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「狭い門から入れ-キリスト復活の恵み-」

「狭い門から入れ-キリスト復活の恵み-」
2010年4月4日 復活祭 開拓開始16周年記念
テキスト マタイによる福音書 第7章13-14節 
「狭い門から入りなさい。
滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。
それを見いだす者は少ない。」

本日は、復活祭の礼拝を捧げます。あわせて本日は、開拓伝道開始第16周年の記念すべき日でもあります。16年前の4月3日、それは、まさに今朝と同じように復活祭でした。その日、ビルの小さな一室で最初の礼拝を捧げたのでした。今ここにあるような立派な説教卓などありませんでした。折りたたみの譜面立てに聖書をのせて、それを説教卓がわりにしました。何もかも整わない状況の中で始まりました。今なお小さな群れではありますが、しかし、愛する兄弟姉妹を加えられ、ここに神の民の祈りの家を築き続ける事が出来ています。本当に、私どもは神が生きていらっしゃることを体験し続けてまいりました。私どもはこのような大きな恵みを受けたのですから、改めて、志を高くして、福音の伝道に励み、隣人への奉仕、ディアコニアに励み、キリストの主権を確立する教会の形成に励んで参りましょう。

今、新しく道を求めて教会に招かれている仲間たちを本当に感謝致します。私ども開拓伝道した教会にとって、一人がどれほど重いものでしょうか。本当に、一人ひとりが福音によって救われ、罪が赦され、キリストに従う新しい歩みを始められますようにと心から祝福し、祈ります。その為なら、全力を注がせていただきたいと願っています。

さて、今朝与えられた御言葉は、山上の説教の中でも先週に続いて有名な御言葉の一つであろうと思います。もしかすると多くの方は、この「狭き門」という言葉が、聖書に記されている言葉であることを御存じないかもしれません。しかし、自分たちなりの解釈を施して人生の格言、生活の箴言のように受け入れている方も少なくないようです。

「狭い門」と聞きますと、多くの方は、大学入試や就職などで、大勢が憧れるところ、そこに入るためには、激しい競争を乗り越えなければならないそのような狭い門に挑戦することを意味すると考えています。そして、それこそが大切だと言うわけです。人生は、楽な道を進むより、どんなに困難であってもファイトをもって挑戦して、どんどん、自分で切り開いて行こう、そのような、呼びかけとして「狭い門から入れ」を受け止めているのかもしれません。

しかし、言うまでもありませんが、ここで主イエス・キリストが仰ったことは、そのような常識とはまったく違います。先週と同じく、ここでも、信仰の真理が宣言されているのです。

それなら、そもそも、「門」とは、何でしょうか。それは、神の国の門です。天国の門です。「道」とは何でしょうか。それは、神の国に至る道です。天国への道です。そうするとこの天国の門は、実に狭いということが分かるのではないでしょうか。入ろうと思えば誰でも、気軽に入れるとは考えにくいかと思います。

反対に、滅びに至る門、つまり地獄への門は大きく開かれ、地獄への道は広大な道なのです。ある人々は、その道を猛烈に飛ばして走っているかもしれませんし、また、ある人は、のろのろした歩みかもしれません。しかし、いずれにしろ老いも若きも、男も女も、有名人も一般の人々も、学者も労働者も、スポーツ選手も芸能人も、圧倒的に多くの人たちが、その道を歩き、走っているのです。「赤信号、皆で渡れば、恐くない」という言葉がありますが、まさに、そのような安心感をもって、しかも赤信号を渡っているなどとも思わないで、歩んでいるのです。

あるいは、「この道は、良くも悪くも人間の生きる道なのだ。仕方ない。」このように諦めてしまっている人々もいるかもしれません。あるいは、「考えたってしかたがない、これは、人間の宿命だ」と、言わば、悟ってしまう人たちもいるかもしれません。あるいは、「いや、考える暇などない。物心ついたら、後ろから押されるようにしてこの競争社会を歩かされた。親が手をひっぱって、この道を歩むように道を進ませてくれた。」そう呟く人もいるかもしれません。しかし大人になっても、なお自分じしんで考えることをしないまま、立ち止まることもないまま歩んでいる人もいるかもしれません。

いずれにしろ、多くの人々が、その道を歩んでいるわけです。多数が歩んでいる道は、「常識」と言われるようになります。反対に、少数の人たちが狭い道を進む事は、「あの人たちは、ちょっと変わり者なのだ」、と思われてしまいます。

