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「キリストの復活-いのちのパン-」

「キリストの復活-いのちのパン-」
2011年4月24日 復活祭、加入式・洗礼入会式
テキスト ヨハネによる福音書6章34~35節
【そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」】

本日は、キリストのご復活を祝う復活祭の礼拝式を捧げています。そのために、説教のテキストは、マタイによる福音書ではなく、ヨハネによる福音書からと致しました。
先週は、皆さまのお祈りに支えられ、中部中会議長書記団として、東北中会の宮城県にある諸教会をお訪ね致しました。これは、中部中会としての公的な務めでした。
しかし実は、同時に、名古屋岩の上伝道所としてのディアコニアも担いました。先週、皆さまと手分けをして透明ビニールに入れていただいた手作りのケーキやクッキー、200袋ほど、その他にもさまざまな物資を、被災教会、そして避難場所とされていた亘理小学校には、直接、お届けしました。その他にも、女川という場所に北中山伝道所の坂本牧師が訪ねられるということで、30袋余りをお届けしました。そこでも、一番、喜ばれたのは、声をだして喜ばれたのは、手作りのものでした。トラクトもその一つのようでした。その小さなカードには、アンパンマンの絵、そして、励ましの言葉を添えました。アンパンマンの手作りクッキーは、食べるのももったいないほどかわいいものです。そのようなものこそ、避難生活が長くなればなるほど、喜ばれるのだと思います。

さて、このアンパンマンは、やなせたかしさんというキリスト者が、つくられたキャラクターです。世界でもっともやさしく、何よりも弱いヒーローなのかもしれません。アンパンマンは、なんと自分の顔を食べさせて、困っている人を助けるというのです。しかし、雨に弱く、しばしば、パン工場に戻って、新しくされなければならないとも言うのです。アンパンマン自身が、パン工房のジャムおじさんによって手当をされる必要があるわけです。何か、教会や牧師のイメージがそこに重なって見えるのは、わたしだけでしょうか。
しかし、聖書を読んでいる人であれば、このアンパンマンというキャラクターが、他ならない主イエス・キリストからインスピレーションを受けたものであることは、余りにも明らかな事実として受け止められることと思います。
主イエスは、今朝の聖書の個所で、このような自己紹介をなさいました。「わたしが命のパンである。」これだけで、もはやアンパンマンと主イエスとの結びつきは、明らかです。

いったい命のパンとは何のこと、何を意味しているのでしょうか。それは、私どもが手作りしたアンパンマンのクッキー、ケーキなど、この地上で食べる食物のことではないことは、明らかです。一度食べたら、もはや飢えることがないような不思議な食物なのです。
マタイによる福音書では、主イエスは、こう仰せになられます。「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」つまり、神が語られることば、神の言葉の説教によって、その一つ一つによって、人間は生きるものなのだいうのです。いのちのパンとは、神さまの御言葉のことなのです。
それに対して、今朝、お読みしましたヨハネによる福音書で、主イエスは、その御言葉とは、他ならないイエスさまご自身のことだと言うのです。「わたしが命のパンである。」さらに、このパンを食べるということは、主イエスご自身のもとに来ること、主イエスを信じることなのだと言います。「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
実に、私どもは今朝、まさにこのイエスさまのところにやってまいりました。そして、主イエスを信じているのです。つまり、飢えることもなく、渇くこともない、決定的な食べ物、飲み物を頂いているわけです。

さて、今朝の個所は、どのような文脈の中で語られた説教であるのか、まず、最も基本的なこと、大切なこととして確認しておきましょう。主イエスは、ある日、成人男性だけでも5000人もの人々、つまり、優に1万人を越えるであろう大群衆が、主イエスに憧れや求めを抱いてついてくるのをご覧になられます。すでに、お昼時になり、彼らは、食べるものもなくお腹をすかしていました。そこに、一人の少年が、おそらくは自分たちのお弁当としてもっていた5つのパンと二匹の魚を差し出します。主イエスは、この大麦のパン5つと、魚二匹を神に感謝して、それを、群衆に欲しいだけ分け与えられます。そうすると、全員が満腹したのでした。そればかりか、パンくずだけでも12の籠がいっぱいになったのです。群衆は、ついに、この奇跡を体験して、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である。」と言いました。
 ここからまさに大群衆を引き連れて歩く、ユダヤのまさにヒーローへとなり行く可能性が完璧に開かれます。イエスさまこそが、自分たちの王となるべき人だと熱狂的に歓迎される土壌が、がっちりと据えられたわけです。

