「傷ついた葦を折らず」
2011年1月16日
テキスト マタイによる福音書 第12章15-21節
【イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。
それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、わたしの選んだ僕。
わたしの心に適った愛する者。
この僕にわたしの霊を授ける。
彼は異邦人に正義を知らせる。
彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。
正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。」
今朝も主イエスがつくりだして下さった安息日に、この聖なる礼拝堂に招かれました。主イエスにあって一つの民、一つの家族とされたお互いの安否をここで確認し合いつつ、今朝もまたここで、主イエスが私どもの間に、ひとりひとりによいみ業、神の救いの御業をなして下さいます。主イエスのいのちと限りない愛のもてなしを受けています。心から主の御名を崇め、感謝致します。
さて、主イエスは安息日の会堂の中で、ファリサイ派の人々の面前で、癒しの奇跡を行われました。彼らの顔は怒りと嫉妬で燃え上がり、ついに殺意を産み出し、具体的な相談をし始めだしました。その姿を見て取られた主イエスは、今、会堂を出て行かれます。
「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。」主イエスは、今、大勢の群衆と共に、ユダヤ会堂を出て行かれます。これは、ただ単に、歴史的な事実を報告しているということに留まらないと思います。マタイは、これを一つの象徴的な出来事、物語として描き出したはずです。主イエス・キリストは、今まさに、ユダヤの会堂を出て、ここからいよいよ新しい民を造って行かれるということを意味しているのです。言うまでもなく、これが私ども、キリストの教会に他なりません。このマタイによる福音書を産み出した教会、言わばマタイ教会こそ、今まさにそれを経験しているのです。
キリストの教会は、ユダヤの教会から出て行くこととなるのです。主イエスと共に、そこを去らなければならなかったのです。なにより今、まさに彼らはそうしているのです。そうせざるを得なかったわけでもあります。マタイの教会こそは、ユダヤ人からの激しい迫害を受けながら歩み続けた教会に他なりません。
さて、しかし何よりも使徒マタイがここで、私ども読者に鮮やかに示そうとなさることがあります。マタイによる福音書の一つの鮮やかな特徴は、これまでも既に何度も見て参りましたが、旧約聖書を成就なさったイエスさまというメッセージです。つまり、ナザレのイエスさま、十字架で殺されたイエスさまこそ、旧約聖書の約束していたメシアその方、キリストに他ならないということです。ここで、マタイはまさに、ひと息いれるような思いで、あらためて鮮明に証するのです。
そこで開かれた旧約聖書はイザヤ書第42章1節~4節です。したがって、今朝は、このイザヤの預言の言葉を中心に、主イエス・キリストとはいかなるお方でいらっしゃるのか、何をしてくださったのかを改めて学びます。
最初に、これです。「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。」すでにお気づきの方も少なくないと思うのですが、新約聖書は、そしてマタイによる福音書もまた、旧約聖書を引用しながら、キリストを証言します。しかし、その旧約聖書は、かなり自由に著者たちが翻訳しています。それは、今日の私どもの常識から申しますと、驚かされるほどです。
もとのイザヤ書はこうです。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。」意味はまったく同じです。イザヤが預言した、主なる神が選ばれた人とは直接的には、ペルシアのキュロス王を意味しています。なんと異邦人の王が、ユダヤの民を救出するという預言です。それは、あのとき成就致しました。しかし、マタイによる福音書は今、イザヤのこの預言の真実の成就とは、キュロスによる解放ではないと言うのです。イザヤじしんも驚くかもしれないほどに寸分たがわない仕方で、100点満点というような仕方で、完璧に成就されたお方を、告げるのです。そのお方こそ、主イエスさまです。
実は、使徒マタイじしんもイザヤのことを、笑う事などまったくできません。むしろ使徒マタイの方こそ、イエスさまと生活を共にしながら、その時には、このお方の真実がまったく分かっていませんでした。マタイが本当に、イエスさまのことが分かったのは、ご復活されたイエスさまにお会いし、聖霊を注がれた後だったのです。しかし、そのとき、マタイは、はっきりと分かった、悟ったのです。「ああ、あのイエスさまこそ、まさに、イザヤの預言の成就だったのだ。」それが、マタイによる福音書そのものを執筆する喜びと使命の原動力となったのです。
このように誰でも、人は、聖霊が注がれるてはじめて、信仰の眼がパッと開かれるのです。目に見えない神を、目に見える以上に確かに信じることができるようになるのです。
