過去の投稿2011年5月8日

「不思議なポケット・主イエス」

「不思議なポケット・主イエス」
2011年5月8日
テキスト マタイによる福音書 第14章13-21節 
【イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。
夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」
イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」
弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」
イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。
そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。】

主イエスは、洗礼者ヨハネが、領主ヘロデ・アンティパス、権力者の愚かなメンツのゆえに、正当な裁判もなしに、惨殺されてしまった知らせを受けます。

そのとき、主イエスは、船に乗って、人里離れたところに退かれました。おそらく、主イエスご自身、激しく働かれた後でしたし、いよいよ洗礼者ヨハネのように、ご自分も十字架にかからなければならないことを予期して、しばらくゆっくりしたい、何よりも父なる神の御前で静まりたいと願ってのことだと思います。ところが、群衆は主イエスを追ってやってきます。主イエスは、休むことなく、激しい愛をもって、はらわた痛む愛、深い憐れみをもって、彼らに接し、病人を癒されました。

さて、本日の物語は、そこから始ります。ここには、男だけで5000人、つまり、ざっと1万人をはるかに上回る人々のために、主イエスが食事をふるまわれた奇跡の物語が記されています。実に、四つの福音書のすべてに報告されている出来事です。これは、実は異例のことです。唯一の出来事なのです。

そのことが意味するのは、この物語が、最初の教会にとって極めて大きなインパクトを与えたということです。教会にとってこの出来事は、絶対に忘れてはならないことと考えられていたのです。信仰的な意味で、霊的な意味で、まさに決定的に重要な真理をこの物語を通して、私どもは受け止めることができるのですし、しなければならないということだと思います。

もう一つには、これは、素朴に申しまして、人間にとって食べること、飲むこと、毎日、欠かすことができない基本的な営みです。主の祈りにおいて、主イエスが毎日、このように祈りなさいとお教え下さった第4の祈りは、「日用の糧を今日も与えたまえ」でした。「食べ物の恨みは怖い」と言いますが、食べ物の悲しい記憶も嬉しい記憶もいずれにしろ、忘れがたいものとなるからだとも思います。

さて、群衆は、主イエスを取り囲んでいます。主は、はらわたを痛める激しい愛をもって、病人をひとりひとり、次々と癒されていました。群衆は、そのイエスさまの癒しの奇跡を目撃していました。しかし、夕暮れが迫ってまいります。そこでついに、弟子たちが、言わば、主イエスと病人の間に、割り込むようにしてこう発言します。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」

弟子たちは、心配になっています。日暮れになり、皆、お腹もすいてきています。夕食の準備を始めなければなりません。お腹がすくということが、どれほど、生物にとってつらいことか、うっかりすると私どもは忘れがちですが、昔の人には、まさに毎日の三度三度の食事を得ることは、真剣なことであったのだろうと思います。だからこそ、弟子たちは、これは、大変だ、こんなに大勢の人々が、こんなところにとどまっていれば、お腹をすかせたままになる。危機感をもったのだと思うのです。自分たちもまた、同じ状況にあります。

ところが、主イエスはここで驚くべき言葉を語られます。とんでもないご命令をなさったのです。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」この時の、弟子たちの驚きは、どれほどのものであったかと思います。

牧会通信にも少し記しましたし、報告の折にも、口頭で報告がなされると思いますが、先週は、亘理伝道所を基地にして、お隣の山元町で炊き出しをさせていただきました。お昼と夜の100食分を用意いたしました。もとより、用意されたのは、姉妹方です。土曜日そして主日の午後、食材を準備し、調理することは、決して簡単なことではありません。200食を準備するだけでも、半日かかるのであれば、1000食、いへ、男性だけでも5000食が必要なのです。おそらくは1万食以上の食事のお世話を12人の弟子たちだけで、しなさいと言うことです。これは、いくら主イエスのご命令とはいへ、途方もないことではないかと思います。

