい井戸水を飲むことです。
生きることは、死ぬことの準備だと言います。今を一生懸命に生きる。しかし、その準備とは、まさにただ一つのことです。何をし、どんな業績を後世に残せるのか、それにも価値があるでしょう。しかし、まことの人間のいのち、つまり、主イエス・キリストによってもたらされる永遠のいのちを頂かなければ、本当の死ぬ準備などできるはずがありません。その意味で、食べ物がなくなってまさに死なんとするようなそのときこそ、大切なものは、神の国と神の義なのです。神の支配と救いと言い換えることができます。単純に言えば、神さまそのもの、神ご自身のいのちそのものです。神を求めること、神の永遠のいのちを受けること、それこそが、人間にとって究極の必要なのです。
「いのちより大切なものがある。」これは、星野富広さんが、聖書を学び、聖書に証された神を知り、神を信じ、主イエス・キリストと出会ったときに与えられたまことのいのちのことでしょう。それは、主イエスを知ることそのものと言い換えても構いません。
主イエスを知るとは、頭の中で知識として認識し、情報を得ることとは違います。主イエスを知るとは、主イエスと話し合う関係、主イエスとの交わりの関係を持つことです。お祈りすることです。神さまと対話することです。そこに、寿命、肉体のいのちより大切な真のいのちが与えられるのです。つまり、永遠のいのちです。ギリシャ語では、ゾーエーと言います。このゾーエーを失ったなら、永遠を失い、自分の真実のいのちを失い、私どもは肉体は生きながら、人間としてのいのちにおいては死んでしまっているのです。そのとき、私どもは、思い悩みの重荷に押しつぶされるのです。
神の国とは、神の恵みの支配です。神の義とは、私どもの救いです。神に罪を赦される幸いです。私どもは、この神の救い、神さまの恵みの守りの中に生かされているのです。神さまの力ある支配の中で生きるなら、わたしどもは、安心して生きることができます。
主イエスは、寿命を延ばすことができないと仰いました。ところがここでは、もし神さまを第一にするのなら、神を求めるなら、そのときには、神さまはご自身を与えて下さることはもちろん、それに加えて、地上に必要なもの、私どもそれぞれに必要なものを与えて下さるとも約束されたのです。実は、ここでの「加える」とは、寿命を「延ばす」という言葉と同じ言葉が使われています。私どもは、寿命を延ばせません。しかし、神は、私どもの肉体のいのちの必要をもよくご存じで、それを加える、延ばすことすら、御心であればなさるのです。
先週は、花倶楽部を行いました。花倶楽部は、その名の通り、花を用いる集会が主でした。先週も、押し花をなさっていました。主イエスは、ここでユーモアをも込めていらっしゃったのだと思います。
何気に、仰います。「わたしがあのソロモン王、ユダヤの歴史の中で最大の経済的繁栄をほしいままにした、あのソロモン王を見ました。」と仰るのです。主イエスがそこで活動なさったのは、ソロモンが亡くなってからおよそ1000年後、950年後のことです。彼は、エルサレムに父ダビデの志を引き継ぎ、壮麗な神殿を献堂しました。自分の王宮もまた立派なものでした。まさに、この世の栄華を極めることができたのです。ソロモン王が身にまとった王の服もまた、どれほど、きらびやかなものであったかと思います。主イエスは、そのソロモンをご覧になったと仰います。
それは、御子なる神として、天の父なる神とともに天からご覧になったという宣言です。このように当たり前かもしれませんが、イエスさまは、今も私どもを天からいついかなるときも、見ていて下さるのです。
そして、あのソロモンのガウンをご覧になったイエスさまご自身が、一輪の野の花をご覧になって、この花の方が着飾っている、つまり、きれいだと仰ったのです。私どもは、今、感謝なことに礼拝堂が与えられています。もとより、小さな礼拝堂です。他の教会と比べたらそうでしょう。けれども、どんなに壮麗な礼拝堂であっても、やはり、野の花ほどには美しくないのかもしれません。それほどまでに、生きている生きものの美しさ、空飛ぶ鳥の美しさは、すばらしいのでしょう。そして、それは、他ならない神ごじしんがいのちを守り、必要を備え、見事に装っていて下さるからなのです。
そうすると、ここで何が言われているのでしょうか。まさに、私ども人間、そのままの人間の姿は、神の御前で、そのままで、花よりも美しいと感動していただけるわけです。私どもは今、神さまの御前に座っていますが、こんな、私どもが、神を喜ばせているのです。子どもカテキズムの問い1、人生の目的とは何かを問う問いの中で、救われたキリスト者の生活、信仰の生活のことを喜びの生活、喜びに生きる人生と申します。それは、神の喜びが私どもに礼拝を通し、祈りを通して絶えず、注がれてくるからです。