そもそも、イザヤ書第42章1節の「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。」これは、私どもに、主イエスがヨルダン川で洗礼をお受けになられた時、天からの父なる神からの宣言を思い起させるかと思います。「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。」あのときも天が開きました。そして神の霊が主イエスに注がれたのです。
そしてこれはまた、イエスさまだけに起こった出来事ではありません。むしろ、父なる神が、洗礼を受けてキリスト者となった者たちに、「あなたはわたしの愛する子、あなたはわたしの心に適う者」と宣言してくださる、そのモデルなのです。もとより、この宣言は、イエスさまのためであることは当然です。しかしむしろ、後のキリストに結ばれるために洗礼を受けるキリスト者たちのためにこそ天が開かれ、この父なる神の宣言が記録されたのです。「あなたはわたしの愛する子、あなたはわたしの心に適う者」
また、天が開かれるのは、何も、一生涯で洗礼を受けたそのときだけでは、まったくありません。それは、安息日である今この礼拝式でこそ、起こっています。この礼拝堂で、天が開かれています。そして、天が開かれる時何が起こるのでしょうか。それは、天から声が聴こえるということです。それを教会は、説教と呼んで参りました。聖書の言葉が開かれると言い直しても良いのです。
主イエスが洗礼をお受けになられたときも、天が開かれ、「神の霊が鳩のように御自分の上に降って来」られたのです。まさに、「この僕にわたしの霊を授ける。」との預言が成就したのです。この聖霊は当然マタイにも注がれました。だから、分かったのです。イエスさまがキリストであると。だから、マタイによる福音書が編まれたのです。そして、もはや言うまでもありませんが、ここにいるキリスト者ひとりひとりにも今、この聖霊を注がれています。神の霊によって、今、私どもは礼拝を捧げているのです。そうでなければ、真実の礼拝ではないのです。
さて、いよいよ、このお方が何をなさるのかを見て見ましょう。「彼は異邦人に正義を知らせる。」イザヤ書では、こうです。「彼は国々の裁きを導き出す。」正義とは、神の裁きのことに他なりません。神の審判のことです。黒か白かはっきりさせる、右が左か、まっすぐな線を引いて、分けることです。主イエスは、ユダヤ人だけではなく、世界のすべての国々に、全世界の人々に正義を知らせるお方なのです。
そして、この神の正義の審判とは、どのように異邦人に、世界中の人々に下されるのか、それこそ、マタイによる福音書が感激を込めて記し、読者に訴えているメッセージ、真理なのです。
そして、それは、すでに先週学びました。何度おさらいしても飽きることはありません。主イエスは、安息日、ユダヤの会堂の真ん中で、片手の萎えた人を大切にしてくださいました。神が人間を大切にしてくださるということが、神に大切にされているということがどれほどまでの事であるのか、主イエスはそれを行いによって見せて下さいました。片手の萎えたあの名もなき一人の男性を癒されたのです。
しかしそれによって、主イエスは、ファリサイ派の人々の妬み、憎しみ、怒りを買って、ついに殺害の相談をし始めることになったのでした。神の正義、それは、ユダヤ人、ファリサイ派の人々が、自分たちの判断で、線を引いて、これは、片手の萎えた人だから、仕事もできず社会から重んじられなくても仕方がない人。これは、異邦人。だから、神から捨てられて当然の人々、そう審判していたことを、覆してしまわれたということです。
さて、もとに戻りましょう。この真実の救い主、メシア、キリストは、どのようにその正義を実践して行かれるのでしょうか。イザヤは、預言しました。「彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。」
先ず、「彼は争わず」に着目しましょう。直ちにわかることかと思いますが、主イエスは、論争を否定されません。ファリサイ派や律法学者たちと安息日をめぐってまさに論争されたばかりです。また、使徒言行録を読めば直ちに分かりますが、使徒たちはまさに福音を論証するために、戦い、論争しました。しかし、マタイはここでイエスさまのお姿を、まさにイザヤの言葉そのものであったと回顧しています。
主イエスは、論争しても、それは、相手の間違いを攻撃して勝利して、溜飲を下げることでは決してありません。それは、自分の正しさにこだわっていないということです。主イエスが言わばこだわられたのは、ご自身のことではなく、天の父なる神の御心なのです。このお方が、そのお心が、正しく現されること、ただそれだけを求めていらっしゃるのです。それが争わないということの意味です。実は、キリスト教の神学とはそもそも論争の学なのです。異端者たちに対して、これが聖書の信仰であると自らの信仰を定義することが、神学の一つの大きな成り立ちなのです。したがって、うっかりすると神学の専門家たちは、それぞれの神学を展開するとき、自分の説にこだわります。そして、神学と言う学問は、その他の学問と同じように、神学者の立場、立ち位置によって異なるのです。そうすると、一致するよりは、違いの方に目を奪われやすいのです。これは、私どものような専門家にとって、常にわきまえていなければならないことなのです。もし、それが単なる論争の学になれば、むしろ教会にとって有害になるということもあるのです。神学者はどれほど間違いを重ねてきたのかということです。
