「わたしたちの病を担うイエス」
2010年6月6日
テキスト マタイによる福音書 第8章14-17節
イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。
イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。
夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。
それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。」
山の上で説教をし終えた主イエスは、ご自分の説教が真理であり、真実の言葉であることを証明するために、特に、悩み苦しんでいる人々のところに降りて行かれました。最初に会われたのは、死にいたる伝染病と最もおそれられて、人里から遠く隔離されて生活していた重い皮膚病を病んでいた人のところでした。そして、彼を癒されました。また、先週は、百人隊長の僕を癒されました。
そして今朝のテキストは、その次の個所です。今、主イエスは、ペトロの家に赴かれます。これは、来週の説教テキストに深く関わりますが、ペトロとは、主イエスの一番弟子となった人です。ペトロがどのように、弟子となったのかは、第4章18節以下に記されています。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」この主イエスの招きを受けて、ペトロとその弟のアンデレは、ただちに、網を捨てて、つまり、漁師を辞めて、主イエスに従ったのです。
さて、先ず、このことについてゆっくり考えて見ましょう。現代の我々にとって、とりわけ自分が夫の立場の人であれば、ペトロのこの行動に大変、驚かされると思います。何故なら、シモンは、そんなに重大な決断を、妻にも家族にも相談していないからです。そんなことは、我が家では考えられないと思う方は少なくないと思います。シモンという夫は、どれほど亭主関白なのかと思います。あるいは、うがった物の見方をすれば、ああ、この夫婦の間に何か問題があるのではないかと、夫婦関係の悩みを想像するかもしれません。しかし実は、当時の社会から考えて見ますと、驚くほどのことではありません。むしろ普通のことだったのだと思います。何故なら、当時は、徹底した男性社会だったからです。
ただしかし、だからと言って、自分たちの状況とは違うと安心したり、読み飛ばすことはできません。ここから、私どもが学ぶべきことは、豊かにあります。それは、主イエスにお従いするかどうかという決断は、誰彼と相談して決めることではないということです。神を、主イエスを信じるということ、信仰とは、徹底的にその人個人のことです。主イエスが、「あなたはわたしに従いなさい」と自分じしんを招かれのですから、招いてくださったお方との個人的な関係に基づくのです。そこには、たといどれほど親しい者であっても、妻や夫であっても、親や兄弟であっても、友人や恋人であっても、自分以外の誰も介入できません。介入させてはならないのです。それは、まさに厳かなときです。キリスト教信仰、まことの信仰とは、人間をまさに、真実の意味で、たったひとりの、かけがえのない、自分自身にするものなのです。そうやって、主イエスの前にひとりのそして、誰とも置き換えられないこのわたしが信じ、従うということなのです。
先週、洗礼を受けて教会員となられた兄弟も、信仰告白して教会員となられた姉妹も、その意味では、家族の誰それの意見に従うとかではなかったはずです。キリスト教信仰とは、神を信じるとは、実は、人間を本当にしっかりと立たせることとなるのです。その意味で、本当に自立した人間へと神が育てて下さるその第一歩を踏みしめるということです。
ところが今朝、私どもは主イエスさまの行動に驚かされるのです。先ほど、シモンの夫婦関係は良くなかったのかもしれないなどと、申しました。しかし、もしも、夫婦関係が良くないのでもう伴侶との生活を捨ててキリスト教へ没頭するとか、自分の仕事や生活に飽き足りないのでキリスト教に入りこむなどということがあれば、むしろ、聖書の教えから離れることです。
それを今、主イエスの行動によって明らかにされようとしています。主イエスは、ペトロの家に行くのです。あるいは、ペトロはお婿さんで、妻の実家に行くということなのかもしれません。いずれにしろ彼は、初めて主イエスを自分の家に迎え入れます。しかも自分の方から、願い出たたわけではありません。彼は、まさに大きな覚悟をもって、主イエスにつき従い始めたはずです。もう、家のこと、妻のこと、少なくとも今しばらくは放っておいてでも、主イエスと生活を共にし、主イエスの伝道のお働きの助けをすることに集中するのだと覚悟を定めたのだと思います。
