「自分を生きる道」
2008年7月2日(水)
日本キリスト改革派教会 名古屋岩の上伝道所 牧師 相馬伸郎
賛美歌21 463「わが行く道」
聖 書 ヨハネ福音書第21章20‐23節
「主よ、この人はどうなるのでしょうか。
・・・イエスは言われた。「~あなたは、わたしに従いなさい。」
今、お読みした箇所は、言わばとても小さな物語が記されています。しかし、我々人間のまさに最大級の弱点、問題が露にされています。そして、それを克服する唯一の道も鮮やかに示されています。
さて、ペトロは、イエスさまの弟子の中でも、一番弟子でした。ところが、彼は、イエスさまが十字架につけられるとき、イエスさまを裏切り、見捨ててしまいました。しかし、何よりも驚くべきことは、復活されたイエスさまは、裏切り者の彼のところに出向いてくださり、彼を厳しく叱責なさったのではなく、むしろ彼の心の傷を癒し、もう一度、ご自身の弟子として立ち上がらせてくださったのです。
そのような主イエスからの限りない愛と赦しを受けた彼は、驚くべきことに、その直後に同じ弟子仲間のヨハネを見て、彼のことが気になってしかたがなくなってしまうのです。ペトロは尋ねました。「主よ、この人はどうなるのでしょうか。」ヨハネとは、この福音書の著者であって、彼じしんの言葉で言えば、「イエスさまの愛しておられた弟子」なのです。ペトロは今、このヨハネと自分とを比較するのです。「イエスさまはわたちとヨハネと、どちらのことを深く愛し、信頼しておられるのか。」
話は変わりますが、イソップ童話の中に「ウサギとカメ」のお話があります。ウサギとカメが山頂を目指して競争して、なんとウサギが負けてしまうというお話です。「油断大敵!」という教訓です。しかし私は、かつてPTA会長として中学校の運動会で、これに独自の解釈を施して、このような一分間のお話をさせていただいたことがあります。
『何故、足の速いウサギは、負けてしまったのでしょうか。
それは、ウサギが亀ばかりを見ていたからです。
それなら、何故、カメは勝つことが出来たのでしょうか。
第一に、カメは、足が遅いという自分自身に負けなかったからです。
第二に、カメは、自分のベストを尽くしたからです。
最後に、カメは、ウサギを見ないで、ただゴールを見ていたからです。
人と比べることよりも、自分の力を出し切ること。
これは、運動会だけではなく、人生のすべてにおいてもとても大切なことです。』
カメの生き方とは、人間で言えば、人と比べる生き方を止めて、自分自身を生きたということです。しかしどうすれば、そのような夢のような生き方ができるのでしょうか。それは、「ゴール」をしっかりと見続けることによってもたらされるのです。
しかしそこで大問題に気づきたいのです。実は、多くの人々が、「人生のゴールとはどこか。人生の目的とは何か。」それが分からないまま、既に走り始めてしまっているという恐るべき現実があるということです。レースや旅なら決してありえないことが、人生では行われているわけです。
今、お一人ひとりにお尋ねしたいのです。いったい、あなたのゴールは何ですか。どこですか。例えばマラソン。そのゴールを自分勝手に決めても無意味です。それは、主催者が決めるのです。それなら、人生のゴールや生きる意味は、どうでしょうか。いったい我々人間が、自分で決めたり、自分なりに見出すことができるものなのでしょうか。違います。
例えば、皆さんの中で、ご自分の名前を、自分自身でつけたという人はおられますか。一人もいないはずです。誰かにつけていただいたのです。そして、私ども幼いとき、自分の名前を、何度も呼ばれ続けることによって、やがて自分の名前を知って行ったのです。自分の名前を知る道、知る方法は、つけてくれた人に、呼んでもらう、教えてもらう以外にないのです。実は、私どもの人生の目的やゴールを考える上でも、まったく同じことが言えます。人生のゴール、目的は、私どもに命を与えてくださった造り主なる神に教えていただく以外にありません。
さて、あのカメは、ゴールを知っていました。そしてゴールだけを見つめていました。ですからカメは、実に、走り始めたその第一歩から、すでに勝利者となっていたのです。不思議なことですが、すでに勝利者として走り始めることができたのです。人生の勝ち負けの結果は、最後に分かるのではありません。実に、ゴールを、神さまを知っていれば、生かされている一瞬一瞬、毎日毎日が、勝利の連続となるのです。これこそ、神が与えてくださる本物の人生、手ごたえのある人生なのです。
本学のスクール・モットーをもう、覚えられたでしょうか。「主を畏れることは、知恵のはじめ。」です。「主を畏れること」つまり、主なる神を正しく知り、礼拝することです。これこそが人生の目的、目標、ゴールなのです。主なる神を礼拝することによって、人生の意味、目的、生きがいが明らかになるのです。ですから、「知恵のはじめ」、土台となるのです。神さまを知ることこそが、世界のありとあらゆる知識や技術、自分自身の才能に、正しい意味を与え、正しい目的へと方向付ける道しるべとなるのです。21世紀の人間とその社会にとって、いよいよ不可欠な知恵なのです。
主イエスは、ペトロに仰せになられました。「あなたは、わたしに従いなさい。」ペトロは、あらためて悟ったはずです。「そうだ、もう、誰かと比べて生きる必要はない、人と比べてうぬぼれたり、落ち込んだりする必要はないのだ。ただ、イエスさまだけを見つめよう、そして従ってゆこう。」しかしペトロは、このときからもはや同じ失敗を二度と繰り返さない人間になったとは、思えません。しかし、失敗しそうになるたびに、このときのイエスさまの御言葉に立ち戻ることができたと思います。
私どもにもまた、イエスさまは、招いていてくださいます。「あなたは、わたしに従いなさい。信じてついて来なさい」主イエスを見つめるときだけ、人と比較競争して自分の勝敗を決める必要がないことが分かります。主イエスを見つめて、そこへと向かって行けば、自分自身の人生を、自分らしく生きることができるようになります。主イエスに従って行くとき、今日の一日の学びもまた、ゴールを見失った、つまり「的外れ」な学びにはなりません。それは、人を蹴落とすような学びではなく、隣人を生かす学びとなるということです。
わたしの解釈では、あのカメは、眠りこけたウサギに追いついたとき、こう言ったと思います。「ウサギさん、眠っている場合ではありませんよ。ウサギさんらしく、生きてください。いっしょにゴールを目指しましょう」
主イエスは、ここにおられるお一人ひとりに、仰せになられます。「あなたは、わたしに従いなさい。」神を信じ、主イエスに従う歩み、これこそ、ゴールです。ここに、人と比べて勝った負けたと考える生き方ではなく、本当の自分と出会い、人生のまことの勝利者として生きる道、そして隣人と共に生きる道があります。
祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、ゴールを見失って生きるなら、私どもは、迷子になっています。しかも、自分が迷子になっていることも分かりません。どうぞ、「わたしに従いなさい」と招かれるイエスさまを皆で見つめることができますように。そして、あなたに従うことができますように。そのようにして、かけがえのない学生時代を有意義に生き、本当の自分を生きることができるようにお導き下さい。アーメン