 さて、もしも、主イエスが、そのようなこの世的な力、人気、権力を持とうとするならこの群衆の心をそのままキャッチして、彼らに耳障りとなる言葉を語らず、これからも、時々は、食べ物を与える奇跡を起こし、皆が聞いて喜ぶ言葉を語っていれば、あるいは、聞きやすく耳障りにならならい表現をなさったならば、まさに間違いなくイスラエルの歴史上最大の預言者、スーパーヒーローになることがお出来になられたはずです。
 ところが、主イエスは、今朝、読みましたような御言葉を語り続けられたのです。その結果、どうなったのでしょうか。ヨハネによる福音書は告げます。「弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」群衆からだけではありません。実に、弟子たちの中からも聞くに堪えないとの痛烈な批判が主イエスに浴びせかけられました。さらに、ヨハネは記します。「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」せっかく、すばらしい奇跡を起こして、群衆たちの心をそれこそわしづかみすることがお出来になられたのに、群衆たちだけではなく、弟子たちからも愛想をつかれるような説教をなさったのです。
これは、今日のキリスト者が目を閉じてはならない現実であります。聖書やキリストが、真実に語られるところでは、このようなこともまた、起こること、それは、説教者はもとより、教会員全員がわきまえるべきことなのです。

さてそれなら、主イエスはいったいここでどのようにして、多くの人々をつまづかせてしまったのでしょうか。何によってそうなったのでしょうか。それもまた説教でした。どんな説教、どのような表現によって、人々は躓いてしまったのでしょうか。
おそらくは、「わたしが命のパンである。」これだけ仰ったのであれば、まだ、良かったのだろうと思います。しかしこの説教は、このように結ばれてまいります。「イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」
この説教の後、私どもは、ただちにパンとぶどうジュースを頂きます。つまり、聖餐の礼典にあずかります。聖餐の礼典で用いられるパンとは、まさにここで主イエスが仰った「命のパン」を意味します。そしてそれは、主イエス・キリストご自身の命そのものを示すものに他なりません。また、ぶどうジュースが用いられます。それには、赤と白があるでしょうが、教会は常に赤いワイン、葡萄汁を用いてまいりました。言うまでもなく、主イエスの御血、とりわけ十字架の上で流された血潮を示すものだからです。

今朝、私どもは特別の聖餐にあずかります。それは、たった今洗礼を受けられた牧野兄弟とともに初めて主イエスの聖餐の食卓に連なるからです。その意味では、兄弟にとって初めての主の食卓のもてなしを受けるだけではありません。私どもにとってもまた、初めての主の食卓の祝いになるのです。新しい名古屋岩の上教会の形、輪郭が今日、新しくなるのです。いよいよ、鮮明になるのです。
これまで兄弟は、主イエスを信じて来られました。けれども、洗礼を受けられてはいませんでしたから、今日から、天国に入るその日まで、兄弟は、聖餐の礼典へと招かれ続け、あずかり続けて行かれることを信じています。
さて、そこで改めて考えてみたいことがあります。私どもキリスト者にとって、聖餐にあずかるということは、あった方がよいけれども、あずかれなくとも信仰の歩みに支障はないという、そのようなものではないということです。
ところがもしかすると、私どもは、自分のこれまでの経験、体験から、いや、聖餐にあずからなくとも信仰生活はそこそこやって行ける、やって来られたという方がもしもいらっしゃれば、事は重大です。
たしかに、言ってみれば、「そこそこ」やって行けるかもしれません。さらに言えば、毎日、聖書を読んでお祈りしなくても、信仰者、キリスト者であることを止めているという意識を持つことはないでしょう。そこそこ、キリスト者として生きているわけです。けれども、もしもそうであれば結局、「それまで」の信仰者ということではないでしょうか。
いったい、キリスト者とは、どのような存在なのでしょうか。今朝、洗礼を受けて名実ともに教会員、キリスト者となられた兄弟、そして正式に教会員となられた兄妹とともに聖餐を祝おうとしている今、まさに今一度、キリスト者とは誰か。どのような人なのかを、聖書から確認したいのです。