ところが、主イエスの方が、彼の家を目指して進まれるのです。すると、どうでしょう。なんと、妻の母親が熱を出して寝込んでいたのです。妻も困っていたはずです。そして、夫のシモンを恨めしく思ったのではないかと思います。まるで、主イエスは、そのような彼らの状況を見越しておられたかのように、訪ねます。そして、あの重い皮膚病の人を癒されたように、主イエスは、姑の手にお触れになられます。すると、何と言う事でしょう。彼女の熱はサァーとひいてしまったのです。
見ている人は、最初、何が起こったか分からなかったでしょう。しかし、本人は分かりました。娘からお婿さんを、子どもたちからお父さんを奪ってしまった、その先生がのこのことやってきて、心の中で憤りさへ湧いていたのかもしれません。しかし、その先生が、自分の手に触れてくださった瞬間に、熱が冷めたのです。立ちどころに、起き上がる力が湧きあがったのです。この人が、自分を癒して下さったのだと、彼女は、確信したのです。
さて、その結果、何が起こったのでしょうか。すばらしいことが起こりました。「イエスをもてなした」のです。もてなすとは、ディアコニアというギリシア語が用いられています。仕えるとも、奉仕するとも、訳せます。丁寧に、訳せば、「もてなし続けるようになった」です。癒していただいて感激した数週間と言う意味ではありません。それからずっと、主イエスに奉仕する人になったのです。つまりは、女弟子になったというのです。実は、この奉仕を担うという表現が、特定の人に当てはめて用いられるのは、第4章で、天使が仕えたと言う個所と、主イエスが死なれた後、ご遺体を葬るためにかけつけたあの婦人たちについてだけです。つまり、真実な主イエスの奉仕者、助け手となったトップバッターは、シモンでもなくアンデレでもなく、この姑だと言ってもよいのです。
つまり、シモンの家族は救われたのです。主イエスを家族、血のつながりのない姑も誰より主イエスを慕い、主イエスにお仕えするのです。キリスト者の家庭、クリスチャンホームが造られたのです。
来週のテキストで学びますが、確かに、主に仕える道は、厳しい道です。全てを捨てて、止めて従う道です。その事実は、あいまいにできません。しかし、主イエスご自身は、私どもの家族をお捨てになられることは断じてありません。シモンのように、弟子たちのように主に従うとき、自分も自分の家族も主の顧みの中にあることを信じるのです。だからこそ、正しく、主に仕えることができるのです。
しかし同時にそれは、自分たちが、自分たちの手で、自分の責任で、家庭生活を職業生活を守ろう、維持して行こうと自分の生活をこれまで通り続けて行くことではないのです。神さま半分、自分の責任、がんばり半分ではありません。そのような中途半端では、神さまのご計画が進まない、それを邪魔してしまうのです。
さて、物語はさらに続きます。それを見た人々、その噂を聞きつけた人々は、夕方になって、自分たちの知り合いの病人を我も我もと連れて来ました。おそらく大きくはないシモンの家は、大変な騒ぎになったのだと思います。
ここで、少し説明した方が良いと思いますが、聖書には、「悪霊に取りつかれた」と表現されています。これは、当時の人々の理解に合わせた表現、人々の考えに基づいた表現なのです。病は気からと言われ、病気と書くのだと言われますが、この当時は、病とは悪魔の仕業であると考えられていました。ですから、人々の目に映ったイエスさまは、悪魔を追放する人でした。当時、イエスさまは、病気を癒す人としても世間に認められていたわけです。
さて主イエスは、このシモンの家を、言わば、臨時の療養所とされます。そこで、誰よりも喜んで奉仕したのは、大活躍したのは、このしゅうとめだったのではないかと、わたしは思います。イエスさまとシモンのしゅうとめは、力を合わせて、病人を癒されたのではないかと思います。
さて、このとき、イエスさまは、どのようにして病を癒されたのでしょうか。悪霊を追い出されたのでしょうか。先週と同じように、ここでも御言葉です。御言葉の権威を、何度でも彼ら弟子たちに教えるのです。
群衆は、イエスさまが「悪霊よ、出て行け」と宣言される言葉を聴きながら、熱のあった者は、熱が引いて、目の見えない人、足や手の不自由な人、内臓疾患で立ち上がれない人、その一人一人が、癒されて行く姿を目撃してまいります。主の御言葉にはいのちと権威、力があることを目撃するのです。弟子たちも、その日、弟子となった姑も、おそらくはペトロの妻たちも、主イエスとその御言葉の力を、身にしみて経験させていただいたはずです。
さて、三番目、マタイによる福音書が最後に引用した、イザヤ書第53章の預言の言葉を学んで終わりましょう。「彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。」
わたしどもは、既にマタイによる福音書を読み始めて、2年になりました。マタイによる福音書の一つの、しかし決定的に大切な特徴、性質があります。ぜひ、一度通してお読み頂きたいのですが、「預言者を通して言われたことが実現するためであった。」という言葉が何度も繰り返されていることに、お気づきになれるはずです。