最後に、神の国という表現は、どちらかと言えば、場所のイメージです。空間です。神さまがまん中に、共にいてくださる現実の場所です。私どもは、今、この場所にいて、礼拝しています。つまり、場所の問題は、同時に、今という時間の問題でもあります。私どもは今というこの瞬間しかいきていません。明日を生きてはいません。明日は、明日始まるのであって、明日になれば、明日を生きるのです。つまり、わたしどもは今この時しか生きていないのです。だから、主イエスは、仰います。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
明日は、明日にならなければ、存在しません。今はないわけです。しかし、多くの場合、その明日の準備のためにわたしどもは、押しつぶされるようなストレス、悩みと戦っているわけです。しかしだからこそ、主イエスは、間違えるな、理不尽な悩みにとらわれるなと、私どもをまことのいのちの道に取り戻して下さいます。それは、わたしどもが生きるのは、今まさにこの瞬間であることをじっと見つめさせることです。
そして、私が今まさにこの瞬間、瞬間を生きているということを見つめながらそこではっきりと見えてくることがあるのです。それは、この今を造られるのは、この時間を創造なさっておられるのは、私どもの父なる神に他ならないということです。つまり、神の国の中に、この愛と恵みの守りの中に、支配の中に、それは場所でありつつ、同時に時間の中に守られているということなのです。言わば、私どもは時間の手の中に抱かれて存在しているのです。そして、この時間とは、神さまが今一瞬、一瞬を造り続け、あるいは延ばし続けていて下さる神さまの被造物なのです。今、宇宙に存在するすべては、神の時の中に抱かれています。その外にあるものは、何一つないのです。
実に深い真理、それをイエスさまは、哲学的に解明なさる仕方ではなく、まるで詩人のように私どもに解き明かされるのです。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」しかしあえて、わたしは、なお蛇足ですが、解説したいと思います。主イエスは、「その日の苦労は、その日だけで十分である。」と仰います。
明日の苦労を、言わば「取り越し苦労」までして負うなと招かれます。明日の苦労をすることは、本来、不可能なのだと言うことでしょう。できないことをして、そして思い悩む愚かさに生きてはならないのです。「その日の苦労は、その日だけで十分である。」つまり、私どもは今日を生きていれば、それだけで十分なのです。この御言葉にはまさにユーモアが込められているように聴きとれます。そして、今日この時は、神が造られ、神が共にいてくださる今このときなのです。だから、安心して、主にゆだねてよいのです。
実は、私どもの教会にとって、三月は、会員の誕生日ラッシュです。昨日は、三名のお誕生日でした。今朝、誕生カードをお渡ししたいと思います。70年80年にも及ぼうとするその一瞬一瞬が積み重ねられてまいりました。それは、神の愛の御手の中に抱かれた歩みです。神の国の支配の中で守られ、育まれたのです。その年月は、神の歴史です。神が創造された時間が積み重ねられたのです。言わば、時間という形をとって、神の愛に抱かれた歴史なのです。
今週も、この安心に生きる日々とさせて頂きましょう。それを、上手にやれるように練習しましょう。明日の不安が、寿命の不安が、思い悩みが心を支配しようとするとき、「退け!」と心に命じましょう。「神の国がわたしの中で始まっている。わたしには、神の愛の支配、お守りが今この瞬間にもあるのだ」と、心に言い聞かせるのです。
祈祷
思い悩むなと、今朝も繰り返し、私どもを健やかないのち、永遠のいのちの恵みに気づかせてくださいます主イエス・キリストの父なる御神。しばしば、明日の心配事に心を支配されてしまいます。隠れたところにいたもうあなたを仰ぎ見ることを怠るからです。あなたの支配の中に抱かれていることを忘れるからです。どうぞ、今この瞬間、あなたの愛と恵みのご支配を受け入れなおすことができますように。主イエス・キリストが共に歩んで下さる日々を確信して、明日の思い悩みを締め出して、私どもの必要を、日ごとにあなたとともに与えて下さる現実を素直に信頼する者とならせて下さい。どうぞ、思い悩みの中に引きずり込まれている方の隣人とならせて下さい。アーメン。