しかし、いささかくどいですが、この狭い門、狭い道とは、そのような一般常識の人生訓が語られているわけでは、全くありません。

主イエスは、ヨハネによる福音書第14章において、このような有名な自己紹介をされました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」ここで、主イエスは、御自身の存在を道そのものであると紹介されました。この道とは、まさに父なる神に至る道に他なりません。天国に通じる道、神の国につながる道です。

またヨハネによる福音書第10章には、このような自己紹介、宣言もあります。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」主イエスは、そこで御自身を羊の門と言い直されます。羊とは、私どもキリスト者のことです。キリスト者は、主イエスという門を通って、つまり、信じることによって救われるのです。つまり、牧草を見出し、安心して、豊かに生きることができるというわけです。それは、羊の群れの一員、つまり教会員とされるということに他なりません。

ここにいる多くの方は既に、洗礼を受けることができました。すでにキリスト者とされました。教会員とされて信仰生活に励んでいます。しかし、今朝、改めて振り返ってみましょう。当たり前のように、今朝も、ここにいるわけですが、考えて見ると不思議なことではないでしょうか。何故、私どもはここにいるのでしょうか。礼拝を捧げているのでしょうか。

先週の説教で、主イエスは、「求めなさい。探しなさい。叩きなさい」と、私どもを招かれました。ここでもう一度、おさらいをしましょう。何度おさらいしても飽きませんし、大切なことです。

ある人は、言うかもしれません。「そんなことは、考えて見ることもない。当然のこと。わたしが主イエスさまを信じたからだ。信じているから、ここにいる。」確かにそれは、間違いではないでしょう。しかしもしも、それだけの信仰の理解、教理の理解であれば、聖書の知識において、決定的に不足していると言わざるを得ないと思います。

わたしは、私どもがどうして、ここにいて、イエスさまを信じるようになったのかということを、もしこのように考えるのでしたら、もう一度、最初から学び直す必要があると思います。「イエスさまが言われたように、自分が一生懸命、神を求めたから救われたのだ。わたしが、救いの道、天国の道、人生の真理の道を、真剣に探したからだ。わたしが、天国の門の扉を開いてもらえるまで、叩き続けたからだ。この自分の信仰心、真理を探究する熱意、誠実さがあったからこそ、信じることができ、救われたのだ。」これを、キリスト教信仰とみなすことはできないだろうと思います。

むしろ、真実は、その正反対です。私どもが、今ここにいる事実、それは、神を見出した、神を自分で発見したからではなく、神がこの私を求め、主イエス・キリストによってこの私を探し出し、聖霊なる神がわたしの心の扉を叩き続けてくださって、ついに、神の恵みの力に押し切られるようにして、心に受け入れたからです。しかし、同時にその事実は、自分自身の意志で選び取ったとも言い得るほどのものです。しかも自分の知性をまったく裏切ることなく、信じたからであるという事実でもあります。この二つは、信仰の事実であって、決して矛盾しません。

つまり、キリスト教信仰とは、「わたしが信じる」という私どもの主体に力が入るのではなく、神が一方的に、恵みによって、愛をもって、信じる信仰を与えてくださる事実に基づくものなのです。キリスト教信仰、私どもの信仰とは、神に与えられた信仰なのです。そこに、キリスト教信仰のありがたさがあるのです。言葉を換えると、それをこそ神の選びと申します。

これもまた、ヨハネによる福音書ですが、その第15章に、主イエスのこのような宣言が記されています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」信仰とは、私がイエスさまを選んだのではなく、むしろ、イエスさまがわたしを選んでくださった、その実りなのです。神御自身が一方的に私どもを求め、探し、扉を開けるようにと叩き続けて下さったのです。

その意味で、私どもは自らの探究心、真理を求める熱心のもと、自ら神や救いを見出した者というよりは、神に救われるようにと、神に見出された者なのです。その意味で、まさにこの門は、言葉の正しい意味で狭いものです。なぜなら、自分じしんで、自分の力で、その努力では、決して、この天国の門、救いの門をこじ開けることはできないからです。

神の前に、自分の清さを誇ることができる人間は、誰一人もいません。自分の正しさや賢さを楯にして、胸をはって、「神さま、わたしは天国の門に入らせていただきます。努力して歩みぬいて、天国に入ります」などと言える人は誰一人もいません。むしろ、あきれるほど私どもの心はドロドロしています。すべての人間は、神の御前に罪人として、神の裁きに服さなければならないほど汚れているのです。

