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「教会のディアコニア」・オリエンテーション

2011年10月6日

 
Ⅷ 伝道の突破口としてのディアコニア?
20世紀、第一次大戦後、神学において教会論を再構築するための議論が盛んになされた。その中で、「世のための教会」(カール・バルト「和解論」第3部 1959年)は、ドイツ告白教会の戦いを経て、世界のキリスト教界に大きな影響を及ぼすこととなった。我々もまた、前述の「バルメン宣言」等から大いに学ぶ必要がある。

「世のための教会」とは、本来、教会の自己目的化への批判である。つまり、教会が自分たちの楽しみ・幸福のために存在していると思いこむとき、教会は、教会員ごのみの教会運営を目指し、「宗教化」して行く。(ここでの「宗教」とは、人間の宗教的欲望を満たす手段の意。)教会とは、神に招集(エクレシア)された神の民であり、神から世への派遣される民である。したがって、常に派遣という動きが欠くことは本来あり得ない。つまり、この世に奉仕する共同体である。しかしその一方で、戦後日本のキリスト教界(とりわけ日本基督教団)において、この真理契機を生かせず、かえって、教会がこの世になることを目指すかのような実践や、教会をこの世に解消する議論が起こった。

戦前戦中の日本の教会は、国策であった「宗教報国」の宗教施設と成り下がった。それなら、戦後はどうか。「宗教報(個人)」「宗教報(繁栄・健康)」「宗教報(成功)」ではないか。どちらも、神を第一にしない。キリストの主権に服さず、キリスト者の楽しみ、慰みを中核に置く。この方向性に徹底して抗うのが改革教会たる我々名古屋岩の上伝道所であったし、これからもそうであらねばならない。

我々の国は、江戸時代そして明治新政府と、徹底して「キリシタン邪宗」「耶蘇教」として宣教を禁じ、弾圧した。明治における開教とは、欧米列国の圧力に屈しただけで、国体に合致しないと言うキリスト教敵視政策は、堅く継承された。その中にあって、日本のプロテスタントは、開教以来、キリスト教と「国体」とは矛盾しないことを弁明しつつ、自分たちの居場所を確保するために意を注ぐこととなった。しかしそもそも、天皇絶対制、天皇神聖国家と聖書の信仰や世界観とが矛盾するのは日の目を見るより明らかなはずである。それをきちんと見抜き、対処することを怠った故に、日本の教会は、15年戦争へと協力を余儀なくされ、ついには、教会の自律も教義の正統も犠牲にして、形式上、制度上だけのキリスト教会の存続・保存のために、自らを異端化したのである。

-ただし、我々の先輩たちが生きた時代はまことに厳しかった。万一、我々が現在おかれた状況の中で、悔い改めの実りとして、克服の戦いを重ねていないのであれば、先達を批判することは、軽薄な行為と言わざるを得ないであろう。-

我々が、市民、国民に認められるキリスト教になるために、よい業、事業(教育、医療、福祉等)をしよう、キリスト教がいかに国家にとって有益なものであるのかを立証しようと企て、励むことは、伝道への誘惑として斥ける覚悟が求められている。教会の業にとって、第二、第三のことを、第一に据えるとき、重大な、とりかえしのつかない罪を犯すことになる。我々は徹底して、「ただ神の栄光のためにという神奉仕へと姿勢を整えることが求められている。神を愛し、それゆえに隣人を愛するという、この信仰の論理・順序を決して揺るがせにしてはならない。そしてそこでこそ、真実の神へのディアコニアが、隣人へのディアコニアへと結実させられるのである。
我々の神は徹底して人間へ、主キリストは徹底して人間の救いへと進み行かれた。「仕えられるためではなく、仕えるために来られた」のが主イエスであられた。したがってこのキリストに仕える、服従する教会とキリスト者は、ただちに隣人へと仕える道筋へと規定されることとなる。ここに教会のディアコニアがある。

※ 私どもは、説教や教会生活においてキリスト教用語をカタカナで用いることを極力避けて来ました。(降誕祭・聖霊降臨祭・復活祭等・・・)しかし、ディアコニアだけは、熟慮の末、そのまま用いざるを得ないと考え、使用しています。

日本キリスト改革派教会創立20周年宣言の【伝道】の項目において、「愛の執事的奉仕」という用語が登場します。「キリスト教伝道の実践にあたっては、み言葉によるのみでなく、愛の行ないにもよるべきことが、主イエス・キリストのみ教えと模範である。わが教会の伝道も、神学と愛の執事的奉仕とを一元的に実践するものでなければならない。」

私どもは、加入以来、「20周年宣言を生きる教会」の標語を掲げ続けてまいりました。ただし、「愛の執事的奉仕」の広がり、徹底において、日本キリスト改革派教会のその後の歩みが、今まさに、問われているのではないでしょうか。私どもは、ディアコニアを、教会外では、時に応じて、「愛の執事的奉仕」と言い換えてまいりました。しかし、冒頭(ディアコニアの用語解説の項)にも記したとおり、ここで、改めて確認したいと思います。御言葉のディアコニアと仕えるディアコニアは、ディアコニアとして一つにくくることができます。つまり、ディアコニアとは、キリスト者と教会の使命と本質を明らかにする大きな概念であり、用語なのです。そして、20周年宣言で既に自己批判したように、愛の行い、愛の執事的奉仕としてのディアコニアの神学的議論と実践は、今まさに始まろうとしているし、始めなければならないでしょう。新しい「信徒の手引き」が少しでも用いられますように。