しかし教理は、教会の受け入れてきた信仰告白は、大きく異なります。つまり、神学者個人の信仰が前面に出ないからです。教会が合意の上で、これが今の自分たちにとってもっともふさわしい聖書の信仰、神への賛美として、教会として告白するからです。私どもが祈祷会で学び始めているニカヤ信条は、まさに、神学の根源でありつつ、神賛美そのものなのです。
次に、「叫ばず」とあります。それは、大声をあげて、威圧的に語らないという意味です。わたしどもは、つい家庭の中でも、相手を動かそうとするとき、そのような意味で叫びます。親は子供にそうしやすいのです。また、反抗期になれば子どもたちも、やられたようにやり返す、つまり、親に言葉の暴力や威圧的に立ち向かうということもあるでしょう。我々人間は、その社会の中で、どれほど、その意味で叫んでいるかと思います。権力者たちがしてきたことは、結局そのようなことでした。威圧的に語って、説き伏せ、ねじ伏せるのです。しかし、主イエスは、しばしば声を挙げて、叫んでおられます。しかし、それは、威圧するためではなかったのです。神のほとばしる愛が叫びとなるのです。人々を救うために、最も大切ないのちのことば、神の国の福音を聴かせ、救うためです。
次に、「その声を聞く者は大通りにはいない。」今、主イエスの説教は時に大声を張り上げられたことを語りましたが、同じようにまた、主イエスは、至る所で神の国の訪れを告げました。それは、大通りであろうが、会堂であろうが、個人の家であろうが、山の上であろうが、必要であれば、どこででも天国が来ていること、天国に生きるための教え、悔い改めと信仰とを語ったのです。その意味では、ここでも、文字通りに解釈することはできないはずです。
大通りで語らないということを解釈するためには、山上の説教の第6章の冒頭を思い起してみたいと思います。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。」他にもありますが、これ以上、読み返す必要はないと思います。
実は、昨年、インターネットでこのような記事を見つけました。ここでご紹介すべきか迷いましたが、この緑区のある教派の牧師さんが、アフリカに行って、大きな癒しの集会を開いて、そこで、死んだ少女を蘇生させたという記事を見ました。わたしも緑区で伝道して、おそらく二番目に古い牧師になっているかと思います。既に、いろいろな教会があります。わたしは端的に申しまして、それをキリスト教的な集会と言えるのかどうかはなはだ疑問に思います。むしろ、それこそ、主イエスがお喜びになられないようなあり方ではないかと思うのです。主イエスは、ここで「御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。」戒めるとは、𠮟責とも訳せます。そもそも、そのような奇跡が本当にそこで起こったのかどうか、これは、わたし個人の思いですが、そこから検証が必要だと思います。主イエスの癒しの奇跡の意味とは、明らかに違うと思います。もとより、今日でも、神がそれを望まれれば、それは必ず起こるでしょう。
さて、なお、このお方がなされることを見てまいりましょう。「彼は~正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。」ここで「葦」が出て参ります。川や湖畔にはえいずる葦です。それは、まっすぐに伸びて行きますが、まことに折れやすいものです。夏になれば、多くの家で、葦を束ねた「よしず」を立てて、日照りを防ぎます。傷ついた葦はよしずになれません。すぐに折れるからです。したがって、よしずを造る場合には、傷ついた葦は、すぐきちんと折ってしまった廃棄処分にしたのだろうと思います。
次に「くすぶる灯心」です。昔の灯りは、ろうそくかランプによってもたらされました。昔のろうそくやランプは、灯心が燃え尽きて一度、消えてしまったら、火を起こすのは、なかなか面倒であったかと思います。そうであれば、くすぶり始めたら、次の灯心にすばやく交換したのだと思います。
これらのイザヤの預言は、すべて比喩です。有名なキリスト者の哲学者パスカルが、その手紙に「人間は、一本の葦である。しかし、考える葦である。」と書いたと言われています。それは、このイザヤの言葉が背後にあるのだろうと思います。考えること、思索することこそ、人間の尊厳であるということなのでしょうか。いずれにしろしかし、その葦は、まさに傷つきやすく、折れやすいのです。そして、それは、風か人間に折られてしまうのです。くすぶる灯心もまた、私どもの存在を言いあらわしているのでしょう。