しかしだからこそ、驚くのです。そのような堕落してしまった私どもが、事実、救われた。信じることができたからです。その理由は、ただ一つです。神御自身が、求め、見出し、門をたたき続けて下さったからです。だからこそ、驚くのです。そして、「ああ恵みだ」と神に感謝し、讃美するのみなのです。

 これは聖書の信仰の奥義ですが、「狭い門」とは、その意味で、神御自身がこれを狭くし、これを細くされたのだと、表現することができるだろうと思います。したがって、このみ業を、誰かが、たといどんなに善意であっても、たといどれほどの愛をもってと言おうとも、広げてみせたりすることは、決して許されていませんし、してはなりません。いったい、神よりも賢く、神よりも愛を持つ人間などということがあり得るでしょうか。だからこそ、直前で語られた6節の命令が重く響き渡るのです。「聖なるものを犬に与えてはならず、真珠を豚に投げてはならない。」

 その時の説教でも申しました、いったい誰が犬なのか、誰が豚なのか、それは、決して人間が、教会が識別することはできません。しかし、そこで、圧倒的な事実があるはずです。そのことを心から素直に認めなければならないことがあります。それは、私じしんは神の前に、まさに犬のように、豚のように、つまり、罪人となり下がって歩んできたということであります。つまり、生ける神の存在を無視し、神の愛と恵みを軽んじ、自分のことだけに集中し、神に祈ることも、感謝することも、讃美することもしないまま生きてきた歩みがあるのです。普段は、当たり前のように、神に背中を向けて生活しています。ところが、いざ本当に困った時には、助けてと言うのです。都合のよいところだけは、神を利用しながら歩んできたのです。そうであれば、まさに、罪人以外の何物でもありません。

人間は、本来、神の形に創造され、神と対話することができる、神のいのちを受けて、神のように生きることができる、まさに神聖な存在、尊厳ある存在であったはずです。ところが今や、犬や豚にも劣る人間になり下がってしまいました。犬や豚はあるがままで、そのままで、つまり本能の赴くがままで、神の栄光を現しています。ところが、人間だけは、本来の人間の姿を損なってしまいました。人間の尊厳を自ら汚し、壊してしまいました。

それなら、人間は、神に捨てられても当然のことです。文句など言えません。神の怒りを粛々と受けることこそが、ふさわしいはずです。ところが、父なる神は、私どもを捨てる代わりに、独り子なる神、イエスさまを十字架につけてしまわれました。つまり、御子をお捨てになられたのです。そのような愛の手続きが成し遂げられたからこそ、私どもの前に門が開いたのです。

今朝は、復活祭を祝う礼拝式を捧げています。主イエスは、事実、十字架で神の裁きを受けられ、死なれました。死なれたのは金曜日です。死なれた後、主イエスは、どこへ行かれたのでしょうか。それは、神との交わりの途絶えてしまった場所です。つまり、天国の反対の場所、滅びの場所、地獄です。主イエスは、地獄へと落とされたのです。落とされたのは、他ならない主イエス・キリストの父なる御神、天の父です。このお方が、私どもの罪を主イエスに負わせて、裁かれたからです。罪のないお方、イエスさまが私に代わって裁かれたからこそ、私の罪は償われたのです。

しかし、父なる神の御心はそれで終わりません。十字架で死なれたお方は、地獄に落とされたままではありませんでした。そのようなことは、あり得ないことなのです。父なる神は、御子の私どもに代わって死なれた死、私どもの罪を償うために死なれた死、私どもを神の子として取り戻すために、私どもを犠牲を支払って買い戻された罪の故に、御子の服従と信仰を受け入れてくださいました。それを十分と認めて、死人の中から甦らせて下さいました。

それは、愛する御子イエスさまのためになさったというより、実に、私どもに天国の門を開くためでした。主イエスのご復活によって、神の国に至る道が開通したのです。全面開通したのです。主イエスは、その道そのものとなられたのです。「私が天国の道である」と事故紹介なさったのは、復活者イエスさまにおいてこそ、完全に成就されたのです。

人間が誰ひとりとして自分の力で通れない狭い門、誰も歩けない細い道は、今や、主イエス・キリストの十字架と復活によって大きく広げられました。だからこそ、私どもは、この道を今、歩めるのです。私どもが、まじめで、賢いからこの道を今日まで歩むことが出来たわけではありません。主イエスがまじめに救いの御業を完成し、神の知恵こそがまさに知恵の中の知恵となって、私どもに示されたのです。私どもは、この救いの知恵を受け入れた結果、まさに今、私どもに、罪の赦しが与えられ、永遠のいのち、神との交わりが与えられました。主イエスが約束されたように、やがて主イエス・キリストが再びこの地上に到来されるその日には、私どもの肉体もまた復活して、魂と結ばれて体の甦りを体験します。