私どもはすでに第5章17節で、聖書に対する基本的な知識、理解を得るために決定的に重要な主イエスの宣言を学びました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」律法や預言者とは、旧約聖書を構成する文書のこと、つまり旧約聖書のことです。預言者とは、旧約聖書のことです。旧約聖書で言われている事柄が、今ここで、実現した。成就した。それを、何度でも、著者マタイは、明らかにするのです。
マタイはここでも、こう記しました。「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。」ここには、主イエスが何故、これほどまでに病の癒しに打ち込まれたのか、何故そのために、これほどまで激しく働かれたのか、その理由が示されています。
もとより、主イエスは、目の前で悩み、苦しみ、痛んでいる人々を見捨てることなどお出来にならないからです。しかし、それ以上の理由があります。それは、ご自身が救い主であられることの証拠を、そこで明らかになさるためです。しかしそれは、どこかの新興宗教がやって見せるようなまがいものではありません。信じたら病気が治る。商売繁盛する、などという伝道を主イエスは一切なさいません。これ見よがしに、奇跡を行われません。むしろ、なるべく人目につかないように、とのお考えがあったのです。
主イエスが病を癒されたのは、主イエスにさかのぼる900年前、イザヤが告げた御言葉、神がイザヤに預けた御言葉を成就するためなのです。あの約束が今ここでこのように鮮やかに実現していると証明するためなのです。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」この宣言を、イザヤ書の予告を成就することによって、確かなものとして、証明なさっていらっしゃるのです。
さて、そこで、私どもが誤解してはならないことがあります。それは、主イエスをまるで、スーパーマンのように、全能者であるように理解することです。何を言いたいのかと申しますと、イエスさまは、まことの人、人間ではあるけれども、神の御子、人となられた神でいらっしゃるから、病を癒す事など、言わば猫の手をひねるかのように簡単なことのように考えられてしまうことが起こると思うのです。
しかし、イザヤが預言したのは、単に「癒す」ということではありません。「彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。」ここで、病を負う、担うと言うのです。つまり、主イエスは、普通の医師のように、癒されたわけではないのです。言い方は、悪いのですが、上から、手軽に癒されたのではありません。このような医者はまさにユニークで、イエスさま以外にはいらっしゃらないはずです。つまり、この言わば、医者は、病む人そのものの病、患いを自分のこととして引き受けてしまわれるということです。
いや、医師ではなくとも、私どもであっても、もし愛する者が病に倒れたとき、自分が代わってあげたいと思うことがあるかもしれません。しかし、実際には代われません。何よりも、病の苦しみの恐ろしさを思うと、自分が代わってあげたいなどと簡単には言えないと思うのです。
しかし、主イエスは、真実に、「代わってあげたい」と願われたのです。それは、甘いことではなく、本気で、その病を自分が肩代わりしてあげたいと願われたのです。その病の恐ろしさ、苦しさを知らないからではありません。本当に、このお方こそが、知っておられるのです。
主イエスは、本当に、わたしの病を背負い、自分が病人になられるのです。そのような医師は、このイエスさま以外にいないと思います。
ただし、こう記したマタイ自身も、他の弟子たちも、誰ひとりとして、このとき、イエスさまがイザヤの預言を成就しておられるのだとは知らなかったはずです。それなら、何故、気づいたのでしょうか。分かったのでしょうか。
それは、主イエスが十字架につけられた時です。十字架の上で御血を流され、死なれたときです。そして、この死んで葬られたイエスさまが、ご復活されたときです。十字架につけられ、そこで恐ろしいばかりに苦しまれたイエスさまを見たとき、彼らは気づき始めるのです。そして、復活のイエスさまのお会いしたとき、ついに、目が開いたのです。あのイザヤの預言の意味が分かったのです。
つまり、十字架の苦しみこそ、わたしのためだ、わたしの身代わりになって苦しんでくださったのだ、と気づいたのです。
そうすると、ここでの患いや病とは、単に肉体上の事柄だけを意味しているのではないことが分かります。むしろ、ここでの病や患いとは、人間の、私どもの、いへ、わたし自身の罪を意味しているのです。
