過去の投稿2010年8月31日

8月29日

☆  今年の夏は、猛暑と言うだけでは足らない、酷暑となりました。熱中症で、お亡くなりになられた方も、多数出ました。心より、お悔みいたします。人生の大先輩の方々の中には、冷房は体に悪いとか、冷房を入れるのは贅沢(?)のようにお考えになる方もいらっしゃるようです。しかし、今や、日本は、クーラーがなくては、死に至るような環境変化にあります。この暑さ、なお、しばらく続くようです。どうぞ、ご自愛くださいませ。

★  中部中会学生会の夏の修養会、「愛について」という大きな主題のなかで、「イエスさまからの愛」「イエスさまへの愛」という、二つの講演を行いました。 第一の講演では、特に、「スプランクニゾマイ(深く憐れむ)の神」ということに集中しました。はらわたを痛めるような激しい神の愛、憐みです。第二の講演は、その与えられた愛を、主イエスへの愛、隣人への愛へと転換する、道について、語りました。御言葉と礼典とそして何よりも祈りにおいて「良心を磨くこと」一生涯「修練」を重ねることの恵みと必要性を語りました。第二は、ぶっつけ本番のようになってしまいました。

☆  中部中会学生会の修養会は、お許しを頂き、夜の祈祷会出席のために半日、戻りました。先々週の、  聖書についての質問が、ずっと心にかかっていたからでもあります。聖書の御言葉をどのように解釈するか、私どもの信仰と生活にとっては、まさに生命的に重要だからです。内よりも、信仰の良心を痛ませるような問いかけだけが残っていては、それこそ、生命的に緊急のことと考えるからです。

   これまでのわたしの説教を聴いて下さった皆様は、「この説教者は、聖書66巻を神の言葉として聴きとり、正典として受け入れ、説教しているのだ」、このように信頼されていることを「確信」しています。聖書の記事を、人間の思いのなかで「合理化」して、神の真理を「薄める」ようにして、自分勝手に解釈しているという印象は、お持ちになられる方はいらっしゃらないと思います。そのような、いわゆる「リベラル」な聖書学者・解釈者との戦いを続けて来たと、自負してもします。

   それだけに、先々週、質問を受けた折、マタイによる福音書に記されている、十字架において、起こった出来事についての解釈について、ある方は、「とまどい」もしくは「躓き」を覚えた方もいるかもしれません。
   日本キリスト改革派教会は、創立40周年の折、「聖書について」とする「宣言」を公にしました。当時、日本のキリスト教界のなかで、「聖書学」(聖書についてのさまざま学問)のさまざまな研究成果の中で、教会を神の権威によって建て上げることを、破壊したり、損なったりするような、つまり、聖書の権威に対する様々な学説のなかで、翻弄される教会、牧師(説教者)が起こって来たのです。それに対して、私どもの教会として、聖書をどのように信じるのか、どのように読む(解釈)するのか、あらためて確認することにしたわけです。(残念ながら、当時のことは、リアルタイムでは、知りませんが・・・)

   日本キリスト改革派教会は、他教派、他教団の方から、いわゆる福音主義、聖書主義にもっとも純粋に立脚する教会だとみなされたこともあったと思います。また、聖書解釈に対して、「リベラル・自由主義」に「堕落」したのではないかと疑義がだされたこともあったのです。これらに対して、まさに、40周年宣言が明快に答えたのです。そして、これは、わたし自身も、自分の立場として、まったく受け入れられるものです。

   その中で、夜の祈祷会で、読み、学んだ部分は、下記のとおりです。いささか、難しいのですが、皆さんにも、ぜひ、味わって頂ければと思います。

「【神学的解釈】    聖書は、キリストにおける神の和解のみわざに対するその証言に照らして、解釈されなければならない。  神はその救いの啓示を、聖なる人々によって漸進的に与えられた。神は、啓示と霊感の神であると同時に、摂理と恩恵の神でもあられる。聖書の生成は長期間の実に複雑な過程であり、そこには無数の極めて多様な神の諸活動が含まれており、そのすべてが聖書の生成に関係している。聖書記者たちは、この神によってそれぞれ異なる性質と才能と教養を与えられ、支えられ、導かれて、それぞれの時代に普及していた言語や慣用句や文学様式を用い、また、さまぎまの伝承や歴史的資料を用いて、誤りなく神のみ言葉を書きしるした。

【文献的歴史的研究の必要】    従って、聖書を解釈するにあたっては、その文章が書かれた時の歴史的状況と文学様式に考慮を払い、文献的歴史的理解をもって近付かなければならない。そこで、私たちは、歴史における聖書の位置と背景、ならぴに聖書の性質と目的をよりよく理解する助けとなるような聖書の研究は、これを歓迎する。」