「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心」この二つともの実例こそは、あの片手の萎えた人に他なりません。そして、その人を律法学者やファリサイ派の人々は、彼に関心を持たなかったのです。線を引いたのです。しかし、この神のメシア、父なる神の喜ばれるイエスさまは、どのように扱ったのでしたか。何度、くり返しても飽きません。主イエスは、その御いのちを掛けて、彼を癒されたのです。主イエスは、行いで語られました。「あなたは、神さまにとってこれほど大切にされているのだよ。あなたは、神のいのちを犠牲にしてでも、神の子として取り戻したい宝物なのだよ。」
言うまでもなく、それは、ここにいる私どもにも当てはまります。私どもも、主に癒されて、ここにいるのです。今、それほどまで神に大切にされていることを、心から感謝したいと思います。
主イエスが傷んだ葦でしかない私どもの楯となって下さいました。傘となって下さいました。暴風も雨嵐も主イエスが防いでいてくださるからこそ、今、ここに生かされているのが私どもです。こんな人は、交代してしまおう、もっと新しい灯心があるではないか。もっと光り輝く人材が他にたくさんいるではないか。そのような世間の声、世間の正義、社会の審判に対して、これがわたしの正義、これがわたしの審判なのだと言って、「くすぶる灯心」にまことの油である聖霊を注がれたのです。わたしどもを暖かく燃やしてくださったのです。こうして、「世の光」としていただいたのです。
この正義、この神の裁きが実現するために、主イエスは、殺されました。いへ、御自らのご意思によって、十字架に赴かれたのです。父なる神御自身の親心の故に、この愛するわが子は、私どもの罪を贖う代価として、十字架で支払われたのです。こうして、傷つくどころではなく、既に折れてしまった葦でしかない私どもをまっすぐに立たせて下さったのです。くすぶるどころではなく、既に消えてしまった灯心を、赤々とこれまでと違う光を放つ者に変えて下さったのです。これが、神の正義なのです。裁きなのです。主イエスは、12章6節で、「わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない。」と、父なる神の真心を、親心を宣言してくださいました。はらわたをいたませるまでの激しい憐れみ、痛みを伴う愛が、神のただしい裁きなのです。
イザヤは預言しました。「異邦人は彼の名に望みをかける。」その異邦人たちが今ここにいるのです。私どものことです。私どもは、救われて、こうして主イエスの御名を唱えているのです。
いったい、主イエスの御名を唱える、主イエスの御名でお祈りするのは何故ですか。主イエスを信じている、信頼しているからです。望みをこのお方にかけているからです。
何故、そうできたのですか。それは、黒でしかない私ども、真黒に汚れ、けがれてしまった私どもを、主イエスがその黒そのものになられて、私どもを白くしてくださったからです。宗教指導者たちが引いて、私ども異邦人を外に隔てていたあの線を、私ども黒い者たちがいるところまで包み込むように線を引き直して下さったのです。それこそが、神の正義でした。ですからこの正義、審判は、愛そのものなのです。もう、自分のことを、わたしは片手の萎えた人間だから、神から遠い、わたしはああだから、こうだから、キリスト教とは縁遠い、神の恵み、信仰に入れない、そんな自分で決めた線を、破られるのです。だれでも、このイエスさまに望みをかけられるようにしてくださったのです。
この望みこそは、主イエスが呼び出し、召し集め、ひきつれて旅立たせて下さった新しい共同体、キリストの教会の望みです。こうして、私たちの正しさだとか、まじめさだとかによるのではない、ただ主イエスの憐れみによって与えて下さる真の安息が、ここで成就するのです。ここに来れば、天国の救い、まことの救いにあずれるという望みに生きれるのです。そして、この信仰と希望と愛によって始められた新しい共同体が、今や、全世界に打ち建てられつつあるのです。
改めて思います。主イエスによってそこまでしてくださるのかという憐れみを受けて、神に大切にされた私どもですから、自分と自分の人生を真実の意味で大切にしたいのです。自分自身とその人生を大切にするということは、キリスト者とされたことの意味を深く悟ることなしにはできません。そして、キリスト者とされた自分を大切にするとき、私どもの人生は必ずキリストへと向かって歩み始めます。ユダヤの会堂を出て行くのです。古い生き方から新しい生き方へ、古い共同体から新しい共同体へ、出発するのです。これからは、神の栄光のために生きてゆきたいとの志を与えられ、新しい一歩を踏み出す冒険へと出発するのです。この冒険を新しい共同体の仲間たちと共に重ねて行くのです。
祈祷
父なる御神、あなたの御子、私どもの救い主イエス・キリストの御名を心からあがめます。そして、ただこの御名にのみ、私どもは望みをかけます。御子において、私どもは救われ、神の子とされ、神の国の世継ぎとされたからです。それゆえに、どうぞ、私どもを御子イエスさま共に出かける群、教会として下さい。救い主イエスさまにならわせ、似せてください。主イエスにならって伝道に勤しむものとならせてください。ただ、父なる神の栄光、そのお喜び、その御心を実現するために、伝道する者たちとならせてください。アーメン。