教会は、2000年の間、とりわけ、私ども福音主義の教会、改革派教会は、いついかなる時にも、聖書の朗読と説教つまり神の御言葉と主イエス・キリストが制定された礼典とによって、礼拝をつくり、教会を建て上げてまいりました。なぜかと言えば、この二つが「命のパン」をもたらす神の恵みの手段だからです。したがって、キリスト者にとって、この二つがなければ、生きてゆけないのです。キリスト者にとって、主日礼拝式において、礼拝にあずかることによって、このパンを受けることなしに生きてゆけないのです。
もとより、救われなければ、主イエスを信じてキリスト者とされなければ、神の子とされなければ、聖餐の礼典にあずかれなくともかまいませんでした。聖餐にあずかれなくとも痛くも痒くもありません。聖餐など、まったく価値を認められなかったのです。
しかし、今朝、洗礼を受けた兄弟にとって、今日からはそうではありません。もはや、この聖餐なしに、生きることはできなくされたのです。
何故でしょうか。兄弟が、生き返ったからです。復活したからです。新しいいのちに甦らされたからです。キリストと結びあわされたからです。洗礼によって古い生き方、これまでの自己中心の生き方は、キリストとともに死んでしまったからです。洗礼を受けた人とは、キリストとともに十字架につけられてしまった人なのです。今、生きているのは、今、生かされているのは、兄弟のために死んで甦られた方とともに生きるためなのです。洗礼を受けたキリスト者である私どもは、もはや、キリストと離れて生きてゆくことはできないのです。信仰によって生きること。これこそが、キリスト者の新しい生き方なのです。それは、キリストの命に触れられ、キリストのいのちに自ら触れて行く、新しい生き方、あり方です。
その人には、もはや、キリストの教会が不可欠になります。キリストの体なる教会における説教と聖餐とが不可欠になります。キリストなしには生きれないからです。キリストに頼って、すがって生きる以外に生きれない人間にされたのです。していただいたのです。
その意味では、まさに、弱い人間とされたのです。しかし、主イエスは、教えてくださいます。それこそ、本物の人間。それこそ、真のいのちを生きる人間だということです。その人こそ、実に、神の前で永遠に生きることのできる人なのです。そして、信仰と希望と愛に生きることができる者として、新しく生まれた人なのです。その人は、人生の中で、どんな困難にあっても、いかに厳しい苦しみを味わっても、どれほど深い悲しみに沈んでも、どれほどの恐れに取り囲まれてもなお、へこたれないで立ち上がれる人に変えられるのです。
しかも彼の強さは、ただ単に、自分のために何かの力を発揮するのではありません。自分の喜び、自分の幸福、自分の夢を実現させるために力がわくのではないのです。そこにある秘密があります。神秘があります。

そのことを考えるとき、改めて最初に申し上げたアンパンマンのことを思い起こさざるを得ないのです。アンパンマンは、これまでのヒーローのイメージを壊しました。異なっているのです。どこが違うのでしょうか。それは、アンパンマンが、やさしく、しかもときにか弱いと言えるほどのヒーローだからです。
彼は、困っている人、傷ついている人、大変な目に遭っている人に、自分がもっている何か特別の力をもって、戦うのではありません。なんと、自分自身を差し出してしまうです。自分の顔、つまり、それは、アンパンなのですが、それを傷ついている人に分け与えてしまうのです。
それは、何を意味しているのでしょうか。それは、キリストご自身が私どもにしてくださったことに他なりません。