先週の愛餐会の折、昨年、洗礼を受けられた姉妹が、正確ではないかと思いますが、このようなことを仰いました。「洗礼を受けて本当に罪人になる。」不思議な表現です。洗礼を受ける前は罪人で、洗礼を受けたらその罪が赦されるのだから、おかしいのではないかと、思われかねない表現です。しかし、わたしは、その意味は良く分かりました。本当にその通りと思います。「洗礼を受けて本当に罪人になる。」というのは、洗礼を受けたことによって、自分が正真正銘、罪人である、という自覚が生まれるという意味でしょう。主イエスを信じた後で、初めて、自分の罪深さが本当に分かってくる、ということです。もとより、洗礼を受ける前に分からなければ、洗礼を施されなかったはずです。しかし、洗礼を受けた後、信仰の成長に伴って、いよいよ真実の自分の姿が見えてくるのです。それは、罪人である姿です。赦されて、神の愛を知った時、神さまの愛の懐にしっかりと抱かれる喜びと安心とを知った時、私どもは、これまで神さまなしで生きてきた罪人の恐ろしさが、心底分かってくるのです。まさに、神の呪い、神の裁きということが、リアルに分かってくるのです。
そこで、あらためて罪とは何かということを確認しましょう。罪とは、神に反抗して生きるということです。罪とは、神の御言葉を破ることです。罪とは、そのようにして神との正しい関係を失っている状態です。神とのいのちの絆がまったく絶たれていることです。聖書で言う罪とは、地上の法律を破って、犯罪者となるということではありません。神との関係のことなのです。
罪とその恐ろしさは、イエスさまとの正しい関係を頂いて始めて分かるのです。主イエスとのいのちの絆に結ばれて初めて「ああ、なんという恐ろしい生き方をしてきたのか」と気づけるのです。「よくも、あんなに恐ろしい、暗闇の中で、しかもその暗闇を暗闇とも思わないで生きてきたものだ」と思うのです。罪の中にいたとき、それが分からないのです。それは、神の裁きを受けていたから、滅んでいたからなのです。
たとえて言えば、不治の病に犯されていても、なお自覚症状が出ていない場合があります。たとい自覚症状はなくても、病の現実とその恐ろしさにはかわりありません。しかし私どもは、主イエスに癒され、罪赦されて初めて知ることができるのです。分かるのです。自分は、なんと麻痺していた、生き方をしてきたのかということです。まさに、罪とは、自分の罪に無自覚でいるということです。そして罪を赦されて初めてそれを悟ることができるのです。
しかし、主イエスに赦されて、愛されて、その愛の中で知るのです。主イエスさまの十字架の上での苦しみのあの恐ろしさを仰ぎ見ることによって、知るのです。ああ、自分の罪がどれほど恐ろしいかをです。そして同時に知るのです。主イエスの愛がどれほどまでに真実な愛であるかをです。
あのシモンの姑は、自分の方から、どうぞ家に来てわたしを癒してくださいと言いませんでした。にもかかわらず、主イエスの方から、一方的に家を訪ねて来て下さったのです。そして、触って下さったのです。私どもにも主イエスは、同じようにしてくださったのではないでしょうか。
わたしの病の恐ろしさ、私どもの罪の悲惨さをご覧になったイエスさまは、こう仰ってくださったのです。「ああ、かわいそうだ、わたしがあなたの罪の裁き、神からの刑罰を、身代わりになって受けてあげよう、わたしが引き受ける。そして、私が神さまから受けている霊的な祝福、罪の赦し、永遠の命、神の子としての立ち場、特権を与えてあげる、あなたの罪と呪いをわたしのいのちと祝福とを交換しよう。」
人となられたイエスさまは、私どもの病を、私どもの罪をたったひとり担い、背負って下さったのです。病人、罪人である私どもに、ご自身の健康をあますところなく注ぎ、与えて下さるのです。
病が癒えないことが、人間の最大の問題ではありません。人間にとって、根本的な問題、課題とは、罪がそのままになる、神さまに赦されないままになることです。しかし、今、私どもは、知りました。十字架の上で、私どもの罪を担い、背負って下さり、本当に苦しみぬき、痛みぬいてそれに打ち勝って下さったイエスさまのはかり知れない愛を知りました。心から感謝致しましょう。そうであれば、私どももまた、あのペトロの姑のようになりたいと思います。今朝、もう一度志を新しくしましょう。洗礼を受けた兄弟姉妹たちは、最初の愛に戻り、また深めて、主イエスに奉仕する者とさせていただきましょう。
祈祷
私どもの罪を御子に背負わせ、十字架の上でご自身の独り子を罰せられた父なる御神、あなたの愛は、真実の愛でした。旧約聖書の御言葉の約束通り、あなたは御子なる神を人とならせ、私どもの病、患いを担わせられたのです。私どもは、あなたの信じられないほどの犠牲的な愛、驚くべき真実の愛で愛されて初めて自分の罪を知りました。しかも今、私どもはその罪を徹底的に、ことごとく赦して頂いたのです。御名を崇め、心から感謝いたします。そうであれば、どうぞ、私どもの人生を、御子に仕える生涯とならせてください。中途半端な信仰によって、私どもの生涯、私どもの家庭に対するあなたのご計画を損なうことを恐れます。どうぞ、私どもに御言葉を素直に受け入れ、信じ、従う信仰を富ましめてください。アーメン。