もしかしたら弟子たちは、これをまじめには受け取らなかったのかもしれません。弟子たちはこのように応えているからです。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」つまり、弟子たちが言いたかったことはこういうことだと、わたしは推測いたします。

「ここには、私たちだけのお腹を満たすこともできないほどしか、食事はありません。さあ、イエスさま、しっかりと現実を見据えて下さい。現実は、「パン五つと魚二匹しか」ないということです。そのような無謀なことを仰らないでください。無謀なことと、信仰に基づく行動とは同じではないはずだと思います。イエスさま、私たちじしんも自分たちの食事の準備をしっかりやらないといけません。どうぞ、群衆を解散させ、私たちもまた、村に降りていって、なんとかいたしましょう。」

ところが、主イエスは、確かに現実である「5つのパンと2匹の魚」を「ここに持って来なさい」とお命じになられます。考えてみましょう。一体、どちらが「まことの現実」を観ておられるのでしょうか。

彼らは、男性だけで5000人の人々を目にして、この現実から逃避したのではないでしょうか。彼らは、自分たちには絶対にできっこない。考えられないと、この現実、5000人に食事を与える命令を拒否するのです。弟子たちの言葉のニュアンスを聞きとりましょう。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」つまり、「しか」ないという理解です。絶対無理ということです。「パンが5000食、魚が2000匹あれば、何とかしのげるかもしれない。いへ、たといそれが無理であったとしても、少なくともパンが500食と魚が200匹あれば、おままごとのようではあっても、皆の口に少しは入れられるかもしれない。けれども、「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」「絶対に無理です!」という叫びでしょう。

しかし、主イエスは、この厳しい現実から決して逃げたまいません。それゆえ、主イエスは、まじめに、真剣にこうお命じになられます。「それをここに持って来なさい」そうなれば、ここで主イエスは、こう考えておられる事が分かります。「そうですか、パンが五つそして魚が二匹もあるのですか。それは、すばらしい。それは良かった。」弟子たちの「しかない」という立場に立ったことに対して、主イエスは、「もある」という立場に立っておられるのです。だから、喜んで、「それをここに持って来なさい」と招かれるのです。

私どもの人生にも実にしばしば、この弟子たちの不信仰が幅を利かせるのではないでしょうか。いったい何度、何回、立ちふさがる壁を前に、襲いかかる試練を前に、「わたしの力はこれしかありません。わたしのお金はこれしかありません。わたしの、能力も信仰もこれしかありません。だから、もう無理です。もう、解散させて下さい。もう、やめさせてください。もう、やめます。」そんな呟きをしたことでしょうか。

弟子たちは、主イエスの驚くべき奇跡を目撃しているはずです。それでも、1万人を相手に、お腹を満たすことなど、それは、絶対に無理だと思ったのです。

しかし、主イエスは、厳しい現実から決して逃げたまいません。それゆえ、主イエスは、まじめに、真剣に「それをここに持って来なさい」とお命じになられます。そして、彼らは、言われた通りにします。つまり、ことここに至って、弟子たちは、主イエスに負けたのだと思います。負けるしかなかったのだと思います。「自分たちは、できない。けれども、主イエスがお命じになられることだけはしなければならない。ただ、それだけならできる。それをしよう。」こうして、弟子たちは、ただ、命じられる通りに、「5つのパンと2匹の魚」を主イエスのもとに運んだのです。

すると主イエスは、「群衆には草の上に座るようにお命じにな」られます。皆、そこで何が起こるのか、分かりません。予想もつかなかったはずです。弟子たちだけは、主イエスが何を起こされるのか、分からないけれども、緊張の面持ちで主イエスを見つめていたのだろうと思います。