Ⅸ 教会内のディアコニア
 政治基準に基づけば、「伝道所委員」とは「執事」職の雛型となる。執事職には、自ら先頭に立って奉仕に励み、会員の模範となることが求められている。しかし、会員の奉仕のコーディネーターまた触媒となることこそ、さらに重要な務めである。

 冒頭にあげた、「全会員が執事的奉仕者」という文言こそ、この学びの結びにふさわしい。キリストの体なる教会は、全キリスト者によって、しかも現住陪餐会員を中軸として形成される。神はキリストの体の肢体のそれぞれに聖霊の賜物を授けられている。それは、まさに多様な賜物である。この賜物は、まさに神の賜物である。したがって、常に、ディアコニアのために与えられているものである。会員こそ、執事的奉仕者であり、そこへと召されている。

 牧師の務めは、エペソ第4章(新改訳)にこう定義されている。「キリストご自身が、~ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるため~」将来の長老、執事候補者である伝道所委員は、この牧師の働きを助け、共に担い、また固有の職務をも担う。そして、現住陪餐会員こそ奉仕の働きを捧げて、キリストの体なる教会を建て上げ、形成する職務者に他ならない。それが、全会員が執事的奉仕者の意味である。

 今、名古屋岩の上伝道所の教会奉仕で足らない部分はどこか。誰かが過重になりすぎていないか。全員が「責任的」な奉仕を担うことが、求められている。しかも強いられてではなく、「自由」にである。
会員のすべての賜物、技能、特技、時間をディアコニアに捧げられないか。牧師の事務的働きを「助ける」ことも基本的奉仕。土曜日(主の日の為の備え日)の問題。
「車の運転、介護、料理、手話通訳、点訳、翻訳、通訳、コンピュータ操作、楽器演奏、カウンセリング、教育、特殊教育、語学教育、印刷、校正、ガーデニング、掃除、営繕、健康指導等々・・・。」

Ⅹ 地域社会へのディアコニアを考える(我々の課題・本論!) 
①日曜学校伝道を教会のディアコニアの視点から捉えなおす。
②教会の使命を深く捉え続け、自己目的、自己満足などを克服し、隣人と「なる」教会へ。
③教会の社会的(政治的)発言をさらに強固に。
④岩の上伝道所の会員として、市民運動に連帯する可能性。
⑤「少数者」「弱者」「周辺に押しやられた者」「良心的な戦いをしている者」「サマリアにいる人」を探し出し隣人となる。
⑥キリスト者の職業・事業としての「福祉施設」の可能性を考える。

「朱基徹牧師の場合は人に殉教を説き勧めるのでなく、自分で証しを立てたから 本当の証しになったのであって、私たちが不用意に論じると、人を死地に押しやって自分は生き残ることになりがちで、これは日本軍の特攻隊でもそうだし、イスラム過激派の自爆テロも同じ構造です。そうなることが怖いのです。説教の中で仰ったように、殉教者を出さない社会になるように祈りまた労するほかありません。これはディアコニアの課題だと思います。」(渡辺信夫牧師からのメールより)

5年ぶりに読み返し、筋道のたった展開とは程遠く、恥じ入るのみですが、基本的な考えに変更はありません。
3:11以降の、特に実践面における気づきは、時間の余裕を確保した暁に、と思います。
下記、中部中会設立50周年記念信徒大会(2009年4月7日)の「教会の言葉」に、ディアコニア宣言があります。先立つこの学びがなければ、「ディアコニア」への言及は、なかったかもしれません。

経済的独立を果たし政治的独立を目前にする今、この記録を熟読しておさらいし、ひとり一人の課題を聖霊にはっきりと示して頂き、下記の宣言になお真実に生きてまいりましょう!

「教会の言葉」
日本キリスト改革派教会 名古屋岩の上伝道所
「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」との主イエス・キリストの約束に立ち、「ここに神の教会を、ここに聖餐を囲み、キリストだけを主と告白する慰めの共同体を形成させて下さい。」との切実で真剣な祈りの内に開拓伝道を始め、やがて「創立宣言」に共鳴し、「聖霊の力あふれる教会」の形成を自らの課題としてまいりました。

神の民の祈りの家である私どもは、徹底的に主日礼拝式を正しく捧げることに励みます。教会は、「御言葉によって絶えず改革される」からです。生ける神は、今ここで語られる御言葉の説教に正しく聴き従い、目に見える御言葉である聖餐の礼典を真実に受領することにおいて、私どもの間に神の国の力を現わされます。主が再び来られる日まで、生けるキリストと天上の礼拝に結ばれ、神の命と喜びに満たされ、兄弟姉妹に慰められ、愛の絆で結ばれて行きます。そのためにまた、学びの家である私どもは、全力を注いで週日の祈祷会や読書会を重んじ、教理体得の道を進みます。

キリストの福音によって救われた私どもは、神の国の到来を告知する伝道に、教会を挙げて献身します。伝道こそ、教会の存在理由だからです。私どもは、この町に住むすべての人々に平和の福音の種をまき、収穫にいそしみます。また、目を挙げて世界の現実を直視し、教会のディアコニアを担い、隣人となる努力を始めます。とりわけ子ども達への伝道、キリストの主権と人間の尊厳を破壊する動きに対する戦いを、重大な責任と自覚し、霊的、実践的な訓練を受けることを喜び、課題とします。

15年の歩みを振り返れば、祈りに応えて下さる神の恵みの勝利は鮮やかです。日本キリスト改革派教会名古屋岩の上伝道所の会員であることは、私どもの誇りです。しかしなお、道半ばです。父と子と聖霊の御神よ、克服すべき課題を示し、一日も早く経済的自立と教会設立へと導いて下さい。ただ神の栄光のために。