東北、関東の沿岸地域で、3万人に近い方々がお亡くなりになられたり、不明のままです。震災後、40日を過ぎてなお、避難場所で暮らす方々は、10数万人です。まさに日本の歴史始まって以来の、最大の災害、地震と津波の被害です。とりわけ愛する家族を、一瞬のうちに奪われた方々の悲しみを思えば、言葉がありません。しかし、先週の受難週、あらためて思わされました。歴史が始まって以来、いかなる悲劇にまさる悲劇は、神の御子、罪を犯したことのない神の御子イエス・キリストが十字架につけられたことです。しかも、最後には、愛する父なる御神から、私どもの罪の刑罰の身代わりとして、神の裁き、神の怒り、神の呪いを十字架の上でことごとく受けられたのです。苦難の杯の一滴残らず、飲み干されたのです。こうして、東日本大震災の被災者のお一人おひとりの悲しみや苦しみや、怒りや嘆きのすべては、キリストの十字架によって吸い取られて行くことが可能なのです。イエスさまによって、癒されない悲しみも苦しみも嘆きもないのです。この地上に、あの十字架にまさる悲劇はないからです。しかし、イエスさまは事実、十字架で苦しまれました。傷つかれました。最後には、神に罰せられ、捨てられ、見殺しにされたのです。
しかも主イエスは、徹底的に父なる神を愛し続け、信頼し続け、神への賛美を貫かれたのです。こうして、父なる神は、このお方の死を、よしとされました。十字架の死を、私どもの罪の贖いの代価として受け入れ、全人類の罪の代価として十分とされました。
主イエスは、私どもを救うために、ご自身が、まさに、傷つかれたのです。主イエスこそが、真実の意味で弱く、傷つかれるヒーローの原型なのです。ご自身が、血を流されることなしに、傷つくことなしに、私どもの傷は、決して癒されないことを主イエスはご存じであったのです。

さて、このイエスさまが、私どもにいのちのパンをふるまってくださいました。そのようにして、私どもを救ってくださるのです。そのようにして、私どもの隣人となられるのです。そしてそれは、実に、私どももまた、いのちのパンを食べることによって、飢えることのない人間とするためです。実に、わたしども自身をも、いのちのパンそのものとなさるのです。つまり、キリスト者とは、キリストのしもべであるように、自らアンパンマンとされた人のことなのです。
アンパンマンは、いつも自分のために生きていません。誰かのために、その役に立つように、助けるために生きているのです。そして、いざとなれば、ただちにパン工場の煙突から飛び出して行きます。それは、彼自身が傷つくことを、覚悟して出かけているのです。彼自身を与えに行くのです。
それは、まさにキリスト者のイメージなのです。もしも、アンパンマンがいついかなるときにも、パン工場にとどまっているなら、少しも傷つきません。安楽です。
けれども、彼は、誰かが困っていたり、悲しんでいたり、泣いていると飛び出します。ところが彼もまたしばしば、傷ついて、ヨレヨレになってしまって戻るのです。彼を手当てしてくれるジャムおじさんのいるパン工場へと戻ってくるのです。わたしは、そこに教会や牧師のイメージを見ます。アンパンマンは、傷つくことを恐れず、出てゆくのです。私は、この説教を準備しながら、あらためて、自問しました。私どもの教会は、はたしてそのような教会になりえているのか。わたし自身は、ジャムおじさんになっているのか、そのような真実の牧師たりえているのかです。何よりも、私どもの教会は、このアンパンマンを生みだしているのか、自問しました。そして、キリスト者とされた私ども一人ひとりが、アンパンマンのようになることを願います。そのとき、そのキリスト者にとって、毎日聖書を読むことがどれほど大切になるのか、聖書を読んで祈っていないと、元気がでないからです。キリスト者として戦えないからです。説教と聖餐の礼典がなければ、勇気がでないのです。何故、集会に出席したくなるのでしょうか。そのような人は、それだけ、毎日、神のために戦っているからです。傷ついているからです。この傷をいやされ、慰めることができるのは、ただ、主イエス・キリストだけだからです。皆さまが、そのように戦うキリスト者になってほしい、それが、わたしの祈りです。

主イエスは、「わたしはいのちのパンである」と宣言されました。それは、このパンを食べた人は皆、自分もまた、このいのちのパンを宿し、いのちのパンを持ち運ぶ人とするためです。主イエスは、ご復活されました。私どもを、復活のいのち、まことのいのちを与え、私ども自身をも、小さないのちのパンとするためです。

祈祷
私どもにまことのいのち、永遠のいのち、神のいのちを与えて、罪から救いだし、新しい人間として生まれさせ、神の子としてくださいました救い主のみわざ、十字架と復活を心から感謝致します。私どもは今、復活の力を注がれています。いのちを与えられています。このいのちの中で、私どもを自己中心から解き放ち、自分のために生きる古い生き方から、自分のために死んで甦られたキリストのために生きる、いのちの道へと、光の道へと、いよいよ導いて下さい。私どもの存在そのものが、人類の希望となりますように。教会が、いよいよ人類の希望の砦として用いられますように。信仰を富ましめてください