さて、主イエスは、どうなさるのでしょうか。「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。」

おそらくいつものように食前のお祈りをなさったのだと思います。私どももまた、毎日、三度三度、短くても、食前感謝の祈りを唱えてから、ご飯をいただきます。基本的にはそれと同じ振る舞いと考えてよいと思います。
ただしもしかするとここで、一つだけ違ったことがあると思います。それは、主イエスがパンを裂かれたことです。パンを裂く、これこそ、この奇跡物語の中でもっとも大切なことであろうと思います。

五つしかパンがないのだから、ひとつのパンを皆で分かち合うため、分け合うためには、パンを裂かなければならないのは、当たり前のことと思います。、

しかし、この文章を読んでおりますと、ただ単に、そのような現実的な必要性のことだけが頭によぎるのではなく、皆さまの中でもすでにお気づきの方も少なくないと思うのでが、もっと、別のことを思う方もいらっしゃると思います。

「渡される夜、パンをとり、感謝してこれを裂き」今、わたしがこう語り始めるなら、キリスト者であれば、ほとんどの方がお気づきになられるかと思うのです。そうです。聖餐の礼典においてわたしが告げる言葉です。
この出来事が何故、四つの福音書に記されるのか、それは、必然的なことだとも言えます。なぜなら、教会は、その最初から、説教と聖餐の礼典とによって、神を礼拝し、主イエス・キリストを礼拝してきたからです。「パン裂き」と言えば、これは主の晩餐、聖餐の礼典を意味します。

もとより、このとき、そのようなことを理解した人は誰一人もいません。これは、主イエスが、十字架にかかってくださり、ご復活された後、弟子たちの不信仰の目が開かれ、真理を観ること、悟ることができたとき、ああ、あの5000人の給食の奇跡とは、この聖餐の礼典の先取りだったのだと気付いたのだと思います。そして、気付いたからには、福音書記者にとっては、どうしても、自分の福音書の中に、この奇跡の事実を記そうと考えたのだと思います。その意味では、主イエスがなさったいくつもの奇跡の中でも、もっとも大切な奇跡の一つだと、私どもの先輩たちは確信したのです。

弟子たちは、主イエスがいつものように食前の祈りを終えられて、弟子たちにそのパンと魚を配られます。配膳のためには、普通、おぼんが必要です。この時は、おぼんではなく、籠が用いられたのだろうと思います。主イエスから手渡されたパンと魚を籠の中に入れると弟子たちは、手分けして10000人にを相手に配り始めます。おそらく、ひとりづつ配るには、あまりに時間がかかりますから、リレー方式で配って行ったのだと思います。そうしているとなんと、籠の中から、どんどん、パンと魚が出てくる。まるで、魔法です。まさに奇跡の中の奇跡が起こったのです。

しかし、弟子たちは、これまで何度も主イエスの奇跡を目撃してきました。しかし、今ここでなされた奇跡とは、かつての主イエスの奇跡とは、一線を画しています。何が、どこが違うのでしょうか。これまでの主イエスの奇跡は、イエスさまだけがなさいました。しかし、今ここでは、この奇跡は自分たちの手の中で起こっているのです。自分たちなしにはこの奇跡は起こらないということです。このときの喜び、このときの驚き、一生忘れがたかったはずです。

そして、群衆のひとりひとりが喜んでいるのです。男性も女性も、高齢者も幼子も皆、パンをもらって喜んでいる。魚を食べて喜んでいる。皆、ニコニコしながら、食事を楽しんでいるのです。

さて、これは、いったい何を表すのでしょうか。この奇跡は、聖餐の食卓の原型となりました。私どもは、聖餐の礼典を、聖餐式とは呼びません。主の晩餐と言うのが、よりふさわしいのかもしれません。しかし、私どもは、聖餐の礼典と申します。主日礼拝式において、それに付け加えて聖餐式をするということではなく、主日礼拝式の中に本来、含まれているという理解なのです。ただし、洗礼入会式は、式として挙行いたします。