この中には、まだ洗礼を受けていない方も少なくありません。今朝、初めて誘われて教会に来た若い仲間たちもいます。また、わたしは、まさに自分の意志で教会に来ているわけではなくて、親に手をひかれたから、当たり前のようにして来ているだけで、確信をもって、この道を歩んでいるわけではない。そう思っている仲間もいるかもしれません。また、洗礼へと学びを始めても、なお、この狭い道を最後まで歩むことはできないのではないか。とためらう思いを抱く方もいるかもしれません。

しかし、牧師である私も、今そのようにお考えになる皆様も、同じことです。要するに、今、ここで、このようにして神に見出されたという事実において同じです。これ以上でもこれ以下でもないのです。今、ここで、神は、私どもの心の扉を、その堅く閉じた門をたたいておられます。赤ちゃんの時から来ていても、大人になって来始めても、私どもは数ある教え、宗教の中から調べてみて、キリスト教こそ最高の教えとして選んだのではありません。そのようにして、生きておられる神を選ぶことはできないのです。

ただし、選ばれた私どもは、選ばなければなりません。ここは、間違ってはなりません。主イエスは、「求めなさい。探しなさい。叩きなさい。」と招かれたのです。どんなに、愛と真実と熱意をもって、燃えるような心をもって、私どもに呼びかけていらっしゃることでしょうか。それは、選ばれているからなのです。このように探し出されたからです。選ばれているのに、神を選ばないのなら、私どもは自らを犬にすることです。私どもは、自分を犬や豚にしてはなりません。私どもは、神の子とされているからです。神の子とされた私どもが、天の神を、心から父よ、愛する父よとお呼びすること、これが信仰です。これが祈りです。この祈りもまた、神が呼ばれたからこそ、できるのです。

先週、生まれて初めて祈祷会に出席した求道中の友と祈りました。三人のグループに分かれて、とにかく短く祈りました。三回に分けて、お祈りしました。わたしは、本当に嬉しく思いました。何故、祈祷会に来れたのか。何故、祈れるのか。それは、彼女に、聖霊が注がれているからです。「わたしの愛する子」と、父なる神に呼ばれているからです。

私どもも同じでしょう。呼ばれていることを認め、自覚するとき、私どももまた祈り始めることができたのです。それが、信仰です。与えられた信仰をもって、自分もまた心の底から、神を選ぶのです。それが、できるようにされているのです。聖霊なる神が働いて私どもも感謝をもって、自覚的に、堅い志をもって、この狭い道を、歩むことができるように変えられているのです。しかも、最後まで歩むのでなければ意味がありません。天国まで歩み続けることこそ重要です。

それなら、その見通しはあるのでしょうか。洗礼を受ける迄に、最後まで信仰を貫く覚悟と自信がみなぎるまで、待つのでしょうか。いいえ、全く違います。自分がこの道を歩み出しているなら、もう信じ始めているなら、発見してくださった神、導いて下さったこのお方だけが、また、最後の最後まで導いて下さるのです。それを信じるのです。自分の信仰心ではありません。発見して下さった神がわたしを最後まで運び続けて下さること、そのような神でいらっしゃることを信じる、それが、私どもの信仰です。

御子は、お甦りになられました。しかし、私どもは主イエスのご復活に際して、何一つとして、力を貸すことも応援も出来ませんし、そのように試みた弟子も一人もいません。しかし、父なる神だけがお甦らせになられたのです。信仰とは、自分を信じることではありません。この命の神、救いの神、私どもに今働きかけ、救っていて下さる全能の神にゆだねてしまうことです。自分の力で天国に行けません。復活できません。しかし、神が、それをなさるのです。その証拠が、キリストの復活なのです。

祈祷
私ども罪人のために、閉じられていた天国の門、罪の赦し、永遠のいのちへの道を大きく開いて下さいました主イエス・キリストの父なる御神。今、私どもはあなたに見出され、あるがままで狭き門を入ることが赦され、この細き道を、主イエスと共に、また教会の兄弟姉妹と共に歩むことが赦されています。十字架と復活による救いの御業を心から感謝致します。どうぞ、この奇跡へと招かれた私どもの幸いと光栄を深く悟らせて下さい。そして、こんどは、私どももまたあなたを選び取り、信じ、この細い道に一人でも多くの仲間たちを招き入れるために、私どもを用いて下さい。    アーメン。