さて、もうひとつ、他の教会で生活をなさった方は、私どもの教会では、聖餐を祝うという表現に、ある思いを抱かれるかと思うのです。たしかに、聖餐は、ある意味では、イエスさまの体が裂かれ、血潮が流されたあの十字架を思い起こす時ですから、まさに厳かに挙行されるべきです。しかし、聖餐の礼典は、その一つだけの意味をもっているわけではありません。しかも、あの十字架の苦しみと死は、ただ単に、悲しみ、悲劇ではないはずです。そこに勝利があり、そこにすでに喜びがあるはずです。しかも、このお方はご復活なさったのです。ご復活なさった主イエスが、聖餐の主なのです。聖餐の礼典において、このご復活のイエスさまが臨在しておられます。そして、このイエスさまが、私どもにご自身のおいのちを意味するパンとぶどうジュースをふるまって下さるのです。それは、主イエスとの交わりに他なりません。そして同時に、主イエスとの交わりに生きるキリストの教会の交わりです。つまり、兄弟姉妹との交わりです。つまり、聖餐とは、天国の祝宴を、地上にあって先取りした祝宴なのです。聖なる宴会です。うたげです。だから、聖餐を祝うのです。

この聖餐を執行するのは、教会が任職した教師だけです。ただし、これを持ち運ぶ人は、教師以外も許されています。ただし、やはりそれは、教会の役員に限定するのが通常のことです。私どもは今、伝道所委員がそれを担っておられます。伝道所委員が、皆さまにお櫃を運びます。どこか、あのときの弟子たちと重なります。弟子たちは、自分の籠からどんどん、パンが増えて行く奇跡を、手ごたえとして感じました。そして、喜びにあふれました。人々の笑顔はもとより、何よりもイエスさまがどなたであるのかを、しみじみと知らされたからです。イエスさまは、救い主、王の王、まさに神の子なのだと実感させられたと思います。そのイエスさまが、自分たちと共にいて下さる、私どもの真ん中にいて下さる、その喜びです。

さて、このとき、10000人の人々が「食べて満腹した」と言います。
余ったパンの屑は、12の籠にいっぱいになったと言います。ちぎったとき出たものなのかもしれません。マタイは、「満腹した」と言います。これは、文字通り、いっぱい食べることができたということを意味していると思います。しかし、同時に、わたしはこのような思いを皆が抱いたのだろうとも思います。それは、こんな人里離れたところで、皆でパンを食べることができた喜びです。皆で、パンを配りあうことができた。皆が行き渡るようにと、後ろの人に行き渡るようにと配慮しあうことができた、その満足感ではないかと思うのです。

私どもの教会は、この聖餐の食物を頂くとき、必ず、皆でそろって口に致します。ときどき、余所の教会にまいりますと、そうでない仕方の執行者がおられます。わたしはやはり、こだわります。皆が行き渡ってから頂くのです。それは、皆で頂きたいからです。これは、わたしの想像です。このとき、最初に手渡された人たちは、勝手に食べ始めたのではないのではないかということです。自分だけ食べれたらもうそれでよい、後の人のことは、知らない。そうではなかったのではないかと思うのです。つまり、群衆の心が、このとき、不思議に一つになっている。今晩のごはんにはありつけないかもしれないと不安に思っていた人々が、イエスさまによってもてなされ、お腹が満たされただけではない。心まで満たされたのではないかと思うのです。それは、主イエスの奇跡のおかげですが、しかし、弟子たちの奉仕がそこにあるのです。しかも、それだけではなく、群衆たちもまた、協力しあったのです。それこそが、人間の真実の満腹ではないか、そう思います。

キリスト者の優れた詩人、まど・みちおさんの作品に「不思議なポケット」という詞があります。

 「ポケットの なかには ビスケットが ひとつ
  ポケットを たたくと ビスケットは ふたつ
  もひとつ たたくと ビスケットは みっつ
  たたいて みるたび ビスケットは ふえる
  そんな ふしぎな  ポケットが ほしい
  そんな ふしぎな  ポケットが ほしい 」

 子どもの頃、「そんなポケットがあったら、いいよなぁ」と考えたことがあります。しかし、すぐに心のなかで、こう決着をつけて終わりました。「あるわけない!」

 しかし、今では違います。わたくしは、そのポケットを持っているし、使わなくてはならないと信じ、考えています。実は、この不思議なポケットの「種明かし」はごく簡単です。誰のどんなポケットでも、ビスケットを入れてたたいてみれば、割れます。二つになっているわけです。ただし、「大人の考え」によれば、こうなるのでしょう。「ああ、もう商品にならない!」

 しかしもし、割ったビスケット一枚を、持っていない人と分かち合うなら、その喜びも、その幸せも、そのうれしさも、全部二倍になるのではないでしょうか。つまり、嬉しさ、幸せ、喜びは二人のものとなるのです。二人の間には、ビスケットの甘さといっしょに、いえ、それ以上に、気持ちの優しさや友情が味わわれ、深い絆が結ばれるでしょう。詩人は、これを歌う私どもに、このように気づいて欲しいと願っているのではないでしょうか。「あなたの大切な『ビスケット』を独り占めしないで、必要としている誰かと分かち合ってみたらいかがですか!」

 この大震災におきまして、未信者の方々が、被災地に入って、被災者の方々に炊き出しを行っておられる場面に遭遇いたしました。すばらしいことです。心が動かされます。この不思議なポケットの詩は、主イエスが共にいて下さらないところでも有効なポケットが人間には与えられているということだと思います。しかし、今朝、私どもは、聖書そのものを読んだのです。まことの不思議なポケットとは、何か。どこにあるのか、それは、実に、主イエス・キリストが共にいて下さるという現実にあるのであります。主イエスが私どもと共に臨在しておられる場所、そこでこそ、奇跡が起こるのです。不思議が起こるのです。そして、それは、まさに今ここで、名古屋岩の上教会の礼拝式で起こっていることに他なりません。

主イエスは、私どもに今朝も、「いのちのパン」を与えていてくださいます。このイエスさまが共にいて下さる限り、私どもには、実に、「五つのパンと二匹の魚」しかではなく、「それほどまでも」与えられてあるのだと認めることができるのです。名古屋岩の上伝道所は、まことに小さな群れではありますが、だからと言って、自分たちは、5000人を相手にできないと考えてはならないはずです。もとより、お金も物も、まさに限られています。しかし、私どもが与えられているものを、主のもとに差し出すなら、いかがでしょうか。それは、100倍、60倍、30倍となるでしょう。不思議なポケットは、教会にこそ、与えられているのです。不思議なポケット、それは主イエス・キリストごじしんです。地上にあって、キリストの体なる教会のことです。このお方のもとに、教会に、あるがままの自分を差し出せば、主が奇跡を起こして用いて下さいます。主イエス・キリストが共にいて下さる限り、私どもは神の「いのちのパン」の豊かさを生きることが許されるのです。

祈祷
私どもに今朝もまた、いのちのパンを豊かにもてなし、ふるまって下さいまり、天国の喜びを味わわせて下さいます主イエス・キリストの父なる御神。どうぞ、私どもが厳しく、困難な現実の前で、そびえたつかのような壁を前にして、途方に暮れ、あきらめそうになるとき、あなたが共にいて下さることを、確信させてください。あなたに、じぶんじしんを差し出す信仰を富ましめて下さい。今、多くの方々が、家を失い、職場を失い、厳しい試練のただなかに置かれています。どうぞ、助けて下さい。あなたからふるまわれるこの豊かないのちを分かち合わせて下さい。そしてまた、私どもに与えられた物、物資やお金を分かち合うことへと、奮い立たせて下さい。そのようにして、地上にあって共に天国の満腹感を味わうことができますように。アーメン。